先日、横浜市内の里山保全をめぐる動きについて、ここ四半世紀くらいの同時代史をまとめて、そこから言えることを論文にまとめました。
昨年末あたりから取り掛かり、いったん仕上げたのですが、いろいろと書きなおすべき点が多くて修正に時間がかかり先日、ようやくまとまった形になりました。
予定では、今年の夏か秋頃に出版される本の中に収められるはずです。
今回は横浜市内の里山保全活動について書いたので、この分野のリーダー的な存在の方々お二人に論文を送りました。
直接的に、間接的に多くのことを学んできたので、的外れなものになっていないかどうか、ご確認いただきました。
するとすぐに、正確を期すための修正点の指摘や、経験に裏打ちされたご意見をうかがうことができました。
その真摯な対応には深く感謝しています。
今回は、当事者でないとわかりにくい問題について、「経験しなければわからない」と逃げるのではなくて、なるべくそれを言葉にして表そうと努めました。
まだまだ詰め切れていない部分が多いのですが、とりあえず「言っておく」ことはできたように思います。
お二人にその点は評価していただけたようで、嬉しかったです。
文章を書いているとき、それは自分のものでしかないのですが、読んでいただいた途端に、人と人をつなぐメディアとなります。
良くつなぐ場合もあれば、悪くつなぐ場合もあるでしょう。
今回の論文をめぐるやり取りは、普段からつながっている私と周りの人びとを、良い刺激を与える形で、あらためて深く結びつけてくれたように思います。
論文を送付した先輩との長電話の中で、そうしたやりとりを楽しみ、話が終わる頃になって、不意に1冊の本を紹介されました。
それが、今回のコラムで取り上げた『日日是好日』です。
facebookでの私のコメントを読まれていて、きっとこの本がいいだろうとご紹介くださったのです。
しかし、「お茶」についての本とのことです。
私は茶道をたしなむような趣味を持ち合わせていないので、どうして、私にとってこの本がいいと思われたのか、とても不思議に思いました。
すぐに翌日、書店に赴いてこの本を購入し、その翌日に読みました。
茶道と言えば、保守的な女性の習いごとという貧困なイメージしかありませんでした。
学生時代、お洒落で利発な同学年の女性が茶道部に入っていて、音楽や芝居でもやったらいいのにと、勝手なことを思っていました。
大学院時代には、同じ研究室に茶道を習っている男性がいました。
彼がまったく「お茶」的な雰囲気と合わないタイプだったので、きっと綺麗な女性か美味しいお菓子に釣られて、茶道を習っているのだろうと、適当なことを仲間内で噂していました。
いずれにせよ、まったくの別世界であり、それも知る必要のない世界であるという印象しかなかったのですが、この本を読んで、そうした浅薄な考えを改めました。
なんで、もっと若いときに、この世界を知る機会がなかったのだろうと恨めしくさえ思いました。
もちろん、千利休のもてなしのエピソードや、一期一会という言葉などについて知らないわけではありませんでした。
しかし、それを自分の日常に引きつけて考えてはいなかったのです。
ところが、この本を読んでみて、最近よく考えるテーマについて、共感できることが多く書かれていたので楽しく読めました。
まずは、自然への気づきについて。
著者は毎週、お茶の先生の家に通い、「お点前を繰り返しながら、和菓子を食べ、道具に触り、花を眺め、掛け軸から吹いてくる風や水を感じ」ているうちに、やがて、お湯と水の音の、梅雨と秋雨の音に違いがあること、炭の匂いなどに気づき始めます。さらに、「茶花」が町のいたる所に咲いていることに気づきます。
今まで同じだと思っていたことに違いがあること、どうでもよいと思っていたことを大切に思えるようになること。
こうした気づきによって得られる豊かさがあります。
私の日常に引きつければ、これまで雑草としてないがしろにしていた植物が、最近は大切に思える見ようになってきました。
家庭菜園を始めた昨年は、たくさんの野菜を収穫したいという気持ちから、栽培の対象としている植物以外は生えないようにと根っこから抜き取るようにして庭を管理していました。
