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市民参加による里山保全の社会学

こんにちは。ただいま紹介いただきました松村と申します。
タイトルは「市民参加による里山保全の社会学」としました。

ここまでは、比較的、里山それ自体についての研究報告が多くありましたけども、私の場合には、里山で木を伐ったり草を刈ったりというような里山保全をしている人たち、そういう社会のことと、もう一つは、「里山」というものが社会的にどういうイメージを与えているか、里山の実態ではなくて、「里山」という言葉から皆さんがイメージするようなものがどのように形成されているのか、そういったものが社会学的には関心の的になるわけです。私たち(社会学者)は、自然科学の皆さんのように、例えば森林だとか動物だとかを直接の対象とするわけではなくて、そこにかかわる人々、あるいは「里山」という言葉、「里山」というイメージ、あるいは考え方みたいなものについて関心があります。

今日の話題ですが、一つは環境社会学という、この学問領域自体がなじみのないものだと思われますので、この研究の視角と方法について先にご紹介して、それから、主に都市近郊を中心とした里山保全の動き、里山ボランティアに働くポリティクス、サブシステムとしての里山、こういう順に説明をしていきます。

まず、「環境」とは「(何かを)取り巻くもの」という意味ですが、何にとっての環境なのかと問うときに、その主体と環境の関係性、そのシステムを考えなければいけない。社会学者からすると、その主体となる社会が異なれば、環境の認識の仕方や環境の意味も異なってくる。それが基本的な考え方になります。ですから、環境それ自体を研究されている自然科学の先生方とは違って、同じものを見ていても(主体によって)全然違う捉え方するんじゃないかと考えるのが出発点となります。主体があって、はじめて環境が認識される。自然科学が対象とする環境は、誰にとっても(同じように)明らかな部分ですが、環境社会学では、人々がどのように環境を認識して、どのように意味づけているのかに注目するところがポイントです。

これは人文地理学とも重なる領域ですけれども、例えば「空間」と「場所」という呼び分けをする場合があります。「スペース(space)」と「プレース(place)」の違いですが、普遍的な誰にとっても同じような機能を持つ「空間」に対して、ある主体にとって特別な意味を持つような「場所」というふうに呼び分けたりします。あるいは、「地元」と「よそ者」。「よそ者」が普遍性を持ってその環境を見る一方で、「地元」とは、個別性、地域性をもとにしてその環境を認識して、意味付けると。そういう違いが出てきます。

これは、対馬の千俵蒔山という草原です。あとで私がお話しするのは横浜の話ですが、ほかによく調査に出かける場所として、沖縄の八重山諸島と対馬と佐渡島があります。なぜか島が好きで、よく島の調査をしているんですが、これは対馬にある千俵蒔山の草原の写真です。この草原という題材については、これまでも(このシンポジウムで)報告がありましたし、おそらく総合討論の中で高橋先生が何か主張されることだろうと思います。

この赤いラインが1966年の草原の位置ですけども、2004年にはこんなに小さくなっている。ここでは、(この背景や理由について)あまり詳しい説明をしませんが、このようにだんだん森林化していった場所で、40年ぶりに野焼きをして草原を再生させる動きが始まりました。

なぜ始まったか?もともとは、環境省の出先機関で、通称「ヤマネコセンター」と呼ばれているツシマヤマネコの保護・繁殖事業を中心にやっている所に対して、地元の住民たちは、どちらかというと迷惑だと捉えていた。島の開発を抑制するものとして捉えがちで、いまひとつ、一緒になって力を同じ方向に向けることができなかった。ともすれば、対立関係にあったのですが、それが協力してできるようになった。

なぜかというと、まず環境省としては、ヤマネコの保護が重要な目的になりますから、ヤマネコを増やしたい。そのためには餌となるネズミを増やすことが望ましい。ネズミは草原に増えていく可能性があるということで、野焼きをして草原を再生させることに意味があるだろうと考えました。

一方、地元の人たちはヤマネコの保護というよりは、むしろ別の目的があった。もともと千俵蒔山という草原は、小学生の時にみんなで登ってピクニックをしたという非常になじみ深い、親しみのあるレクリエーションの場だった。それがだんだん森林化していって、誰も近づけなくなってしまった。だから、多くの人たちは、そこに草原を再生させたいと思っていたわけです。それに対して、環境省は全然違う角度から、ここに草原を再生しませんか、野焼きをしませんかという話があって、共に手を携えて一つのプロジェクトにかかわることができたのです。

