前回のコラムでは、「次回は私が里山保全にかかわろうと思った理由について書きます」と締めくくりました。
しかし、こう予告したものの、この1ヶ月間考えたところ、すっきりとした簡単な答えは出せないこと、自分の中の深いところまで潜っていかないと説明できないことがわかりました。
そこで、本や映像を紹介するというこのコラムの目的を離れて、子どもの頃の記憶を思い起こしながら、私が里山保全にかかわるようになった理由を探り出していこうと思います。
私は、物心がついた頃から、東京の外れにある住宅街に住んでいます。
20代の頃は、都心に近いところに住んだこともありますが、30年近く同じ所に住んでいます。「高級住宅地」というイメージがある町で、たしかに立派な家が建ち並んでいます。
しかし、私はその中にあって、比較的所得の低い人たちが住む公営住宅で育ちました。
私が少年時代を過ごしたのは昭和40~50年代でしたが、近所の家々やそこに住む人々の生活は、映画『三丁目の夕日』に表象されるような昭和30年代のようでした。
もちろん、周りの立派な家々は昭和50~60年代、もしかしたら平成の暮らしをしていたかもしれません。
子どもの時に住んでいた家は、炭坑街によく見られる平屋の二軒長屋でした。
どこの家も鍵を掛けることはなく、勝手口から各家の庭に入り込むことも自由で、「かくれんぼう」で遊ぶときは、そういう家や庭で隠れることも許されていました。
逆に言うと、個人の屋敷の中も、子どもの共有の遊び場になっていたのです。
近所にはガキ大将がいました。
ただし、ジャイアンのように1人勝ちの世界ではなく、2人の対照的な年長者が私たちのガキ大将でした。
1人は明るくて豪快でスポーツ万能で、毎日、路地で遊ぶ野球でホームランを打つようなタイプです。
まぶしいほどの明るさを放ち、誰もが引きつけられました。
強面のお父さんがいて、平日の昼間に、白い下着と短パンで遊び場にやって来て、私たちに野球を教えてくれるというガキ大将の標準型です。
もう1人は影があって、ぜんそく持ち、野球で言うとパワーヒッターではなく技巧派で、誰も打てないようなコースをホームランにしてしまうタイプです。
お母さんがいなくて、お父さんに育てられていたため、何となく私たちもそのことを気にしていました。
人を引きつけるような明るさを持ち合わせてはいませんでしたが、その行動や発言には不思議な説得力がありました。
近所に住む私を含めた子どもたちは、この2人がキャプテンを務めるチームのどちらかに所属して、毎日飽きずに狭い路地で野球を楽しんでいました。
「魔法使いサリー」に出てくる3つ子そっくりの3兄弟や、母子家庭で大きさがでこぼこの3兄弟などが、しっかり脇を固めていました。
だいたい、7:3くらいの割合で、スポーツ万能の大将に率いられたチームが勝つのですが、私にはこの結果に悪くないと感じていました。
結局、強いものが勝つと言ってしまうこともできますが、私は弱くてもけっこう勝つのだと思ったのです。
また、勝率7割を誇るキャプテンも、ときどき不機嫌なお父さんに怒鳴りつけられ、遊び場から強引に連れていかれることがありました。
いつも明るい大将がいなくなった私たちの路地は、昼間なのに影が差したように生気がなくなり、お父さんにきつく叱られないだろうかと心配しながら、バッターボックスに入る苦々しさが思い出されます。
そういうコミュニティだったためでしょうが、近所には社会の中で力を持てない人が多く住んでいました。
たとえば、身体と知的に障がいのある人がいて、ときどき、路地をぴょこぴょことはね回っていました。
また、離婚したり、死別したりして、片方の親が3-4人の子どもを育てている家庭もありました。
そして、そういう障がいのある人や、片親に育てられていた子どもたちは、周りからいじめられていました。
ばい菌がうつるという噂が小学校内に広がっていたので、そうした家の前を通るとき、私の通っていた学校の児童たちは、一緒になっていっせいに息を止めて、駆け足で走り去ったものでした。
私も、同級生から唐突に「ぼろ家!」と言われたことがあります。