しかし、2年目の今年は、雑草を抜かないで、その代わりに草丈5cm程度に刈り込むことにしています。
そうすると、草の管理が楽になりますし、自然にできる生態系のバランスを生かせば、農薬はもちろん肥料も多く投入しなくて済むと考えています。
栄養分を吸収しすぎるので園芸家から嫌われる雑草も、刈って畑に戻せばよいと思えば気が楽です。
こうしていると、雑草が同じ場所にあり続けるので、それぞれの違いがよく見えるようになりました。
図鑑をひもといて、実物と見比べてみることもあります。
さらに、よく見ると、かわいい花を付けていることがあるので、それを摘んで、小さな陶器の一輪差しに飾るようにもなりました(妻が)。
そもそも、私の里山への気づきとはそういうものでした。
身近にあった雑木林や田んぼや畑などを、一緒くたにして時代遅れの景観だと見ていたのに、いつしかそれが、とても大事なものに思うようになりました。
そして、細かな違いが少しずつわかるようになって、ますます、その一つひとつが気になり、できるだけ多くの一つひとつのいのちとともに生きることができたらいいなぁと思うようになりました。
見えていなかったことが見えてくると、興味の対象が一気に果てしなく広がります。
著者は、このように視界が急に開けるような感覚を「あとがき」に「自由の地平線」として表現しています。
気づきは私たちに自由をもたらしてくれます。
この自由になる感覚の、言いようもない喜び!
私は、これを仲間や学生たちと共感したいから、NPOの活動や大学での教育に携わっているように感じました。
もう一つ、この本に共感したところを挙げておくと、それは「教えること、教えないこと」についてです。
自由になる喜びについて、お茶の先生は何もおっしゃいません。
ただただ、お点前の細部を注意するだけです。
著者は、心の気づきについて話してほしいと思っていましたが、次第に先生は言わないだけなのかもしれないと思うようになります。
気づいたときに何かを言えば、「言葉が空振りになる」ことを実感して、沈黙の熱さ、静けさの濃密さに気づきます。
「先生は言わないのではない。言葉では言えないことを、無言で語っているのだった。」
先生の家の玄関を開けると、下駄箱の上には花や色紙が飾られており、菓子器の蓋をとると、季節の美しい和菓子が並んでいる。床の間には、朝摘んだばかりの茶花。さらに掛け軸。
すべて、そこに季節があり、その日のテーマと調和している。それが、お茶のおもてなし。
著者は、「いつ気づくかしれない私たちのために、先生が毎週、どれほど心を尽くして季節のもてなしを準備してくれていたのか」と感じ入ります。
何を教えて、何を教えない(教えられない)のか。
普段、学生と向き合っているときに、私もよく考えることです。
在学中に、私が大切だと思っていることに気づいてもらえないことも多く、しばしば力の及ばないことに落胆します。
その場合、短い期間なので仕方ない、きっと将来いつの日か気づいてくれるだろうと考えるようにしています。
だから、せいぜいできることは、きちんと準備をして学生と向き合うことしかありません。
ただし、お茶と違うところは、何か気づきが見られたときには、いいね、格好いい、素敵だね、などと言うようにしています。ただ無言で成長を待てるほどの大きさが、私にはないです。
教えないことで、教えられることの広さと深さそれが、「私たちを自由に解き放つこと」になります。
この魅力は、学生だけが享受するものではありません。
社会人になってからも、年を重ねながら気づきを重ね、仲間とともに成長できると信じています。
そうした確信がなければ、NPOの活動に関わって、社会を変えていこうなどとは思わないでしょう。
この本は、お茶について書かれているけれども、季節の移り変わりや他者の思いやりへの気づき、言葉にできないくらい大切なことは教えられないこと、教えないことから生まれる余白と、そこから気づく自由の広さなど、私が普段考えていることに大きく共振しました。
こんな些細なことに、けれども生きる上で大切だと思われることについて、いつも考えている方にお勧めします。