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卒業生から教えられる大学の価値

『旧約聖書』「箴言」4章25節~26節

目をまっすぐ前に注げ。あなたに対しているものに まなざしを正しく向けよ。
どう足を進めるかをよく計るなら あなたの道は常に確かなものとなろう。


2011年3月に起こった東日本大震災、福島第一原発事故以降、私と同世代、あるいはもっと若い世代の友人が何人も起業しました。

彼らは、昨今の社会状況に居ても立ってもいられず、収入が減少したり、身分が不安定になったりすることよりも、自分たちの創意工夫によって、これからの社会に必要と思われるモノやサービスを提供する道を選びました。

こうした友人たちの動きを横目で見ながら、私も今の仕事をあらためて見つめる機会が増えました。そうしたときに立ち返るのは、目の前にいる在学生、そして卒業生です。今日は卒業生に絞って話しますが、彼女たちと会って話をすると、教員という仕事や大学の価値について、あらためて教えられます。

たとえば、今年5月末に開かれたスプリングフェスティバルのシンポジウムに、地方で仕事をしている卒業生を3名ゲストとして招きました。夫婦で岐阜県御嵩町に移住、新規就農して有機農業を営む「ながたに農園」の永谷香さん(2008年卒)、地元・新潟県上越市で、雪だるま財団の職員として農村体験プログラムを担当する小甲亜寿香さん(2011年卒)、地域おこし協力隊として島根県美郷町で直売所の経営にかかわり、現在は茨城県稲敷市で移住促進をサポートする岡田菫さん(2013年卒)です。

私は、この3名が暮らし、働いている現場足を運んだことがあります。彼女たちが運転する車に乗せてもらい、地域の見所や日頃お世話になっている方を案内してもらいました。また、長時間、仕事のこと、地域のこと、将来のことなどを話しました。

現地に行って感心したのは、実に気持ち良く地元地域を案内してくれることでした。お陰で、私もすぐにその地域のファンになりました。彼女たちは地域のことをよく知り、地域の中でなくてはならない存在になっていました。

また、車の中での何気ない会話や、じっくり話を聞かせてもらったとき、彼女たちの言葉の端々に、人間の生き方や社会のあり方をきちんと考え、望んだ未来をたぐり寄せようとしていることが伝わってきました。さらに、地方で活躍しているこの3人は、自然とともに生き、人のために仕事をすることが人間らしく、生きている実感があると言います。そういうことを言い切れる力強さにもまた、感心しました。

このように、現場でとても良い時間を過ごすことができたので、この気持ちを共有できればと思い、5月のシンポジウムでは登壇してもらいました。参加者は少なかったのですが、ふだんの仕事や暮らしをもとにした等身大の言葉がストレートに伝わってきました。たとえば、地方の暮らしは「不便」に見えるかもしれないけれど、家々では必ず庭で野菜を育て、季節ごとに山菜を採ることができるので、そこに住む人びとは不便とは思っていないこと。「不便」だからこそ、人とのつながり、自然とのつながりが深くなるということ。グローバル化が進むなかでは、足もとの世界を確かにするように努めることが大事であるなど。これからの社会のあり方や、私たちが本当に求めたい「豊かさ」を考えるのに参考になる素敵な言葉にあふれました。

そうした言葉に耳を傾けながら、彼女たちは卒業後も、仕事や暮らしの実践を通して、恵泉教育に連なる学びを続け、深めているのだと感じました。そして、その学びの基礎を大学が用意していたことを、知らされました。

卒業生の例として、このような話をしたのは、地方で働くことを勧めているからではありません。別の例を挙げましょう。

先日、あるOGが大学を訪ねてくれました。ゼミの先生に会いに来たものの、その日はいらっしゃらなかったので、他に誰か知っている先生はいないかと探していたところ、たまたま面識のあった私を見つけたということでしたが、せっかくだからと研究室に招き入れ、それから2時間近く話をしました。

彼女は、卒業後、保育士資格を取れる専門学校に通って今年で3年目になります。学費を自分で出さないといけないので、日中は、将来役に立つだろうと、幼稚園や保育園などでアルバイトに励み、夕方から専門学校に通うという生活を続けているということでした。

ある幼稚園で働いていたとき、好きであるはずの子どもと向き合う仕事が辛くて仕方ないときがあったそうです。その幼稚園では、毎月折り紙を折って、それを1枚ずつ紙に貼って、12ヶ月1年分のアルバムにまとめるのですが、そのアルバムをきちんと作ることがスタッフの仕事だと言われていました。だから、手に障害があってうまく折れない子の場合、スタッフが折り紙を折って、アルバムに貼り付けるように言われたそうです。これって意味があるのだろうか。この子のできることを手伝うことが仕事ではないのか、と疑問に思い、苦痛を感じながら仕事をしていたそうです。

そのOGが、専門学校の実習として、障がい者福祉施設に行く機会がありました。そこでは、いろいろな障がいをもつ人たちがいて、その人たちそれぞれにあった丁寧なサポートをしていました。もちろん、子どもと大人の違いはあるけれど、一人ひとりに寄り添い、人と向き合うことには変わりありません。彼女は、そうした福祉施設で働くことも、視野に入れるようになったと言っていました。

私も教員として、いつも学生とかかわり、どう接しようか、どういう場をつくろうかと考えていますので、そのOGが考えていること、大事にしたいと思っていることに共鳴することが多く、とても心地いい時間となりました。

私が、人はそれぞれ多様だという前提でスタートするか、人は同じように揃えられるという信念からスタートするかで、人との向かい方はまったく異なる、と述べたところ、OGも同意してくれて、人は一人ひとり違って当たり前。だから、人と向き合うのは難しいけれど、やり甲斐があるよねということを、深いレベルで確かめ合うことができました。

