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私を話す / 話す

『旧約聖書』「詩篇」138篇3節

呼び求めるわたしに答え あなたは魂に力を与え 解き放ってくださいました。


今年もまた礼拝で話す機会がめぐってきました。
2011年以降、私は春学期の後半にこのような機会をいただいており、すでに5-6回はお話していますが、まったく慣れません。
今、「めぐってきました」と言いましたが、感話の担当は強制されているのではなく、私はすすんで引き受けています。それなのに、講義で話すときとは異なり、いつも緊張を強いられます。

普段の講義では、自分の得意な分野について、自分の知っていることを、だいたいは私よりそのことを知らない学生たちに向けて話すことが多いです。
いわば、ホームグラウンドにいるようなものですから、学生よりもだいぶ有利な立場から話すことができるわけです。

しかし、この場では、教職員も学生も、キリスト者であってもなくても、あらためて自分を見つめ、考えたことを話すことが求められます。
だから、この場では、ときにその人の人生、生きざまが垣間見られ、その人の存在が表現されます。
だからときに、その人がこの世にいま共に生きていることの有り難さに心を打たれ、その人に近づいて抱きしめたくなるような強烈な共感を呼ぶこともあります。

私には、何度かそうした経験が、特に学生の感話に心を揺さぶられた経験があるからこそ、同じような真摯さと深さで自分を見つめ、伝えることができるかと不安になります。
教員という立場で話すことに慣れている者からすると、普段とは勝手の違うこの場は、吹きさらしの広野に立たされるようで、そして、ともすればそのまま放って置かれるようで、心もとない気持ちがするのです。

けれども、私は教員として学生と出会うよりも、人として人に出会いたいという願いをつねに抱いていますから、1年に1度だけ、このような環境に身を置いて、今の自分を人前にさらし、人として表現してみようと思うのです。

このような気持ちは、自分の内側から自然と湧き起こってくるものではありません。
ここに立ってお話ししようと思えるのは、この場には、何を述べても受け入れられる温かさが、保障されているからです。

この場に立つと、話すという行為は、聞くという行為との関係性によって、いくらでも変わりうることを実感します。
人として話し、その話を人として聞く人がいるとき、そこには新しい関係が生まれることがあります。

具体的に、私自身のことを例にとりましょう。

昨年、私は「選ぶこと、受け入れること」と題して、自分のライフヒストリーの、特に10代~20代の頃の経験について話しました。
たとえば、父の会社が倒産したり、その後、再就職先ではリストラされたり、両親がケンカばかりしていて、離婚したり。これら自分ではどうしようもないことを自分で引き受け、苦しんでいた経験と、その後、その痛みを受け入れ、解放されたというマイストーリーをお話ししました。

その話は、すでに自分の中では決着していることなので、カミングアウトしたというつもりはなく、話したことで自分の内面に何か変化があったわけではありません。
ただ、当時の私と同じように、自分ではどうしようもない問題を一身に引き受け、状況を改善できず苦しく思っている人たちに対して、特に若い人たちに対して、少しでも自由に生きるお手伝いができればと思って話したのでした。

念頭に置いていたのは、実際に私が接した学生たちです。
たとえば、私の研究室に来て、特に何も言わずに一人でゲームをして帰っていく学生がいました。
私は特に訪ねて来る理由を問わず、学生も自分から話すことはありませんでしたが、ある日、「最近、元気?」というような何気ない会話の中で、彼女が少し前にお兄さんを自殺で亡くしたのだと話しました。
何も言わずに亡くなったお兄さんに対して、彼女も含めてご家族の方々は「なぜ?」という問いと、行き場のない感情を心の内に抱えたまま、月日を重ねていたのでしょう。
そう彼女から告白されてみると、たしかに思い当たる節があり、自分の鈍感さに嫌気が差しました。

このように人知れず、痛みや悩みを抱えて、毎日を生きている人は多いと思います。
だから、せめてそうした人たちと共に生きていきたいと思い、自分のことを話したのでした。

礼拝を終えてから、私の言葉が他の誰かに届くのならばと思い、原稿をfacebookにアップしました。
すぐに、いくつもの温かいコメントをいただきました。
しかし、タイムラインはどんどん流れていくので、そのこともまた、大量にあふれる情報の中に埋もれていきました。

