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生活環境主義

メディアは、毎日のように、地球の温暖化や生物多様性の減少など、環境問題が急速に悪化していることを伝えている。そして、私たち1人1人の生活を環境に優しいものに変えていこうと呼びかけている。こうしたエコ推進への呼びかけに応じて、自分の生活を反省し、もっと環境に配慮しようと進んで行動に移す人もいるだろう。しかし、やましさを感じながらも適当にやり過ごすか、いちいち気にしてはいられないと無視することもあるだろう。いったい、私たちは環境問題に対して、どのように向き合い、取り組めばよいのだろうか。

私たちの社会が自然環境と根本的に対立すると捉えてみると、そこから2つの考え方が生まれてくる。1つは、健全な生態系を守るべきだとする「自然環境主義」である。具体的には、すべての人間は地球にとって迷惑だから人口を計画的に減らすべきであるとか、自然環境を守るためには産業革命以前の生活水準に戻るべきという主張となって現れる。もう1つは、科学技術が最終的に問題を解決するという「近代技術主義」である。たとえば、巨大な密閉空間の中に人工的に生態系を作り、その中で自給自足しながら生きればよいという発想が出てくる。

しかし、このような解決策をそのまま社会に適用すると、しばしば無理が生じてしまう。フィールドワークを重視する環境社会学者たちは、そうした事例をたくさん見てきた。では、どう考えるべきなのか。机上の空論ではなく、調査して得られたデータからいえる範囲のことを主張する。そのためには、ある特定の地域環境の中で人びとがどのように暮らしているのかを観察し、そこから環境との関わりの基本的な構えを導き出すのである。

このようなスタンスから生まれたのが「生活環境主義」である。この立場は、1980年代に琵琶湖周辺で実施されたフィールドワークを土台にして生まれた。人間と自然を対立的にみる従来の考え方が、地域社会の論理とかみ合わず、住民の心に響かないことを実感し、現場の違和感を言葉にしていく中から生み出されたのである。

ここで、生活環境主義者たちが信頼したのは、自然保護を訴える市民運動家でも、近代技術の発展を説く科学者でもなく、1人1人の平凡な生活者であった。居住者の視点から見ると、人びとが大切にしている環境とは、日々の生活を支えている地域社会の資源やしくみ(生活システム)であることがわかった。つまり、地域社会とそれを取り巻く生活環境は切り離せない関係にあり、この関わりを丸ごと保全する必要があると気づいたのである。だから、生活環境主義では、生活システムを守れるかどうかが、地域の環境課題を見つめるときの重要な基準となる。これは、生態系(エコシステム)を守れるかどうかを判断基準とする自然環境主義とは異なっている。

それでは、生活システムが保障されれば、その地域の環境はおのずと良くなるはずと考える生活環境主義の根拠はどこにあるのだろうか。それは、フィールドワークの経験にあるといえる。琵琶湖周辺の地域社会では、昔からウミ(湖)と深く関わって生きてきた。人びとは、ウミとつながる水路から家に水を引き、その水を飲み、野菜を洗い、洗濯にも使う。川や湖の魚の生態を理解し、上手に捕って大事に食べる。また、同じ川の水を使う人の間には、上流の人は下流の人のために水を汚さないという信頼関係もあった。お互いに顔と顔が見えるような信頼できるコミュニティがあるからこそ、安心して水と深く結びついた暮らしを持続できたのである。

生活環境主義では、これを「小さなコミュニティ」と名づけ、地域の環境を守る防波堤と考えている。逆に、基盤となるコミュニティが壊れると、その地域の環境も崩れてくるという。小さなコミュニティを調査して明らかになったのは、住民の生活を維持するための約束事=ルールがあることによって、結果として地域の環境が守られてきたことだった。とくに、地域内の共有地だけでなく、田畑などの私有地に対しても土地の所有・利用に関するルールがあり、そこで作動している権利が重要であるとわかった。これは「共同占有権」と呼ばれ、コミュニティを維持するための強固な権利である。たとえば、自分の田畑を処分したり地目変更したりするときも、共同占有権に基づいて決定され、その後、現行法でつじつま合わせをすることが見られるというのである。

このように生活環境主義とは、ある地域の居住者を主体として、その視点から生活環境を観察し、人と環境のあるべき関わり方を考える立場なのである。

松村正治(2009)「生活環境主義」鳥越皓之・帯谷博明編『よくわかる環境社会学』ミネルヴァ書房, 41.


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