ここに見られるのは、国(環境省)と地元の住民が捉えている草原の価値は全然違う意味を持っているけれども、同じ方向で保全策を進めることができるということです。環境社会学のメンバーは、こうやって(人びとにとっての)固有の意味の違いを掘り下げながら、そこで協力してできることを考えていくところが特徴的かなと思います。あくまでも、人びとにとっての意味世界に感心があるのです。

社会学とは、一般的に自明のこと、自然なことだと思われていたことが、実は社会的に決まっていることを明らかするのが得意というか、それが好きな人が集まるところです。

環境社会学者でたぶん一番有名な人は、滋賀県知事をされている嘉田由紀子さんだと思います。嘉田さんの研究の中で、普通私たちが水を評価するときに、「きれいな水」か「汚い水」か見がちなところに、いや、水に対しては「近い水」「遠い水」という捉え方を大事にしている人たちもいると言う。嘉田さんは、琵琶湖周辺でフィードワークをする中から、日常生活の中で琵琶湖とつながる水を自分の家に引き入れて、それで洗濯をしたりだとか、炊事をしたりだとか、そのように深く関わっていた水が、(水道の導入などによって)遠くなってしまったから、水のきれいさ/汚さもどうでもよくなってしまうことを取り上げて、「近い水」「遠い水」という尺度を用いたわけです。

あるいは、先ほどのトキの話に関連して、豊岡の菊地さんの研究成果ですが、地元の豊岡の人たちはコウノトリのことを「ツル」と呼んでいると。そして、「ツル」と呼んだときには、田んぼの作業を邪魔する悪いやつであると同時に、どこかかわいくて、ちょっと隅に置けないような、そういう親しみのあるようなものを「ツル」と呼ぶ。一方で、「コウノトリ」となると、これはもう全国的に保護すべき対象としての鳥であって、どこか遠いような感じになってしまうということを言っています。

また、「伝統の創造」とは社会科学の中ではよく取り上げられる話ですけども、例えばアイヌの人びとが昔から狩猟採集をやってきたというのは歴史的には違っていて、もともと農耕もしていたけれど、大和の人たちと接触して交易が盛んになって狩猟採集にだんだん傾いていったという事実があります。(しかし、いくつもある過去の事実の中から恣意的に伝統が選ばれて創造される。)そういったことを見つけていくのが社会学者の好きなことです。

だから、「里山」も、そのように創造されたものというふうに考えればいいんじゃないかと思います。「自然と調和的で、持続的な里山」という像は創造されたもので、それは(これまでの報告のとおり)歴史的には事実じゃない。ただ、自然科学的な対象とはならないかもしれませんけれど、社会的にはそのように多くの人びとが考えているという事実がある。実際にそのように里山が認識されているということ、それによって物事が進んでいくというこの事実を大事にするところが社会学の特徴かと思います。

昨日からの話で、里山の歴史が教えることは、持続可能な社会のモデルとして里山が持ち上げられるけれど、実際はそうでもない事例が多く見られる。そうした捉え方は、実態を正しく反映していないということです。しかし、社会学では、人々が歴史的事実を誤って理解していると捉えるのではなくて、そうした社会的事実がどのように人々の間に浸透し定着してきたのか、どういう意味を持っているのか、その事実を捉えようとするところが特徴的なのです。だから、その点でどれだけ議論がかみ合うのか非常に心もとないのですが・・・。

これは、今日のシンポジウムのチラシですが、拡大するとこのように書かれています。今回のシンポジウムは、「2010年代のための里山シンポジウム」とあります。このときの「里山」とはいったいどういう意味を持っているのか。それは、1980年代以降、里山が学術的にも再評価されて、90年代から市民運動のうねりがあって、全国的にいろんな施策が採られるようになるなど、「里山」をめぐっていろんなことが動いてきた。だけれども、いろんな課題も出てきている。それがわかってきた状態で、これから10年間どうするんですかという議論だと思います。

これは、今年の4月に出た、『緑の市民参加』という本に載せた里山関連の年表です。ここで私は、1983年の「まいおか水と緑の会」から書き始めました。どういうことかというと、例えば「里山の歴史」であれば、そんなはずはないわけです。例えば、最終氷期からかなという話を、これまでもずっとされてきたわけです。しかし、ここでは「里山」といった言葉が今現在定着している意味において出てきた事象をまとめたものですから、1980年代以降の年表になっているわけです。私がこれからお話しするのはこの部分になります。