実際、築年数が古いために、あちこちからすきま風が入り、毎年、アリや羽アリが大発生する木造の住宅でした。
また、当時、すでに水洗便所が当たり前だった時代に、くみ取り式の便所でしたから、そのようにからかわれる理由はあったのです。
もちろん、道徳的には許されない言い方だったので、そのように言われて口惜しく、また腹を立てたのですが、同時に私は、なぜそんなことを言い出すのだろうと、どこか冷めながら、彼の心の中にある刺々しさを気にしていました。
こういう環境に育ったせいか、私は子どもの頃から、世の中の多くの人の言っていることややっていることは、けっこう間違っているものだという感覚がありました。
でも、子どものときは、同級生らと一緒に、先ほどの障がいを持っている人をからかったりしたこともありました。
そんなに強くて芯のある子どもではありませんでした。
そのときには、自分が住むコミュニティの仲間の側に立てなかった悔しさが残りました。
小学4年生のことでした。
小学3年生くらいまでの世界は狭く、その中での遊び、濃密な人間関係が楽しかったのですが、中高学年になるにつれて、世界が広くなるにつれて、だんだんと無邪気ではいられなくなってきました。
近所のガキ大将2人は中学校に入り、スポーツ万能の彼は、ぐれていきました。
近所では私たちの大将であっても、一歩外側の社会では認められなかったのでしょう。
そして、もう1人の大将は、遠くへ引っ越してしまいました。
早く大人になりたいと思っていました。
ここから出て行き、自由になりたいと思っていました。
たまたま、小学4年生のとき、生意気で頭の良い女の子が転入してきました。
今から考えるとほほえましく感じられるのですが、私はその子に対してライバル心を燃やし、親にせがんで塾に通うことにしました。
その子が中学入試に向けた勉強をしていると聞いて、後先のことは考えず、受験勉強を始めたのです。
勉強をしているときは、近所のもろもろや家庭内の不和などを忘れることができて、気が楽になりました。
そういうことから逃げるのに勉強は好都合でした。
しかし、小学6年のとき、その子はどこかへ引っ越してしまいました。張り合う相手がいなくなり、私は置き去りにされたような感じでした。
前年に父の会社が倒産したこともあり、私立中学に行ける家計状況ではないことは承知していました。
でも、親からは「お金のことは心配しなくていい」と言われ、学校の先生など周りからの勧めもあって、私立中学を受験しました。
通勤電車に乗って、都心に通うようになりました。
80年代の甘ったるいポップ感覚に漂いながら中学・高校と過ごし、大学に入ると、今・ここに賭ける小劇場の世界に浸かり、10年以上、私は地元を振り返ることがほとんどありませんでした。
しかし、実際に私立中学に入って都心に通うようになると、自分の居場所はますます無くなってしまいました。
昔一緒に遊んだ近所の子どもたちとは、顔を合わせると気まずさを覚える距離ができてしまいました。
一方、学校でも、生意気盛りの同級生たちと、大切なことを話せないもどかしさを感じていました。
制服を着ていると、他の生徒と同じように見えるので気が楽でしたが、一皮むくと、父の会社が倒産したり、リストラにあったり、家庭環境がどうしようもなく冷え込み、結局、離婚したりなど、自分の家のことを何一つ肯定的に捉えることができませんでした。
結局、10年以上、私は人を家に招くことはありませんでした。
当時の私は、そうした悲劇を宿命と思って、浮ついた時代の流れに身を任せながら、ただ時が過ぎてくれるのを待っていたように思います。
家のこと、コミュニティのこと、自分の足もとに対しては目を向けていなかったのです。
大学に入学すると、名字が変わったこともあり、新しい自分を始めようという気持ちがありました。
そういうタイミングで小劇場の芝居を見たからでしょうか、すーっと芝居の世界にはまっていきました。
ほとんど授業に出なかったので出来の悪い学生でしたが、ようやく自分の足で前進できるようになりました。