そのOGが何度か繰り返し伝えてくれたことが、「恵泉に来て良かった」という言葉でした。彼女は、高校から専門学校に進学してくる多数派よりも、大学の4年分遅れて保育の勉強をしています。一般的に、大学を卒業して、さらに専門学校に行くことは、大学での学びが実社会に結びついてないことを示すように思われがちかと思います。しかし、彼女は、恵泉の園芸や被災地ボランティアなどの経験が、いかに視野を広げ、考え方を柔軟にしてくれたかを語ってくれました。

高校からすぐに専門学校に入る同級生を見ていると、学校で教わる保育の方法、子どもとの向き合い方について、疑問に思うことなく身につけようとするのですが、保育の世界にずっといるので、視野が狭いように映るようです。そして、彼女自身、毎日の生活で、同じことを繰り返すうちに、目の前のことにとらわれてしまい、自分の視野が狭くなっていくのが怖いと言います。

会った日の夜のメールで、そのOGは、「話をする中で、自分の原点や大切にしたいことを再確認できました」と連絡がありました。このように自分を相対化して自己分析できるようになったのは、大学4年間のお陰だと感じているようです。だから、「恵泉に来て良かった」と実感を込めて断言できるのでしょう。そして、私もその言葉を聞いて、大学という場の価値をあらためて確認するのです。

もう一つ、卒業生にかかわる話を挙げましょう。

今年の4月に、私のゼミのOG会を開きました。あるOGが、同じゼミの仲間と会いたいと言い始めたことから組んだ企画でした。私は、せっかくだからと、代の異なるOGにも声を掛けてみたところ、いくつかの代のOGが集まってくれました。その際、ただ集まって飲食をともにするだけでは面白くないし、一人ひとりの話をきちんと聞いてシェアしたかったことから、大学の空き教室を利用して、ゼミ形式でおこないました。

ゼミ形式でとは、今の仕事や暮らしのこと、社会に出て経験し、考えてきたこと、悩みや生きがい、夢などを一人ずつ話してもらい、それぞれ感想や意見などを語り合ったのです。その際、私も、仕事のこと、抱えている悩みなどを率直に話しました。

彼女たちの言葉には、それぞれの働き方や生き方がよく表れていて、さまざまな生活世界を垣間見ることができました。あるOGは、職場では評価されていたのに、商品を販売することだけにのめり込めず、その仕事を辞め、人と向き合う仕事に付こうと保育系の専門学校に入ったばかりでした。あるOGは、会社の仕事に追われていると自分が成長できないと、仕事をセーブするために最初に就職した会社を辞めて派遣会社に登録し、その代わりにアジア支援をしているNPOが主催する市民向けの講座に平日の夜や休日に積極的に参加しています。あるOGは、これまで男性が多かった造園の職人の世界に入り、ただいま技術を身につけつつ、庭を手入れしてお客さんが喜ぶ女性らしいサービスを提供できないかと社内で検討中ですとか。アパレルの販売員をしているOGは、服を買いに来られるお年寄りの中には、寂しいのか販売員と何時間も世間話をしていく人がいて、そのお話を聞くことと売上げを上げることとのバランスを考えていました。そのお年寄りは、話を聞いてくれたサービスの対価として服を買っているようなものだという話でした。

このOG会では、こうした卒業生の経験している多様な世界をまとめて聞くことができて大変楽しいものでしたが、その多様性の中にも、人とのつながりを大切にしていることが共通していました。この、みんな違っているけれど、どこか似ているというバランスが絶妙で、私も含めて、それぞれが自分を省みる良い機会となったように思います。

そこで感じたことは、人がそれぞれ賢明に生きている姿は尊いし、人を思う気持ちは美しいということでした。本当に、気持ちが穏やかになり、いい話ができたという感慨が長く残りました。こういうことが普通にできるのも、恵泉の価値なのだと思います。

それは、別のOB・OG会に参加して、恵泉のOG会と比較することで、さらに際だって感じるようになりました。今年の5月に大学院で少しお世話になった先生の退官記念としてゼミ形式のOB/OG会があり、そこでは5人のOBが自分の仕事の話をプレゼンしてくれたのですが、語られる内容はまったく異なりました。たとえば、中国のオムツ事情とそのマーケティング分析や、人工知能と安い単純労働との国際競争の話とか、です。それは、ビジネスの世界では重要なテーマですが、人に寄り添い、人と向き合い、人とのつながりをどう豊かにするのかといった観点は、あまり見られませんでした。だから、あらためて、恵泉が大事にしていることの特長を認識できました。

このようにして、私は卒業生から、大学の特長、存在意義を教えてもらっているのです。そして、その教えはいつも、私の心を穏やかにするのです。

本日、冒頭に引用した聖書箇所は、礼拝で卒業生の話をしたいと相談したところ、キリスト教センターのスタッフの方が選んでくださった言葉です。もう一度拝読します。

私が教えられる多くの卒業生・在学生は、私よりも透明な心で、この言葉のように歩もうとしているように思えます。それはときに純粋に過ぎるのですが、だからこそ、そうしたストレートな思いには、その働き方でよいのか、その暮らし方でよいのか?と。かえって問いかける力があると感じます。彼女たちの存在が、周りの人びとに自分を見つめ直す機会を与えるのです。

私は、そうした力が、社会の一人ひとりに伝わることを願っています。そして、その力が、人びとにとって、ただ社会のシステムに従って生きるのではなく、自分と社会の間の違和感にこだわりながら、人とかかわり、人間らしく生きる力となるように祈ります。

(2015年7月24日、恵泉女学園大学チャペルアワー用原稿)

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