都市近郊の里山、特に私の場合は横浜市中心の事例についてこれから取り上げますけれども、これは今まで議論されてきた里山とはだいぶん意味合いが違うものだと考えたほうがいいと思います。1983年に「まいおか水と緑の会」が成立します。これはよく里山保全運動のはしりというふうに評価されますが、そもそもは横浜市の公園計画に対してオルタナティブを提示する運動でした。いわゆる「都市公園」を作るという公園計画に対して、そうではないものを造りたいという住民側の運動です。この中で、公園予定地を借りて、そこで休耕田を復元しながら、市民が公園の計画策定から管理運営に参画する必要性を主張しました。

先ほど、里山的な自然というのは、最初につくったのは3分の1ぐらいだけしか意味がないと本間先生が話されていましたけども、ここでも維持管理を含めて考えなければいけない。そこで、維持管理を自分たちはできるんだよ、やりながらこんな運営ができるんだよということを示しながら、市の計画に対して別な案を出してきたのがこの団体です。二次的自然、里山の環境を守るには、将来にわたる管理運営を見通した計画づくりが求められる。従来の公園ではそこまで考えられていたわけではなくて、一回公園を造ってしまえば、あとは通常どおりに管理をしていけばいいと。けれども、例えば田んぼを復元して、ここで米を作っていくというような活動をしていくときには、それを誰がやるのか、どうやってプログラムを展開していくのかといったときに、それを私たちがやりますよというふうにして違う案を出していったのがこの会です。

この市民運動はかなりの程度成功して、9年後に舞岡公園の管理運営を担っていく団体として成長しています。このやり方はほかにも波及していて、鎌倉には鎌倉中央公園がありますけれども、ここでは「山崎の谷戸を愛する会」が舞岡の活動と似たような活動を展開し、今ここで公園の管理運営をしています。

次は港北ニュータウンの事例です。横浜のニュータウンでの里山保全ですが、これは共有用地の自主管理、自治といったところに主な動機があります。1984年に、けやきが丘団地という団地が港北ニュータウンにできます。そこで共有の竹林があって、そこをどうやって管理しようかと。管理組合方式でやるという選択もあったわけですけども、自分たちでやってしまえと始まったのが愛護会です。また、鴨池公園愛護会という愛護会があります。ここでは、住都公団がもともとあった竹林を管理するのが面倒くさいといって伐採しようとする計画があり、それに対して伐採するなら私たちがやりますよと言ってできたのが、この公園の愛護会です。こういった場所が港北ニュータウン内に10個以上できてきた1992年に、ニュータウン内の里山ボランティア団体によってできたのが「港北ニュータウン緑の会」というネットワーク組織です。

ここで、ニュータウンに移り住んだ新住民による里山ボランティア活動は、自らの手で共同緑地を管理しようとする自治単位への強い要求から生じたわけです。彼らの多くは、いわゆる全共闘世代で学生運動の経験があり、自主管理というのは一つのキャッチフレーズになっているわけです。彼らからすれば、(自分たちのみどりを保全するのは)当たり前のようにして考えられていたのです。

これらは市民運動というか、いわゆるリベラル派というか、そちらの立場からの里山保全になりますけども、それ以外に伝統的に美しい景観とかコミュニティーを創造していくという人々もいます。「美しい日本」じゃないですけども、どちらかというと保守的な立場の側からの保全活動もあるわけです。

横浜市には、樹林地のある公園のほか、独自の制度で緑地を守るために「ふれあいの樹林」とか「市民の森」とかがあり、こういった公園・緑地を管理する愛護団体があります。これらは主にその地権者の人たちが中心になっているわけですけれども、彼らは景観的に美しい町にすることが求めている。林床に下草が茂ったり、枯損木が目立ったり、見た目に汚い場所が見つかると、草刈りや除間伐などによって景観的にすっきりとした空間をつくりだそうとします。

このように横浜の中で里山保全のタイプを、とりあえず3つ取り出してみました。すると、こういう活動が盛んになっていくと、横浜市の側も市民活動を活性化させていくことが重要じゃないかと考えるようになっていきました。それは、維持管理をしていくのに行政側もお金がかさむことなので、ボランティアをうまく生かせればというふうに考えていったものと思われます。

1994年には「横浜の森育成事業」、のちには「市民による里山育成事業」と呼ばれる事業が開始されます。これは、人の手を必要としている樹林地と保全活動にかかわりたい市民をつなぐために実施されています。横浜の場合には、樹林地が周辺にいる人口に比べて相対的に少なく、一方で、かかわりたい住民が非常に多いということで、こういう事業自体がボランタリーに成り立つ要素が潜在的にあったのです。

