このたびの震災で被害に遭われた皆様に、心よりお悔やみとお見舞いを申しあげます。
東日本大震災は、戦後最悪の被災者を生んでしまったとともに、福島第一原発では、レベル7に相当する世界最悪の事故が発生し、今でも予断を許さない状況が続いています。
被災地に住んでいない私のような人たちは、これほどの災害に接して、何を考え、どう動いているのでしょうか。
義捐金を送る人、普段よりもさらに節電に励む人、風評被害に惑わされないで農作物を買う人、被災地でボランティア活動をおこなう人・・・。
たしかに、こうした行為は「正しい」と思いますし、そのうちのいくつかを私も実行しています。
しかし、私は、そうした行いでは埋め合わすことのできない、大きな問いを突きつけられたと感じています。
それは、私たちの多くが依存しているシステムが脆弱であること、さらに、それを動かしている人びとに対して十分な信頼を置けないこと。
これらが明らかになった今、私たちはどうすべきなのかという問題です。
私たちは、震災発生直後から、東電、専門家、行政、政治家などの説明を聞いて、その多くに納得できなかったり、ピントがはずれていると感じたり、人としてどうなの?という印象を持ったりしたと思います。
しかし、私は、そうした人びとを批判しようという気持ちにならず、彼らが中心となって、安心して快適な暮らしができるシステムが設計され、運営されていることを、あらためて深く考えてしまいました。
そして、彼らをただ批判するのではなく、むしろ、これまでよりも一歩踏み込んで関わることこそが、大切なのではないかと考えるようになりました。
東電、専門家、行政、政治家。
彼らを異者として批判するのではなく、私たちの代理として一括して捉えてみたいと思います。
東電は市民から利用料金を集め、電気を送ります。
(地域独占企業ですから、自家発電装置を持つ数少ない市民を除けば、利用料金は税金のようなものだとみなすこともできます。)
専門家は市民の興味・関心に基づき、必要な情報を提供します。
行政は、市民から税金を集め、公共サービスを実施します。
政治家は、市民からの支持を集め、社会を良くする政策を作ります。
つまり、私たちが必要としているから、こうありたいと望むから、みんなでお金を出しあったり、力を譲り渡したりして、代理者は動いているのです。
そう考えると、まず、専門家や行政は情報を提供すればよく、決定するのは市民であればよいはずです。
しかしながら、実際は専門家や行政が、おせっかいにも独断で決めることが多いです。
たとえば、放射線レベルに基づく、避難区域の設定や、作物の出荷制限などの決定には、当事者としての住民や農家が置いておかれたように思えます。
なぜ、自分たちの問題について、自分自身で判断してはいけないのでしょうか。
自分に関わることを決める場面に立ち会えないと、決まったことに対しても、どこか自分とは無関係に感じられるでしょう。
逆に、自分で決めたという感触があれば、その選択が後で間違いとわかったとしても、その結果には納得できると思います。
だから、市民に関わることを決定する権限を、今以上に市民の側に移していく必要があるとでしょう。
次に、政治家についてです。
もちろん、私たちは議会制民主主義の社会に住んでおり、重要な決定を代理者としての政治家に任せていると、形式的には言えます。
しかし、私たちの多くは日常的に政治家と接する機会がなく、投票行動によってのみ辛うじて接点があるのが現実です。
また、議会での政治活動についても、関心を持っていない人が多いのではないでしょうか。
つまり、政治家が私たちの代理として十分に働いているのかをほとんど気にせずに暮らしていると言ってよいでしょう。
そうであるならば、市民と政治家の感覚がずれることが当然であり、この間の回路を太くすることが求められます。
投票で支持を集めたとして正統性を獲得する方式は認めたとしても、もっとプロセスを重視することはできそうです。
平凡な構想ですが、たとえば、選挙期間を大胆に長く取り、その間に市民が立候補者を育てていくようなプロセスが必要だと思います。
一方で、こうした選挙制度の改革が実施されたとしても、やはり市民と政治家との乖離は残ると思います。
大見得を切って政治的決断を下すときには、見過ごされたり、ないがしろにされたり、こぼれ落ちてしまうものは、必ず残るはずです。
そうした限界を踏まえておくことも大事なことでしょう。
だから、私たちは、ときには直接民主主義の手法を一部で採用したり、あるいは、間接民主主義の限界を補うケアを自主的におこなったりして、隙間を埋めるように努めることが求められます。
最後に、東電についてです。
東電は地域独占企業であることから、一般の企業と違って、公共サービスの供給者として、日頃から私たちは、関係性を強く意識する必要があります。
私は東京都民ですが、東電株を5番目に多く所有しているのが東京都です。
そうであるならば、個人として株を所有していなくても、株主と同様に、東電の運営に関心を示すべきなのでしょう。
かたや、東電株を持っている一般人は、東電が倒産する心配がないと信じ、確実に利益を生み出す金融商品として購入したのではないでしょうか。
そうした株の持ち方は、安定した社会システムを裏返した姿でした。
もう、その位相からは、出て行かなくてはいけないと、私は思います。
以上をまとめると、次のようになります。
すなわち、東電の大株主の一員として、より良い公共サービスが提供されているか見ていこう。
専門家や行政には、判断に必要な情報を提供してもらい、最終的には自分で決めよう。
政治家を育てるプロセスに関わって、代弁者との距離を縮めていこう。
私は、このたびの震災で露わになった批判すべきシステムとともに生きようと思っています。