また、芝居をしていたときは、公演初日にようやく脚本ができて、セリフを覚えるだけでもギリギリの状態で舞台に上がったり、突然、自分の役に対する不満から蒸発する役者がいたり、主役が急に入院して代役を務めることになったりと、本当にいろんなことがあったので、苦境に強くなりました。
卒業後に就職した会社を、その後の当てもなく5年目に辞めたのですが、その時は何も怖くありませんでした。
28歳になっていました。
ようやくスタートラインに立った気がしました。
振り返れば、10年くらい回り道をしたように思います。
でも、自分には必要な時間でした。
学生時代に疎かにしていた勉強をしようと大学院に入りました。
会社員の頃とは比べると年収は1/3ほどでしたが、自由な時間がありました。
平日の昼間、家の近所を散歩してみると、子ども、女性、高齢者ばかりです。
当たり前のことですが、こういう人びとによって、普段のコミュニティは支えられているという事実に気づきました。
新鮮な驚きでした。
さらに、ずんずん足を延ばしてみました。
家から高級住宅街を抜けると、里山があるはずでした。
この坂を登り切ると、そこには畑が拡がっているはずだ、と思って歩くと、そこは住宅地になっていました。
この坂を下りていくと、そこにはぬかるんだ湿地があるはずだ、と思って歩いていくと、やはりそこも住宅地になっていました。
しかも、家の感じからすると、だいぶ前からそのように開発されていたようでした。
うかつでした。
なぜ、もっと早く気づかなかったのかと悔しく思いました。
私は、家の近所ではないけれど、少し足を延ばせば、まだ十分にみどりがあると思っていたのです。
いや、正直に言うと、「みどり」ではなく、「貧しさ」「古さ」「ひたむきさ」がまだ残っていると思っていたのです。
かつて、私の町の周りは東西南北どこへ行っても、田畑や雑木林が拡がっていました。
友だちと一緒に自転車を飛ばし、普段遊び慣れている町を越えると、カブトムシを取る雑木林や、ザリガニを釣り、オタマジャクシをすくう谷戸がありました。
一方、そうした里山は、スズメバチやマムシを恐れ、「チカン注意!」などの看板が立っている場所でもあり、歓喜と恐怖を同時に体験するところでした。
私は、いつも遊んでいる町とは違う、よく言えば田園の、悪く言うと田舎くさい場所まで来ると、いつも、そこで働いている人が気になりました。
茅葺き屋根の家があり、腰を曲げて農作業に勤しむ年老いたお百姓さんがいました。
家から自転車で15分ほどの距離なのに、この落差は何だろうと思っていました。
私は、自分のコミュニティと同様の匂いをかぎつけ、共感と反感がない交ぜになったような気持ちを覚えたのでした。
ドーナツの外側は内側よりも、さらに時代に遅れて貧しいように見え、目を背けたくなるとともに、何か声を掛けたくなるような気持ちでした。
それから、約20年が経過し、子どもの頃、反感を覚え、目を背けたかったものは一掃されました。
木造の二軒長屋だった私の家も、鉄筋コンクリートに建て替えられました。
社会の中に、これらを排除する力があったのでしょう。
私は、その力に棹さすとともに、その非情さを感じて育ちました。
抗おうとしながらも、そのほとんどに挑むこともできませんでした。
そうした個人の経験を社会に向けて役立てることなく、知らぬ間に近くの里山が消えてしまったことを後悔しました。
それ以降、私は身近な田畑や雑木林のことが、無性に気になるようになり、何か力になりたいと願うようになりました。
少し調べてみると、自転車で30分程度の距離のあちこちで、さして政治的な力を持たない人びとが、地道に、しなやかに、創意工夫を凝らして、近くにある小さな里山を守ろうと活動していました。
多くは、主婦の方が中心になっている運動で、その弱いけれども粘り強いパワーに多くを教えられました。
そこから私が勝手に学んだことは、自分にとって大事な環境は、まず自分で守らなければいけないということでした。
私が身近な里山をあらためて大事に思うようになったことは、自分を形づくった家庭やコミュニティとの関係をあらためて結び直すことと同じだったように思います。
それは、私がこれまでの私を丸ごと愛することだったのかもしれません。