最初に申し忘れましたけども、私は恵泉女学園大学という教員であるとともに、「よこはま里山研究所」というNPOの理事長をしておりまして、実は、横浜市からこういう市民参加の里山保全の事業を受託してきました。市民の方々を公募で集めて、それで1年間を通して座学と実践活動をおこない、次第に自立した組織を運営できるようにしていくという事業を担ってきたんです。

このように、都市近郊の里山保全の動きを見ていくと、最初はボトムアップで上がってきたもの、リベラルな発想から始まってきたものが、その後、だんだんトップダウンでもおこなわれ始めた。その最たるものが、「SATOYAMAイニシアティブ」に代表されるような、国を中心とした動きだと思います。

「生物多様性国家戦略2010」の中で、「日本人は自然と対立するのではなく、自然に順応した形でさまざまな知識、技術、特徴ある芸術、豊かな感性や美意識をつちかい、多様な文化を形成」し、(里山に見られるように)「限りある自然や資源を大切にしてきた伝統的な智恵や自然観を学ぶ(べき)」とあります。こういう書き方に対しては、昨日からいろんな報告を聞いてきた方々は違和感を覚えるかもしれませんし、エコ・ナショナリズムと批判する方もいらっしゃるでしょう。

ただし、実はそれは国だけが言っているわけじゃなくて、私が運営にかかわっている「よこはま里山研究所」のパンフレットにも比較的似たようなことが書かれています。「里山は、人びとの営みによってつくり上げられてきた身近な自然です。NORAは、‘よこはま’という都市に生活する側の視点から、かつての里山のように暮らしと里山との距離を近づけることで、生命のつながりが感じられる機会を取り戻し、身近な里山も 私たちの暮らしも 豊かになることを目指すNPOです。」

では、私たちの団体は里山の歴史を知らなくてこんなことを書いているのかというと、決してそうではないんです。つまり、私たちが都市の人たちを巻き込みながら活動を展開していく中で、こういう書き方が人々にとっては訴えるものがあるんじゃないかと広報戦略の言葉ですから、そのように作っているわけで、おそらくこの政府のメッセージもそのように書かれているんだと思います。

最初に申し上げたことと繰り返しになりますけども、環境社会学の視点では、かつての里山の歴史的な変遷とともに、今日の社会における里山イメージの機能も研究の重要な対象となります。来月出る『環境社会学研究』という雑誌に、生物多様性と里山に関するレビュー論文を載せているんですが、そこでの結論を私はこう書きました。「里山で持続的に生物多様性が守られてきたという事実命題に対しては歴史的事実をもって反証できるが、生物多様性が理想的なかたちで守られるモデルとして<里山>が提示されているとしたら……そうした歴史学的な批判を見越したうえでの里山賛美だとすれば、それに対する批判は異なる水準から企てなければならない。」

もちろん歴史的な事実もとても大事ですけれども、それとともに、それが実際にどういう力のせめぎ合いの中で効果を発揮しているのか、それに対してどのようにかかわっていくのか、あるいは誰がそれをつくりだしていくのか、そういったものを考えていくのも生産的じゃないかと考えています。

例えば、先ほどの環境省のメッセージが間違えていると批判することはたやすいですけども、あれは戦略として「里山」を使っているんだよと言われてしまえば身もふたもない。例えば、ある研究の中で環境省のOBの方がこんなことを言っています。なぜ環境省は里山という言葉を使うのか?それは単純に、省庁間の縄張りを広げたいからだと。例えば環境省には自然公園という足場があるにしても、それ以外にもっと広いところ、あるいは予算の掛けられるところに領域を広げたい。例えば農地であれば農水省がやっているし、道路だとか河川だとかであれば国交省がやっていると。そこで、「里山」という言葉を使うと、それまでかかわることができなかったフィールドまで広げていくことができると。だから、「里山」という言葉が使われているんだとぶっちゃけて言ってしまっているOBの人がいました。それが事実かどうかは別にしても、そのように捉えている人もいるということです。

あるいは、使い分けられる里山。ある社会学者がフィールドに出掛けていった場合に、「里山」という言葉がよそ向け、外向け、研究者向けに使われており、地元ではそういう言葉は日常的には使わずに裏山と呼び、言葉を使い分けているという報告があります。あるいは、「里山」という言葉によって、人々が自然に積極的にかかわってきた側面を強調して伝えたいがために、「縄文里山」とか「熱帯里山」とか「アフリカの里山」といったように、それまでは自然からの一方的な影響の中で人間は過ごしてきたと考えられていた所に対して、むしろ人間は働きかけてきたんだ、新しい環境をつくってきたんだというふうにみる捉え方もあります。

