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フリーランス、ツール、メディア

まちの近くで「里山とかかわる仕事と暮らし」をされている方々のお話の中に、いくつか特徴的なキーワードが挙がっていた。
フリーランス、ツール(ツール・ド・フランスっぽいな)、メディアである。
以下、これらの言葉が語られた文脈と、若干の私見を述べる。

フリーランス

もっと高い収入、もっと安定した職場よりも、自分に正直にあることに価値を置いて、フリーランス、つまり独立した個人事業主/個人企業法人を選んでいるという方が多かった。だから、個人のライフヒストリーと、今されている仕事と暮らしの間に強い関係性があった。現象として社会に現れる「仕事」を理解するには、「人」に出会う必要があるという感覚を強く持った。
一方、自由だからといって、気ままに生きているわけではない。強くしなやかな意思を持って、価値を創造しようと努めている。
私は、そうした彼(女)らに対して、好きにやっているんだから自由に任せておけばいい、とは考えていない。それは、彼(女)らの選択に、必然性も感じているからだ。
彼(女)らの仕事はそれぞれ異なるけれど、根っこには共通するものがあると感じた(そう直感した方々をお招きしたのだが、それは当たっていたように思う)。高度にシステム化された社会に適応するのではなく、もっと魅力的な生き方ができると信じている。彼(女)らは、一人ひとり現代社会の課題に直面し、それを自力で乗り越えようとしている点でつながりがあると感じている。
だから私は、これを個人の企てとしてだけでなく、現代社会の問題として捉えたい。そして、この問題に取り組んでいる若い人たちを、何らかのかたちでサポートできないかと考えている。

ツール

若い人たちからは、そんなサポート要らないよと言われてしまうかもしれない。しかし、里山保全を担ってきた市民活動の蓄積は、現代に活用すべき遺産である。だから、経験のある地域の市民団体・NPOは、ツールとして活用されるのがいい。これは、里山倶楽部の 寺川 裕子さんがおっしゃっていたことであるが、まったく同感だ。
私はNORAを組織として拡大することに興味がない。あくまでも、組織よりも個人。特に個人化が進んでいる現代社会では、その逆をいくことに力を入れるよりも、つまり個人を束ねて組織をつくるよりも、個人の生き方に寄り添える場や、ゆるやかな連帯関係をつくる方がいいと思っている。
そのために、今年で18年目を迎えるよこはま里山研究所(NORA)という組織を、限りなく有効に社会のため、環境のために役立てたいと思う。その結果として、「里山とかかわる仕事と暮らし」を実践する個人が増え、ひいては、里山が保全されていく社会を目指したい。

メディア

表現形として見える仕事や活動は、自分から社会に向けて発信したり、人と人や人と自然をつないだりするときに必要なメディアである。言ってみれば、ツール(道具、手段)であり、自分自身のアイデンティティが、そこにあるわけではない。
たとえば、小池一美さんがコマデリとして、キッチンカーを走らせていることに私は興味を惹かれて声を掛けたのだが、小池さんのアイデンティティは青葉区民であり、コマデリはメディアであるとおっしゃる。そのように自分と所属と活動について意識されていることがいいと思った。
たしかに、一般に媒介、つなぐものという意味でのメディアは重要である。伝わらなければ、そこに関係性は生まれない。しかし、メディアは手段であり、目的ではない。関係性をつくるためには、伝える側のセンスをキャッチできる、伝えられる側の感受性も大切である。むしろ、私はそちらに関心がある。
話を聞くとき、ただ情報を受け取るというだけならば、自分を変えなくても済むかもしれない。しかし、そこに生身の個人が存在して、彼(女)が自分の生きざまを伝えようとするとき、その話を聞く側は「人」の熱にふれている。そのとき、その人のかけがえのない人生を感じようとするならば、自分の感度を上げる必要があるだろう。ここに、インフォメーションではなく、コミュニケーションの場が生まれる。今回、メディアを通してしか知らなかった小池さんに初めてお目にかかって、私はご本人の体温を感じ、その生き方を好きになった。
現代は情報社会だから、インフォメーションならばあふれている。だから、コミュニケーションの場をつくろう。そのために、コミュニケーションできる身体もつくろうと思う。

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