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『民主主義の条件』

最近、里山に通うよりも、安保法制に反対する意思を表すため、国会前でおこなわれる抗議行動に参加している。
私が足を運んでいるのは、SEALDs(シールズ:Students Emergency Action forLiberal Democracy – s/自由と民主主義のための学生緊急アクション)
主催の抗議行動である。

私のゼミ生に、SEALDsの主要メンバーとして活動している学生がいる。
彼女は、SELADsの前身であるSASPL(サスプル:Students Against Secret ProtectionLaw/特定秘密保護法に反対する学生有志の会)から参加しており、
昨年は新宿・渋谷で学生デモや官邸前抗議行動などをおこなっていた。
法律施行後の今年の春休みには、沖縄の辺野古で座り込み行動にも参加していた。

SEALDsによる毎週金曜の国会前抗議行動が注目を浴び始めた6月中旬、私は初めてこのデモに参加した。
そのときは、現政権に対する抗議というよりも先に、学生のアクションに応えたいとい気持ちが強かった。
その後、時間の許す限り、金曜夜は国会前に行くことにしている。
安保法制が特別委員会で採決された水曜日(7/15)も駆けつけた。
最初に参加してから1週間経つごとに参加者は約3倍ずつ増える感じだったが、最近は、数万人という単位で参加者が集まるようになった。

SEALDsのアクションには、妻を誘って一緒に行ったこともあれば、デモデビューとなる学生とともに行ったりしたこともある。
自分の主義主張に関わることに人を誘うことをためらいがちな私だが、このSEALDsの抗議行動には誘いたくなる魅力がある。
それは、コンサート会場やサッカーの競技場のような現場のライヴ感覚、参加者がチャントのように一緒に声を上げるのがいい。

「民主主義ってなんだ!」「なんだ!」
これは、シンプルな問いだけに力強い。
この英語版「Tell me what democracy looks like!」に対して、「This is what democracy looks like!」も、いい。
「やつらを通すな」「NO PASARAN」
こういうグローバルなスローガンを間に挟むところが、SEALDsの格好いいところ。
でも、もっとも盛り上がるのは、やはり「安倍は辞めろ」で、このときとばかりに、周りの特に女性たちは声を張り上げる。

SEALDsは「民主主義って何だ!」と問う。
実際、民主主義のあるべきかたちについては、人によって捉え方が違う。
政治学では、民主主義を多数決型とコンセンサス(合意)型に分ける議論がある。
多数決型民主主義では、有権者の多数派の利益に従う政治をめざし、コンセンサス型民主主義は、できるだけ多くの有権者の意図に沿うように、つまり多数派の範囲を拡大することを強調する。
これは、選挙制度で言うと、小選挙区制だと多数決型に、比例代表性だとコンセンサス型になりやすいことが知られている。
今回取り上げた本書でも、この議論について紹介されている。

日本では、共同体的な根回し合意型から、スピード感を持って決められるように、トップダウンで物事を決定しやすい多数決型を志向してきた。
「決められない」政治に業を煮やして、強いリーダーシップを待望してきた。
しかし、それが生みだしたのは何?誰?
昨年の総選挙で、自民党は得票率33%で61%の議席をとり、安保法案を衆議院で強行採決したことは、想像できた事態とも言える。

レイプハルト『民主主義対民主主義―多数決型とコンセンサス型の36カ国比較研究<原著第2版>』(勁草書房、2014年)では、多数決型民主主義とコンセンサス型民主主義の特徴を整理している。
この整理は本書でも紹介されており、民主主義を理解する上での軸として有益である。
ここでは、多数決型民主主義の特徴だけを取り出すと、たとえば、内閣・議会の関係は内閣が優越する、中央・地方の関係は単一性・集権的、中央銀行は政府に依存、立法の違憲審査は議会が最終的に権限を持つ、とまとめられている。
現政権のふるまいは、多数決型の悪しきタイプとして捉えるとわかりやすい。

本書では、こうした民主主義の特徴を踏まえた上で、どうすればよいかを具体的に検討している。
それは、多数派を形成するためには、政治家個人ではなく政党こそが重要な役割を果たす、というものである。
これは、選挙制度を前提とした提案として、ある意味では身も蓋もないけれど、きわめて現実的な主張であろう。
民主主義って何だ?と疑問に思ったときに読むと、頭が整理できて良い本だろう。

今の日本では、かつての「ねじれ」状態は解消され、数でもって物事を決めていく政治が進んでいるが、次の総選挙まで、この状況を止めることは困難である。
それでよかったのだろうか?
ちなみに、レイプハルトは、多数決型民主主義よりもコンセンサス型のほうが優れていることを実証している。