里山に対しては多くの人たちが背を向けている中にあって、そこを社会実験の場として利用していくという例もあります。この後に奥さんの報告がありますが、まさに実験場になっていて、新しい持続可能な社会のモデルをこれからつくっていこうという人たちにとっては、魅力的なフィールドになっているという側面もあります。「よこはま里山研究所」でやっていることも社会実験にほかならなくて、実験をしていくために過去のモデルを使っていくわけです。真ん中にムラがあって、ノラがあって、ヤマがあってという民俗学のムラの空間構造モデルを利用し、それに合わせたかたちでプロジェクトを展開しています。

このヤマ事業とは、横浜市内にある6ヘクタールほどの緑地、樹林地での山仕事です。もちろん、こうやってピザを焼いたりして楽しむということも忘れません。あるいは、こうやってたき火を囲んで話し合うという、コミュニティーをつくっていくという活動も、都市ではとても重要になっています。
これはノラ事業ですね。農家のお手伝いをしながら、やはり農家とお話をしたり、軽トラに乗ってみたりという、普段なかなか体験できないことをやっています。
これはムラ事業ですが、町中にこういうフリースペースを構えて、一月に一遍「神奈川野菜を食べる食事会」を先ほどの農家の方々から提供される野菜をみんなで一緒に食べる食事会をやったりとか、その中で朗読会をやったりだとか、コンサートをやったりとか、そういう町の中のコミュニティーをつくっていく活動を展開しています。

この図は、もう10年以上前に、私が修士論文を書くために、このときは横浜市と世田谷区と私が住んでいる町田市の三つの団体に所属して、それぞれ保全活動にかかわりながらインタビューをして明らかにした成果です。なぜこういう里山保全のボランティア活動にかかわっているんですかと、ヒアリングをする中から聞いてきたわけですが、いろんな人がいるわけです。里山保全が主目的で、市民運動として次世代に自然を残したいからという方ももちろんいます。しかし、普段は銀行マンで週末ぐらい体を動かしたいというのでかかわっている人もいますし、転勤族で引っ越しが多いので、その引っ越し先で友達をつくるために入ったとか、年を重ねてきて、自分の住む地域とかかわりたいからといって入ってくる人たちもいます。こうした参加動機を、目的性と共同性という二つの軸で展開すると、このように四つに分類されます。さまざまな参加動機があるのです。

今日、生物多様性という観点から里山が評価されますけれども、そうした観点を別にして、いろんな人たちがかかわってきます。だから、人々の多様性、文化の多様性ということも里山ボランティア、里山保全の中ではとても重要です。普通、生物-文化の多様性といったときには、先住民の人たちの伝統的な知識などの話が多いでしょうが、都市の中の文化の多様性もあり、それが大切だと思います。

しかし、こういう人々の多様性を損ねていくようなポリティクスが働いていると私は見ています。下からの里山保全運動に対して、上からの里山保全策が充実していくことによって、都市近郊の里山空間というのは両者のせめぎ合う場となっているわけですが、生物多様性という普遍的な価値が浸透していくことによって、里山がある意味一元的に評価されるようになってきた。すると、健全な生態系を守るために市民が動員され、水路付けられるということになりかねない。これを私は生態学的ポリティクスと2007年に書いた論文の中で言いました。

1990年代以降、市民と行政が協働して里山保全を模索する動きが続けられてきましたが、そこで可能性よりも限界を感じて新しいコモンズを創造しようとする動きも出てきています。自分たちでお金を集めて、森を買ってしまって、そこで多くの人たちがかかわる、いろんな文化的サービスを楽しめるような、そういう場所をつくっていく動きがあります。行政との協働作業で、それはできないというふうに悟った人たちが新しい動きを始めています。

里山保全にかかわっていく人たちは非常に多様です。伐採作業をどんどんやっていきたいという人に対して、まずは観察することから始めましょうとか、景観的な美しさに大事にしようという人もいれば、一方で多様性を大事にするには藪が必要とか、一部のスキルのわるメンバーで作業をぐいぐい進めていきたい人もいれば、そうしてしまうと多くの人がかかわれなくなりますよと言って、それを抑える人たちなど。こういう人たちが合意形成をしていくのは大変ですが、だからこそ面白い。こういう問題に対して、私たちのNPOでは「森づくりの舵取り技術を身につける講座」というのを一昨年に開きまして、その成果をテキストとして作成しました。

