元・平塚市博物館の館長で、その後、神奈川大学で教鞭を執られていた浜口哲一さんが、5月3日にお亡くなりになりました。
私は浜口さんの著作の愛読者に過ぎませんが、2回だけお話しをしたことがあります。
今年は、浜口さんとお近づきになれるのでは期待していたので、この訃報に接したとき、とても落胆しました。
最初に浜口さんとお会いしたのは、今から7年前です。
当時、私は大学院を休学して、NORAで非常勤スタッフをしていました。
学費を払う余裕がなかったので、いくつかアルバイトをしながら研究を続けていたのです。
この頃のNORAには、印刷スピードのとても遅いプリンタしかなくて、私が働くにしても、使えるPCがありませんでした。
そこで、自分が仕事のしやすい環境を整えたいと思い、ある財団に助成金を申請したところ採択されました。
もちろん、ただプリンタとPCを購入するための助成ではありません。
その頃の私は、市民による里山保全活動が盛んになってきたものの、里山とどのような関係を築いていくのか、将来のビジョンを考えている市民は少ないという問題意識を抱えていました。
里山保全と言えば、除間伐と下刈りをして、見た目が良い景観を作り出すものだという決まった考え方に支配され、市民サイドからの面白いアイデアが出にくくなっていると感じていました。
同時に、そうした雰囲気を一掃させるためには、里山の多様な可能性を追い求め、人と里山の新しい関係性に夢を描き、そこに向かって実践を積み重ねていく学びの姿を具体的に提案したいと考えていました。
そこで、そうした学びを「市民による里山学」として提唱し、この学が備えるべき理論と方法を検討するという研究計画を書いたところ、さいわい助成金を得ることができたのです。
私がイメージした「市民による里山学」では、今日の市民が里山の木を伐ったり、草を刈ったりすることの意味を、市民自身が大胆かつ柔軟に考えることを重視しました。
ここにあるのは典型的な近代的な市民像であり、そうした市民への期待に対して批判があることは承知していますが、それでも私は市民の力を信じています。
「市民による里山学」を構想していく中で、やって(保全活動)、みて(調査・モニタリング)、考える(評価、改善)、という順応的な取り組みのサイクルが必要であると考えました。
このうち、市民による保全活動については、すでに十分なノウハウが蓄積されていました。
しかし、里山における市民調査の手法については、あまり考えられていないように思いました。
ただし、過去の公害や自然保護分野などでは、市民が工夫しながらデータを集め、企業や行政に対抗してきた蓄積がありました。
こうした市民調査に認められる思想を継承しながら、市民こそができる里山調査を提案したいと思いました。
このように考えていたときに、アドバイスをいただくために訪問した先達のお一人が浜口さんでした。
浜口さんは、平塚市博物館で、多くの市民を巻き込みながら、当時としてはきわめてユニークは活動を実践されていました。
その活動は、『放課後博物館へようこそ―地域と市民を結ぶ博物館』(地人書館、2000年)という浜口さんの著書に生き生きと描かれています。
この博物館には、展示室だけではなく、集会室や研究室あるいは収蔵室にも、毎日のように市民が出入りしています。
こうした特徴をとらえて、浜口さんは「放課後博物館」と呼びました。
放課後とは、学校の放課後だけではなく、勤め人のアフターファイブや、定年後という人生の放課後でもあり、そうした余暇を使って博物館の活動に参加できるところという意味です。
平塚市博物館では、浜口さんが中心となって、市民参加による生きもの地図づくりをおこなってきました。
(浜口哲一『生きもの地図が語る街の自然』(岩波書店、1998年) 、『生きもの地図をつくろう』(岩波ジュニア新書、2008年))
調査の対象となったのは、セイタカアワダチソウ、タンポポ、カエル、ツバメ、セミの抜け殻、アシナガバチの古巣、鳴く虫など、私たちに身近な動植物でした。