これは、安倍晋三という個人の問題ではない。
たしかに、安倍首相は国民に説明する言葉を持っていないし、自分の主義主張を通そうとする強引な手法は、立憲主義、民主主義を否定するひどいものである。
しかし、安倍首相を辞めさせれば、民主主義は回復するのだろうか。
そういう問題でもないだろう。
今問われているのは、私たちの民主主義のあり方、社会の決め方である。
それは、ふつうの人びと一人ひとりの力を信じられるのか、ということでもある。
そうした自覚、そして他者への信頼は、私たちにあるのだろうか。

この問いは、すでに私個人のfacebookに書いたものである。
これに、誠実に応じて下さったのは、NORAの立ち上げメンバーの1人で、
現在は佐渡にいらっしゃる十文字修さんであった。
十文字さんからのリアクションと、それへの私の応答は、以下のとおり。

(十文字)
私の考えを言うと、戦前・戦中から敗戦を通過し、そこでの人間の現実に直面した後、「信じたい」という祈りと「信じられない」という諦めが日本社会に強烈に生じ、それが整理されぬまま、左右の政治の出発点になったのでは。
私が、「肯定でも否定でもなく、克服を」という態度に深く共感する理由はそこにあります。
(松村)
十文字さん、真っ正面から応えていただき、深く感謝します。
以前も申しあげましたが、私は護憲派ではなく、改憲というか創憲派です。
それは、従来の護憲派が、まさに「信じたい」けど「信じられない」から、現実的な戦略として「憲法を守れ」と言っていると捉えていて、それが弱点だと考えているからです。
そこは、改憲派が押しつけ憲法だという気持ちもわかる、だから、今よりいい憲法を創ろうと呼びかけたいのです。
そのように「ふつうの一人ひとりの力」を信じたいですね。
たしかに、それは祈りかもしれない。しかし、「信じたい」という祈りを抱き続けられるならば、それは人間として生きる価値がある社会に生きているのだと思います。
(十文字)
松村さん、祈りを抱きつづけることが「信じられるという確信」への唯一の道筋、と受け取り、そうであれば大いに賛同します。
(松村)
おっしゃるとおりです。
ふつうの人びと一人ひとりの力を信じられるのか。
そうした自覚、そして他者への信頼は、私たちにあるのだろうか。
この問いに対して、SEALDsのメンバーは肯定するように思う。
何度か抗議行動に参加したり、参加できないときもIWJの中継を見たりしていて、彼ら彼女らの言葉を聞いていると、そのように感じるのである。

SEALDsは、人類の歴史を重く受け止めている。
法治国家が生まれた歴史、戦争放棄を憲法に書き込んだ歴史。
戦後70年間、自衛隊が戦場で人を殺し、殺されなかった歴史。
こうした長い歴史の中で無数の人びとが汗を流し、血を流してきた。
そうした死者の声を聞きつつ、それを自分たちの主張の正しさのために利用するのではなく、等身大の暮らしの中で引き受け、考え、
ストレートに訴えているように思う。

だから、SEALDsの「憲法を守れ!」は、従来の護憲派の言い分と同じように聞こえるが、違う。
今の憲法の良し悪しを脇に置いても、現行の憲法を守らなければならない。
だから、抗議の最も深いレベルにある「立憲主義」を強調する。
しかし、そこに従来の護憲派も、声を合わせることができる。

また、SEALDsの抗議行動に野党の政治家が参加し、スピーチするときがある。
そのとき、各党とも自らの政策の正しさを主張する。
たとえば、南西方面の防衛力強化が正当であると言う野党議員もいる。
しかし、その後にマイクを引き取ったSEALDsのメンバーは、聞きながらイライラしていた一定数の聴衆の気持ちをくみ取り、「ここでオレも言いたいことがあるけど、連帯していこう!」というようなことを言う。
その言葉に聴衆は共感し、野党の政治家も救われている。

さらに、自民党の政治家に対しても、つねに国会前に来てスピーチしてほしいと呼びかけている。
「安倍はやめろ!」と大声で叫んでいるが、一方で、人を信じて、人に対して、たえず呼びかけている。
このような心でもって人を巻き込めるのは、人を信じたいという気持ち、あるいは信仰が、運動の根底にあるからだと思う。

SEALDsの運動は、私たちに民主主義を生かす力があるかも問うているように感じる。
民主主義とは、本来、ふつうの人びとを信じられる人びとだけにしか、生かすことができない考え方だろうから。

砂原庸介(2015)『民主主義の条件』東洋経済新聞社.

よこはま里山研究所のコラム

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