じゃあ、里山保全をどうするかといったときに、ここに経済システムをつくりましょうという話があります。私たちの団体はこれを10年ぐらいずっとやってきていて、見事に失敗してきました。里山に事業を興して、新たに自立的に食べられるようになるという段階には至っていません。2001年から2005年までは神奈川県との協働事業で、2004年から2005年の間は環境省の事業で、2004年から2006年までは横浜市との協働事業でそういうことを模索してきた歴史がありますけども、いずれもうまく回らなかったというのが現実です。

この方向で考えるのも大事ではあるんだけども、最近は別の切り口を検討しなければいけないと思って、今日はサブシステムとしての里山という話で締めくくりたいと思います。

社会学では生物多様性そのものをとらえることはできません。それは自然科学の方々の対象だと思っています。けれども、生態系サービスという観点では捉えられます。都市近郊の里山がもたらす文化的サービスは、周囲に多くの人びとが住んでいるので、環境教育やレクリエーション、社会参画、社会貢献、コミュニティーづくりなどのサービスがとても大きい。また、都市では近代的不幸、貧困とか飢餓とか戦争などと区別される現代的不幸、アイデンティティーやリアリティーなどの精神的な危機がよく見えます。私たちの団体には、社会的引きこもりだとかニートと呼ばれる人たちがかかわっています。また、30代の女性が多いのですが、バリバリ働いて体を壊してしまった女性たちが自分の体を省みて、おいしい野菜を食べたほうがいいんじゃないかと思い、ふらっと現れる。そういうところから繋がる人が結構いるんです。そういう現代的不幸がよく見えます。

里山問題というのは、人と里山のかかわりの問題ですから、里山の面積から見れば、農山村の問題であるというふうに言える部分があると思いますけども、その必要性、必要としている人々の数から見れば、都市の問題であると私は思っています。都市化された社会で人々が豊かに生きるためには、その生活基盤として、つまりサブシステンスとして、里山が必要じゃないかというふうに考えています。

以上です。

○司会 ありがとうございました。

昨日、今日と、自然科学系の話プラス歴史の話でしたが、松村さんからの話は人の視点についてご講演いただきました。会場からご質問ですとかご意見がございましたら、お願いします。

○会場 すごく参考になりました。私もちょっと活動をしているんですけど、そういったことで、行政とのまちづくりからの視点でのアプローチとか、そういったことはどのようにお考えでしょうか。都市計画とか。

○松村 都市計画の段階から入れるのが一番いいと思いますけれども、前に積水ハウスさんから、計画段階から一緒にやりませんかという話があったんです。今、「5本の樹」をやっていますね。街ができて、そこにパッと人が集まってくるんじゃなくて、住居の周りに緑地を残しておいて、実際に住む前からそこを新しいコモンズみたいなかたちで共同管理しながら街をつくっていくという構想があって、これは面白いなと思っていたんです。担当者は乗り気だったんですが、上まで行かなくて。もし、こういう話があれば、私たちも提案していきたいし、そういうノウハウがいくつもありますので、ぜひかかわっていきたいと思っています。

○司会 よろしいですか。ほかにございますでしょうか。

○会場 どうもありがとうございます。横浜とか大きな都市の里山の保全活動というのは大変よくわかったんですけど、一番最後に面積からいくと農村の問題だという。農村では、今、過疎高齢化があると思うんです。そういう過疎高齢化があるような所と、今されているような都市のいろんな活動ですね。それが矛盾が解消されるようなかたちでの構想というか、動きが進んでいるんでしょうか。

○松村 町でこういう活動をしていると、その中から農村へ移住する人が出てきていて、例えば横浜の舞岡で活躍していたリーダーは、今、そ佐渡に移住しているんですね。また、去年、私と同じくらいの年の女性が一人で和歌山の高野山の近くに移住しました。こういう私たちの支店みたいな人がいるので、そういう人たちを中心にして都市と農村で交流できればいいかなと思っていますけども。ただし、それはイベント的な話で、もっと大きな構想にまでは練られていません。

『2010年代のための里山シンポジウム―どこまで理解できたか、どう向き合っていくか』(独立行政法人森林総合研究所関西支所/ 大阪市立自然史博物館/ 大学共同利用機関法人人間文化研究機構総合地球環境学研究所「日本列島における人間-自然相互関係の歴史的・文化的検討」プロジェクト(大阪市立自然史博物館), 2010年10月31日.


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