ところが、自分自身について話したことが、一部の人には残ることがあるようです。

今年の3月、卒業式を終えてから、卒業する学生からハガキ2枚に細かい字で書き綴ったメッセージをもらいました。
その中に、彼女が3年生の時に家族が別居して、お母さんとお姉さんと狭いアパートに3人で暮らしていること。Facebookに私が載せたエピソードが、自分の境遇と似ていて、共感した部分がたくさんあったと書かれていました。しかも、カッコ書きで、「みんなに見られるのでコメントはできなかったのですが」と書かれてありました。

これを読んで、多くの人が悲しみや痛みを抱えながら生きているのだけれど、それを分かち合えるような機会や場は少ないのかもしれないと思いました。
たしかに、自分の弱さをさらすのは勇気がいるように感じます。
しかし、勇気ある人でなければ自分を話せないならば、それは非常にハードルが高すぎるでしょう。
私がこの場で自分を話せるのは、勇気があるからではありません。あるがままを話せる場があるから、そしてそれを聞く人がいるから、話せるのです。

もう一つ、別のエピソードを紹介しましょう。これは少し長くなります。

今年は私が高校を卒業して30周年に当たるので、先月、記念の同窓会が開かれました。
昨年話したように、私の中高時代は、ほとんど気持ちが上向きにならず、全体的にぼんやりとした記憶しか残っていません。
このため、同窓会とも距離を置いていたのですが、今年は地理の先生が教壇に立ち、教室で模擬講義を開いてくださるというので、行きたい気持ちになりました。
私が大学時代に、地理学を専攻した一つの要因が、中学生の時に受けたその先生に影響を受けたからなので、出席したいと思っていたのです。
ところが、日程が明らかになると、大学の校務と重なり、今回も欠席しました。

同窓会が数日後に近づいたある日、中学・高校に加え、大学も同じところへ進学した友人から連絡がありました。
現在オーストラリアに住んでいる彼は、その同窓会に合わせて4日間だけ帰国するというのですが、私から「同窓会には出られない」と伝えると、「別の日に会える?」と誘ってくれて、同窓会の2日後に横浜の野毛で会うことになりました。

実はこの友人、「友人」と言っても、これまでまともに会話した記憶はなく、もちろん、さしで飲むのは初めてでした。
中高の6年間、毎年クラス替えがあって、2回くらい同じクラスになったような気がしますが、記憶があいまいで確かなことはわかりません。
高校卒業後、彼は浪人した私より1年先に入学していましたが、私が芝居にはまった以上に彼は「運動」にはまって長い学生生活を送り、大学を出ることなく日本を出ていました。

それが4年前、同窓生の縁でfacebookを通してつながり、彼がオーストラリアでウラン採掘問題に取り組んでいることを知りました。
昨年ノーベル平和賞を受賞したICANとの関係も深く、3.11後はtwitterで原発・ウラン関連情報を熱心に発信するなど、相変わらず鋭い視点で社会を見て行動していました。

その彼から、少し前、私が沖縄の自衛隊配備問題について書いた文章を読んだと、好意的な感想が届きました。
ふだん話をする間柄ではないので驚いたとともに、今さらお世辞など言うはずもない彼からの批評を嬉しく受け止めました。
損得勘定もいらない同窓生からの評価は、素直に受け取れるもので、その嬉しいという気持ちは、自分でも意外なほど体の隅々まで広がりました。

そして当日、京急線の日ノ出町駅で待ち合わせ、出会うとすぐに、あたかも古い親友であったかのように彼と話し始めました。
中学高校時代、彼も私もお互いに何者でもなく、ただ自分を持て余して、表現できずにいました。
それから長い年月が流れ、ようやくここから、素朴な友情に基づく、未来のための対話を始められると感じました。

ところで、なぜ彼は私に声を掛けてくれたのでしょうか。
たしかに、お互いに原発や基地などの社会問題に関心を持っているという共通点はあります。
でも、なぜ彼は、高校卒業30周年の同窓会とは別に、1対1のスピンオフ同窓会を設けてくれたのか、実際に会うまで不思議でした。

積もる話をする中から、分かったことがありました。
それは、昨年私がこの場で話した原稿をfacebookを通じて読んでいて、彼にとって何かを強く感じるものがあったということでした。
そのことを聞いて、彼の気持ちを私なりに理解できました。つまり、言ってみれば、彼は中高時代の私に声を掛けてくれたのでしょう。
それは、私の論文を読んでくれたこと以上に気持ちが伝わってきて、心に響くものがありました。

