私が大学院生時代から関心を持ち、今でも興味を持ち続けているのが、一定の範囲の地域の自然を守ろうとする市民団体です。
自宅から近い町田市や横浜市などでは、残存する緑に比べて人口がとても多いので、すぐれた里山景観が残っている場所では、たいてい何らかの市民活動がおこなわれています。
だから、私が身近な自然の価値に目を向け、何らかの活動を始めたいと思ったとき、それは、環境に対して働きかけることであるとともに、すでに活動している市民ともかかわり始めることでもありました。
つまり、私の周辺で里山保全活動に加わることは、身近な自然とかかわることと、多様な人びととかかわることを同時に意味するのです。
そして、私はこの新しい環境と社会と関係を結びながら、大いに刺激を受け、学び、成長してきたと思っています。
前回のコラムで述べたように、私の市民活動デビューは、今から十数年前、「恩田の谷戸ファンクラブ」(OYFC)に入ったときです。
その頃は、すでに都市近郊の里山保全活動はかなり盛んになっており、どこのフィールドにもユニークな活動家が活躍していました。
遅れてやって来た私からすると、そうした活動家たちがキラ星のように輝いて見え、活動に参加した当初は気後れしたものです。
私が強く興味を惹かれたのは、すぐれた女性の活動家たちでした。
特に、谷戸の保全を主導する女性のリーダーたちは、前向きな行動力と粘り強い忍耐力、常に真摯な態度と説得力のある発言、それに周囲を温かくする笑顔などを併せ持ち、リーダーたる魅力を感じたものです。
「山崎の谷戸を愛する会」の代表を長く務められ、現在は「山崎・谷戸の会」で事務局長をなさっている相川明子さんは、そうしたリーダーの1人です。
(ちなみに、OYFCは女性2名の共同代表により運営しています。)
ここで、相川さんを中心としたこの活動の歴史を振り返っておきましょう。
1990年、通称「山崎の谷戸」と呼ばれる緑地に都市公園をつくる「鎌倉中央公園基本計画」が発表されました。
基本計画のイメージイラストには、斜面地がまるで芝生のような緑で覆われ、コンクリート護岸の池の端には全面ガラス張りの建物が描かれ、その池には吊り橋まで架かっていました。
この発表を知って驚き、その内容に猛反発したのが、「山崎の谷戸」で乳幼児の青空保育をしていた「なかよし会」の母親たちでした。
この会は、保育園勤めを経験していた相川明子さんが、既存の保育園のように型にはまったやり方ではなく、一人ひとりの心を育むために「自然の中で保育をしたい」と作った自主保育のグループで、1985年から「山崎の谷戸」を拠点にして活動していました。
「子どもを育てる大切な谷戸の自然が改変される」と危機感を覚えた母親たちは、「谷戸景観をつぶしてしまう公園計画を是正する」ために、「山崎の谷戸を愛する会」を発足させました。
会は、設立と同時に鎌倉市に対して陳情書を提出し、谷戸に対する配慮を求めて基本計画の白紙撤回を迫りました。
しかし、すでに第1工区の計画の大枠は固まっており、十分な譲歩を引き出すことはできなかったので、その後、相川さんたちは公園づくりにかかわっていくことになりました。
自ら汗を流して谷戸を保全する姿勢を示すことが大切だと考え、清掃、草取り、パトロール活動を始め、さらに、谷戸の景観を象徴する田んぼを残したいと、残されていた谷戸田で、地権者に教わりながら米づくりを始めました。
また、谷戸の雑木林を生かすために炭焼きに取り組んだほか、子ども向けの自然観察会も開始するなど、谷戸を環境学習の場とする活動も広げていきました。
このように谷戸の魅力を広くアピールしながら活動を続けたことにより、1996年に鎌倉市から提示された第2・第3工区の修正案では、米づくりを続けていた谷戸田と湿地の半分が残される計画となり、会の主張が大きく認められる結果となりました。
鎌倉中央公園を訪れると、1997年6月に開園した第1工区と、2004年4月の全面開園とともに供用された第2・第3工区との違いに驚かされます。
第1工区には、「都市公園」の典型的な姿が表現されているのに対して、第2・第3工区は、谷戸の地形を生かして、自然とのふれあいや農作業体験などができるゾーンとなっています。
私は、この景観の差を見るたびに、谷戸を残したいという母親たちの反発から始まった力の大きさを感じ、草の根の市民の力を信じたくなるのです。
なお、「山崎の谷戸を愛する会」は、2004年4月の全面開園時に、それまで同じフィールドで活動していた10の市民活動団体とともに、「鎌倉中央公園を育む市民の会」を発足させました。
2008年4月にはNPO法人格を取得し、「山崎・谷戸の会」と改称しています。
この会は、公園内に残る谷戸景観と生態系を守るために、活動を継続しています。
私はOYFCの活動に参加するようになって間もなく、相川さんのことを知ったのですが、相川さんが私のことを知ったのは5年前だと思います。
知り合いから、全国の自然再生事例を紹介する本を作るプロジェクトに誘われ、その中で相川さんを取材することになりました。
(自然再生を推進する市民団体連絡会編『森、里、川、海をつなぐ自然再生―全国13事例が語るもの』(中央法規出版、2005年))
そのときの私の取材メモには次のように書かれてあります。
相川さんは、いつも体を動かしている。
だから活動中に訪問しても、どこにいるのかわからない。
全体の進行に目を配りつつも、ほかのメンバーと一緒になって働いているので、あまり目立たないのである。
あくまでも自然に、たんたんと、やるべきことをやっているという印象がある。
まぎれもないリーダーであるのに、ほかの会員たちの中にまぎれることができる。
強制的に仕事を周りに振るのではなく、うまく巻き込みながら味方につけることがうまい。
こうした技術は、天性のものなのか、経験から培われてきたものなのかわからないけれど、周囲が気分良く働けるような環境を作り出している。
実際、私も取材に行ったときに、ただ話を聞くだけではつまらないと思い、谷戸田の「田うない」をお手伝いしました。
これは、私の意志というよりも、何かマジックにでもかかったかのように自然に手伝うことになったのでした。
昨年(2008年)、相川さんは1985年から続く「青空自主保育なかよし会」の活動をまとめ、『土の匂いの子』として出版しました。
前著『土の子育て』(コモンズ、1997年)に続くものです。
「山崎の谷戸」(鎌倉中央公園)を舞台に子どもたちが自然の中でいかに育っているのかが、相川さんの文章と、自主保育にかかわる親の多声的な語りから生き生きと伝わってきます。
千葉県の木更津社会館保育園における里山保育が、NHKのETV特集で取り上げられ、映画『里山っ子たち』として上映されたことにより、近年、里山保育に対する関心は高まっているようですが、相川さんたちの鎌倉における自主保育活動は、それに勝るとも劣らないものであります。
(近々、「なかよし会」の記録映画もできるようです)
さらに、公園づくりの成果やも考慮すれば、相川さんたちの活動は奇跡的であり、
私たちに大いに勇気と希望を与える力を持っています。
相川さんには、『アフリカ女ひとり』(東京新聞出版局、1980年)という著書もあるように、30年前にも1人でアフリカへ行ってしまうほどのグローバルな行動力があります。
しかし、「山崎の谷戸」にかかわってからずっと、この地をベースにして活動を継続されています。
おそらく、相川さんは好きで選んだわけではないとおっしゃるでしょうが、移動の容易な現代にあって、あえて土着化するという生き方にも考えさせられます。
私は / あなたは、どこで何のために生きるの?