生きもの地図をつくると、対象種の選好する環境条件が浮かび上がり、都市化の影響について読み取ることができるなどの効果があります。
その情報は自然環境保全のための町の基礎資料として役立ちます。
実際、作成した生きもの地図には、街の自然を豊かにするためのヒントがたくさん詰まっていました。
たとえば、市街地に生き残る種には樹上性の動物が少なくない一方で、草原性の種は著しく減少しているという事実が明らかになりました。
そして、これまで街の自然を回復する手段として、熱心に樹木を植えてきたことに反省を促し、今後は草地を増やす工夫も必要という含意を得ることができました。
こうした取り組みは、私が思い描く「市民による里山学」に必要な調査手法であり考え方であると感じていました。
調査ノートを確認すると、2003年6月24日に、私は平塚市博物館に浜口さんを訪ねています。
初対面にもかかわらず、温かく迎えていただき、唐突な拙い質問に対しても、すぐさま意図を見抜き、明快にお答えいただきました。
自然に対する深い理解と現場の度重なる経験をもとにした浜口さんのお話しに心の底から感心しました。
同時に、その浜口さんと楽しく話せたので、私が考えていることは、そんなにつまらないことでもなさそうだという自信を持ちました。
その後、私は「市民による里山学」というテーマを、飽きもせずに、ぼちぼちと考え続け、2007年には『環境社会学研究』という学会誌に関連する論文が掲載され、今年発行された『みどりの市民参加』(木平勇吉編、日本林業調査会)にも、関連する文章を寄せることができました。
少ないながらも、こうした文章を書けたのは、平塚市博物館で2時間ほど浜口さんと熱心に話し合ったこのときの経験があったからこそだと思っています。
2回目にお会いしたのは、今年の2月6日、SMPシンポジウム「横浜の谷戸の生物多様性保全を考える」の会場でした。
この日、浜口さんは「谷戸の自然と生物多様性」というタイトルで、基調講演をされました。
私は、現在参加している研究プロジェクト「アダプティブ・ガバナンスと市民調査に関する環境社会学的研究」(研究代表者:宮内泰介北大教授)で、今秋、研究会を企画することになっており、講師の1人として浜口さんをお招きしようと考えていました。
基調講演後の休憩時間に、私は浜口さんのもとへ駆け寄り、研究会の趣旨を説明して、講演のお願いをしたところ、快くお引き受けいただけきました。
浜口さんをお迎えできれば、研究会が面白くなるに違いないと確信し、今年は久しぶりに本気で浜口さんとお話できると楽しみにしていました。
しかし、それは叶わなくなりました。
浜口さんが残された文章を読み、記録を眺めながら、その遺志を引継ぎ、私なりに文章を書き、記録を残していくという方法で、これからも会話をしていくつもりです。
浜口さんは、毎月、「平塚から」というタイトルで書評を書かれ、個人的に知り合いになった方にメールで配信されていました。
最終号となった「平塚から<10年4月>」では、4冊のうちの1冊として『みどりの市民参加』が紹介され、その中で私の論考を評価していただき、励まされました。
以下に引用します。
松村正治氏による「里山保全のための市民参加」は、国有林をめぐる市民運動と国の対立などを振り返りながら、なぜ市民参加が求められるようになったかをとらえ、市民による具体的な保全運動の系譜や、その意義についての理論的な論点も含めて簡潔にまとめられ、里山に関わる人には必読の一文になっていると感じました。
4月1日、この書評メールを読んだ私は、浜口さんにお礼のメールをお送りしました。
すると、すぐにご返信いただき、短いコメントの後で「今後とも、ますますのご活躍をお祈りします」と励まされました。
ご病気であったにもかかわらず、温かいお言葉をかけていただき、感謝に堪えません。
今、この短いメールを読み返すと、目頭が熱くなります。
浜口さんのご冥福を謹んでお祈り申しあげます。