宮内泰介『社会学をはじめる―複雑さを生きる技法』(2024年、ちくまプリマー新書)
「渾身の一冊、出します!」
約1か月前、著者の宮内さんは、本書の刊行に際してXでこう呟いていた。
本書は、近年の社会学の動向を踏まえながら、社会問題・環境問題の解決に向けた社会学の生かし方について、平易な言葉で真正面から論じた本である。
読み終えたときの感想は、かりに私が同じようなことを考えていたとしても、本書のように、流れのある構成を組み、わかりやすく表現することはできない、というものだった。
本書を読み通すには、さほど時間がかからないが、言葉の1つひとつが慎重に選ばれ、磨かれ、そこに置かれていると伝わってくる。
宮内さんが「渾身の一冊」と表現した理由がわかる気がした。
私は、自分の考えをすらすらと文章に表すことができない。
いつも相当の時間と根気を要するから、精神的に落ち着いていないと取りかかろうという気持ちになれない。
読者を想像しながら、頭にある考えを自らが納得いくように1つひとつ言葉をあてがい、文章として表すには力が要る。
その難しさを日々痛感しているので、他人の文章を読むときには、その言葉が生まれ、文章が成り立つまでに、どのくらいの力が込められたのだろうかと想像する。
本書は、言葉数が少ないからこそ、言葉の1つひとつに思いが凝縮されているように感じられる。
さて、ちくまプリマー新書に収められた本書は、社会学の入門書(プリマー)として書かれている。
日本で社会学を学ぼうとすると、大学で社会学を専攻するのが標準的であり、そうした学生向けに書かれた入門書は少なくない。
少し古いところでは、ランドル・コリンズ『脱常識の社会学―社会の読み方入門 』(岩波現代文庫)、最近だとケン・ブラマー『21世紀を生きるための社会学の教科書』(ちくま学芸文庫)などは良書だと思う。
分厚いけれど、アンソニー・ギデンズ『社会学』もいい。
一方、本書は社会学を専攻する学生のみならず、もっと広く、この社会に生きる普通の人びとに向けて書かれている。
市民社会の作り方を意識して書かれた本と言ってもよい。
ここで急いで補足しておくことがある。
市民社会というと、自立した近代的な市民によって構成された社会をイメージされることがあるが、ここではそんな気取った社会ではなく、有象無象な市民によって構成される社会である。
日本の市民社会との対話を目ざして文章を書くならば、わかりやすい日本語を用いることが必要である。
本書に用いられている言葉は、そうした水準が強く意識されているように感じられる。
著者の宮内泰介さんとは、20年近く研究上の付き合いがある。
宮内さんが研究グループの代表であり、私はそのグループの一員として加わり、研究仲間と意見を交わし、いくつか論考をまとめる機会をいただいてきた。
その研究会で、2年前にどういう文脈だったのか忘れてしまったが、宮内さんがさらっと「市民社会の当事者研究が社会学」とおっしゃった。
私は、この捉え方は社会学の魅力を衝いていると感じ、Xに書き留めた。
自分が生きる社会の問題を改善したい、解決したいと願い、どうすればよいのかと考えている人は多い。
というより、ほとんどの人びとは、何かしらそう考えているだろう。
そんなときこそ、市民社会の当事者研究=社会学の登場である。
では、どうすればよいのだろうか。
私たちが考えたい問題はたいてい複雑すぎるし、関係者は多すぎるし、解決に当たるための人も時間もお金も足りていない。
そもそも、私たちが考えるべき社会の問題とは何か?
問題を解決するとはどういうことなのか?
