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『川は誰のものか』

著者の菅豊(すが・ゆたか)さんには、大学院生の頃からお世話になっており、いつもその研究と実践(闘牛!)から刺激を受け続けています。
先日、その菅さんから、映画の上映会の案内がありました。
今月、渋谷にて、菅さん監修による長編記録映画『川は誰のものか―大川郷にいきる』の上映会が開かれるというお知らせでした。

菅さんは「上映会ができることが凄いくらい地味な映画」と自己評価されていますが、私は面白いに違いないと思っています。
なぜなら、この映画と同じタイトルの本が面白かったからです。
しかし、残念ながら、私は都合がつかないので見に行けません。
しかも、この上映会を逃すと、ほかに見る「チャンスは・・・たぶんない」とのことです。
そこで、アンコール上映会が開かれる機運が高まることを願い、今回のコラムで取り上げることにしました。

「川は誰のものか」という書名は、コモンズ(菅さんは共的世界と意訳)をめぐる議論の中で、しばしば現れる「○○は誰のものか」という典型的な問いであり、シンプルであるがゆえに根源的な問題設定と言えます。
ほかにも、海は誰のものか森は誰のものか「公園は誰のものか」などといった問いが多様な論者によって提起されています。
近年、こうした問題設定が意味を持つようになった背景として、さまざまな環境領域で公的な管理のあり方が問い直されるようになってきたことを指摘できます。

このタイプの問いでは、想定されている一般的な回答があり、それとは違う答え方を示したいという意図が見えます。
ここで、「川は誰のものか」という問いが想定する答えとは、川を管理するのは国や地方自治体等であるから、一般の人びとは官に任せておけばいいというものでしょう。
さらに、川は国や地方自治体のものであるから、そこに所属する一員である私のものでもあるはずで、自由に好き勝手に利用してよいという解釈もありえます。
つまり、「○○は誰のものか」と問われるときには、公(おおやけ)のものであるか、もしくは反転して、私(わたし)のものである、という回答が仮想敵のように念頭に置かれているのです。
これに対して、このように問い直しを図る場合は、公私の間にあるべき共的世界に光を当てようという意図が込められています。
つまり、古くから人びとが近くの山野河海とかかわり、そこから得られる資源を守ってきた在地の仕組みがあったことから、○○は地域社会に暮らす「みんなのもの」という答え方を示します。
この本は、まず、そういうタイプの本の1つであると言ってよいでしょう。
しかし、菅さんはただ共的世界を賛美しているわけではありません。

共助の素晴らしさ、絆の大切さを伝えようという人の中には、ただ古き良き地域共同体の姿を理想化して、今日の個人主義を通俗的に批判するタイプがあります。
菅さんも、地域社会が備えている仕組みを大事に思うことに変わりはないでしょうが、一方で、素朴な共同体賛美がいい加減な議論であることも随所で述べられています。
この本の特徴は、共的世界の魅力を伝えながらも、ただ現代的な意味で素晴らしいわけではないことを主張している点にあります。
そして、議論を支えるデータがしっかりしているので、その主張に説得力があるのです。

さて、この本の舞台は、新潟県山北(さんぽく)町の大川です。サケがこの川を遡上し、流域の人びとはそれを捕らえます。
菅さんは、二十数年間にわたるフィールドワークにくわえて、近世の文書をひもとくことで、この地域の三百数十年間にわたるサケと人びとの関係性、
サケをめぐる人びとの関係性の変化をたどります。
そして、この地に伝わる珍しい漁法=コド漁が今まで残されてきたのかを描いています。
それは、ただ昔ながらの漁法が、十年一日のように守られてきたのではありません。
コド漁よりも効率の良い流網という漁法は、サケ資源を枯渇させるおそれが高く危険のために消えています。
また、流域の村むらでは、上流と下流で川争いが繰り返され、サケ漁のルールもたびたび変更してきました。
明治期以降は、漁業の近代化政策に翻弄されながら、制度の変化に適応しつつ、地域に有利になるように読み替えることで、サケ漁を継続してきた歴史があります。
村社会の長い歴史は、牧歌的で調和的であるはずもなく、とてもドラマティックです。
コド漁が残されてきたことが、本当に奇跡的なことであると実感できます。
それは、環境主義者のように、自然や資源を守るとことを第一に考えてのことではありませんでした。
あくまでも、その自然や資源を利用する人びとの関係性を守ろうとしてきたからこそ残ったものでした。
大川流域における人とサケの関係史を知れば、結果として自然や資源が残されてきたからといって、それを現代の視点から賛美することができないと理解できます。

本の終わりに近いところでは、最近の変わっていくサケ漁の様子が描かれています。
まず、経済活動としての意味が薄れたことで、楽しみや遊び仕事としての要素が目立つようになってきました。
そして、都会から遠く離れているために過疎化・高齢化が進み、少なくとも三百数十年前の歴史を誇るコドの存続が危ぶまれるような状態にあるとのことです。

このように、本はサケ漁の現代的変容で終わるので、その後どうなっているのか非常に気になるのです。
インターネットで調べた限りでは、「時期になると大川の河口付近はコドでうめつくされます」と書かれているのですが、写真でしか見ることができないので、今の姿はどうなっているのかと思っていました。
しかし、この本を読んでからしばらく経っており、そうした疑問を抱いたことをすっかり忘れていました。

そこに、上映会のお知らせが届きました。
この本を読んだ人ならば、きっと映画を見たいと思うでしょう。
もし、この本を読んでいないならば、ぜひ読んでから見ることをお勧めします。

菅豊(2006)『川は誰のものか―人と環境の民俗学』吉川弘文館.

よこはま里山研究所のコラム

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