彼と私が通っていた中学・高校は、いわゆる進学校で、同期の多くは、社会的に高い地位に就き、給料の良い仕事に就いています。
世の中の親御さんが、子どもの中学受験に必死になるのも分かるくらい見事に、同期生たちは、医者になり、弁護士になり、官僚になり、一流企業の管理職として働いています。

中高時代、そういう現在の職業を目指していた同期生たちとは価値観が合わず、ここは自分の居場所ではないと思っていました。
しかし、250人も同期生がいれば、少なからず多様性はあって、一人ひとりの個性もあったはずです。

当時は、そこに思いが至らず、同期を十把一絡げに捉えて、人として人に出会うことをほとんど諦めていました。
それが、学生のためにと思って1年前にここで話したことがきっかけとなって、30年以上も時間を巻き戻して友人と再会し、個性ある人として出会うことができたのです。

ちなみに彼は、日雇い労働者が集まる横浜の寿町にフィールドワークで来ていたアメリカ人の人類学者と結婚し、そのパートナーの仕事の関係でオーストラリアに移住し、現在は障がいを抱える子どもの世話もあって、主夫をしているとのことですから、同窓生の中ではかなり異色と言えます。
ただ、本来、人はそれぞれ異なった色を持っているものですが。

さて、これらのエピソードを通して私が話したかったことは、「私を話す/放す」ことが生みだした関係についてです。

「私を話す/放す」ことは、この身を人前にさらけ出すことである。
こう考えると、それは勇気が必要で、一部の人にしかできない行為となるでしょう。
けれども、その話を聞き、話/放された私を受け止める者があれば、「私を話す/放す」には勇気が必要というよりも、関係を作り出そうという意思の問題になります。

私はこの場を、「話/放された私」がどのようなものであれ、受け止められると信じています。
その信頼に基づいて、私は「私を話す/放す」のです。

私は、人として生まれてきたからには、人と出会い、人の間に生き、笑い転がり、泣き喚き、人の優しさと温かさを知って、生き抜きたいと思っています。
だから、「私を話す/放す」のです。私という存在を表現するのです。

このことに関連して、スピンオフ同窓会で友人に教えられたことを紹介して、話を閉じましょう。

いろいろと話すうちに彼は、日本で言う自己肯定感について違和感を覚えるという話を始めました。
自己肯定感とは、英語のself-esteemを訳した言葉ですが、これは成功体験によって得られるような特別な肯定感とは違うというのです。
なるほど、しばしば自己肯定感を得るために、資格を取得せよ、インターンシップを体験せよなどと言われます。
しかし、そうではなくて、self-esteem とは、I am what I am. つまり、「自分は自分である」ということ、それ以上でも以下でもないということについて、そのあるがままを誇るでも、へりくだるでもなく、受け止められることだと教えてくれました。

「私を話す/放す」ことも、大きな勇気を要するカミングアウトではなく、self-esteemの証しとして人に伝えたい。伝えることで、人として関係を作っていこうという意思を示す。表現するということだと思います。

人びとが忖度し合って、個性を押し隠し、表現を控える時代にあって、あらためて「私を話す/放す」こと。そこから他者と共に生きるために、関係を作っていくこと。この意味は非常に大きいはずです。


最後に、クリスチャンではないのですが、短くお祈りをさせてください。
本日は、この礼拝で自分自身について語ること、「私を話す/放す」ことについて考え、話す機会をいただき、感謝いたします。

自分のあるがままを受け止められること、また、それを表現することは、しばしば望ましいことだと言われますが、当人だけの力では難しいと思います。
ぜひ、そうした人たちが、特に若い人たちが、「自分は自分である」として「私を話す/放す」ことのできる機会を、等身大の自分を表現できる場を与えてください。
また、そうした個性が表現されたとき、その人の声に耳を傾け、その人に寄りそい、その人の存在と個性を認める友を与えてください。
加えて、私たちが「私を話す/放す」ことで生まれる人間関係について、それが優しく温かいものとして作ることができると信じられるように、前向きな気持ちを持たせてください。

この感謝と祈りを、イエス・キリストの御名を通してお献げいたします。

(2018年6月26日、恵泉女学園大学チャペルアワー感話原稿より)

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