このように問題解決のための基本的な事柄でさえ、合意が困難な問題も少なくない。
なんで、こんなにやっかいなのだろうか。
たとえば、待機児童問題。
待機児童とは誰か、待機児童数を数え、その数を減らし、ゼロとなったから解決!というふうに考えるだろう。
しかし、隠れ待機児童の存在や保育士不足といった問題も含め、総合的に考える必要があるため、ある視点から定義された問題が表面的に解決されたとしても、それで複雑な社会の問題が根本的に解決されるとも限らない。
むしろ、部分最適を目指した結果、全体最適からは遠ざかるという場合もある。
著者は、社会にやっかいな問題にあふれている理由を、私たちが見ている世界が1つではないこと、私たちが受け取っている「意味」はさまざまであり、その多元的な「意味世界」によって社会が成り立っているからだと説明する。
この本書第1章「世界は意味に満ちあふれている」に書かれていることは、おそらく多くの社会学者が同意し、議論の前提にしている内容であるが、一般の人びとに簡単に通じる話ではないと思う。
もちろん、もっと丁寧に書くこともできるだろうが、直感的にわかることでもあるので、宮内さんは「意味」という言葉を軸に、正面から潔く世界の複雑性・多元性を説いたのだろう。
続く第2章では、社会の問題を考えるために人びとの意味世界を探り(第1章)、その上で共同的に規範を作ろうとする営みが社会学だと書かれている。
このあたりの議論は、盛山和夫『社会学とは何か―意味世界への探究』(ミネルバ書房)を思い起こさせるもので、社会学のエッセンスをさらりとズバリ表現しており、そのストレートな書きぶりに驚かされた。
第3章~第5章では、社会学の調査・分析・理論について章ごとに書かれている。
この中でもっとも重要な言葉は「聞く」であろう。
宮内泰介『歩く、見る、聞く―人びとの自然再生』(岩波新書)でも、「聞く」というシンプルな方法の重要性が強調されていた。
「聞く」は受動的な行為に思われがちであるが、人に「聞く」ことがなければ話を聞き出すことはできないので、社会調査において「聞く」は能動的な行為である。
また、本書では「対話(的)」という言葉が多用されている。
社会調査を通してデータを集めようとするとき、それが調査者によって一方的に収集されるのではなく、調査対象者との対話的なプロセスを経たものであるかが重要であり、それはアンケート調査であっても同様だという。
調査者-被調査者の関係性については、これまで多くの議論の蓄積があるけれども、本書では社会調査のポイントを「対話」を軸に言い表しており、見事だと思う。
なお、社会調査に関するテキストとしては、岸政彦・石岡丈昇・丸山里美『質的社会調査の方法―他者の合理性の理解社会学』(有斐閣)が現代的でよい。
本書では、社会の問題を考えるために、社会学することを勧めている。
その内容とは、人びとの意味世界を探り、対話的にデータを集めて分析し、共同的に規範を作ろうとするものであり、これが宮内さんの考える社会学実践である。
これらの主張は、近年の社会調査や公共社会学に関する議論を踏まえつつ、環境社会学における順応的ガバナンス論の知見も加えて展開されており、具体性を持って伝わってくる。
(宮内泰介『なぜ環境保全はうまくいかないのか―現場から考える「順応的ガバナンス」の可能性』(新泉社))
本書のメッセージに呼応するように、近年の社会学では、地道な調査によって対話的にデータを集め、地に足のついた分析によって、言える範囲の規範を語るというオーソドックスな良い研究が増えている。
あとは、読者に委ねられた。
社会の問題を考えるために、社会学をするかしないのか。
私が本書の中でもっとも印象に残った一文は、あとがきに書かれている「この本は、良質な社会学的ないとなみを地道につづけている人たちへのエールでもあります」であった。
私自身がエールを受ける立場にあるかどうかはさておき、この社会で「聞く」ことや「対話」がほんとうに必要とされているのか、この疑問に対して自信を持ってイエスと答えられなくなりつつある私にとって、この一文は十分な励ましになった。
成田悠輔『22世紀の民主主義―選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』(SBクリエイティブ)が言うように、社会が動いていくことは避けられそうにないだろう。
ならば、社会のすみずみに自動でデータを収集する装置を張り巡らせ、そのビッグデータのAI解析によって導出される選択肢に従って、社会を運営していくのがよいのだろうか。
私にはそうは思えない。
少なくとも現時点の最新アルゴリズムでは、私たちが生きる多元的な意味世界を扱えないと考えるからである。
だから、社会問題を考えるために、私は社会の解決力を信じたい。
社会の力を活かすために、社会を構成するさまざまな意味を理解し、共同的に規範を作り、社会のそこかしこで小さな共同性を回復させたいと思う。
このプロジェクトは、個人化が進む現代社会において、反時代的な試みのように思われる。
私も全体的に共同性が回復していくとは思っていない。
それでも、何か社会の問題を考えるために、一時的であれ、解決に必要な共同性を取り戻せればと思っている。
現実のコミュニティづくりの現場では、うまくいかずに頭をかかえることばかりである。
問題解決の難しさに呆然として、投げ出したい気持ちになることもある。
最近は、自分が歳を重ねたせいか、社会に対話の場が減っているせいか、そんなふうに思うことが増えてきた。
だから、あとがきのエールが心に染みた。
(松村正治)