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『デモのメディア論

著者はフラッシュモブズ』(NTT出版、2011年という本で、ネット時代における世界中の市民の動きを論じ、従来の社会運動研究とは違うアプローチが注目されていました。
本書は、その著者が昨年上梓したもので、新しいタイプのデモを分析しながら今日の社会をうまく捉えているので、以下になるべく簡潔に内容を紹介することにしました。
その上で、著者の分析を踏まえて、最後に今の社会に対して私が心配していることを述べます。

さて、本書の紹介に入りましょう。
2年前の福島第一原子力発電所の事故以降、日本各地で反原発デモが起こりました。
一時期の盛り上がりはなくなりましたが、首相官邸前、永田町・霞が関一帯でのデモは続いています。
また、中東での「アラブの春」、アメリカでの「オキュパイ運動」など、世界中で人びとが声を上げています。
こうした今日の状況は、退潮したかに見えた社会運動が新たに息を吹き返したことを示しているのでしょうか。

ここで著者は、今日の社会運動に見られる共通の特徴、共通の新しさに目を向けるように促します。
それは、デモで表明されるメッセージに目を向けるのではなく、そこで採用されているデモのスタイル、活用されるツールに目を向けると、はっきりと浮かび上がってくると言います。
すなわちそれは、「お祭りデモ」と「占拠デモ」という新しいスタイルと、ソーシャルメディアという新しいツールです。

「お祭りデモ」とは、オーソドックスな市民運動団体が主催し、文化人が参加するような「真面目な」デモと違って、たとえば、「素人の乱」の呼びかけから
実現される、お祭り騒ぎのようなデモを指しています。大音量が響き、さまざまなコスチュームが見られます。
また、今日のデモは、ソーシャルメディアによって告知され、参加者によって実況され、振り返られます。
ネット上で「祭り」が続くこともあります。
こうしたデモのスタイルは、反原発デモ、反格差デモのように、革新・リベラル的な思想に基づくものだけではありません。反米デモ、反韓流デモなど、保守的な思想に基づくものもあります。そして今日、左派的なデモは高円寺・渋谷系のサブカルチャーと、右派的なデモは秋葉原系のサブカルチャーとつながっています。
こうしたことから、2011年を機に到来した社会運動社会とは、デモの思想上・イデオロギー上の立ち位置と関わりなく、デモという行為そのものが共通して活性化されたと分析されています。

次に「占拠デモ」とは、「オキュパイ・ウォールストリート」が典型例として挙げられるデモのかたちです。
2011年秋、若者たちはニューヨークのズコッティ公園を起点に、毎日、ニューヨーク証券取引所の前で、ラッパを吹いたりギターを弾いたりとお祭り騒ぎを繰り返しました。
一方、彼らは公園を大規模なテント村と変えて、集団でキャンプを始めました。
ここでも、ソーシャルメディアは大きな役割を果たしました。
「ウォール街を占拠せよ。9月17日、テント持参のこと」というブログ上のメッセージが、「#occupywallstreet」とともに、ツィッター上を拡散していったことが始まりでした。

こうした近年の運動は、「新しい新しい社会運動」と呼ばれています。
かつて、社会運動と言えば労働運動であった時代を経て、1960年代から公民権運動、女性運動、エコロジー運動、平和運動、消費者運動などが「新しい社会運動」として広がりましたが、そうした運動よりもさらに新しいことを示すための用語です。
「新しい社会運動」は、自分たちの生活において大切なことを、自分たちの手の届かないシステムに委ねるのではなく、自分たちで決定し、管理することを要求する運動でした。
私たちが典型的な「市民運動」として想定するものとは、この「新しい社会運動」のことを指すと言ってよいでしょう。
ここでは、運動の主体が「市民」であり、敵手は「システム」でした。

しかし今日、「市民」も「システム」も、1970年代頃とはイメージが大きく変化しています。
当時の「市民」は自由で文化的という好ましいイメージでしたが、今では気取ったよそよそしいものとして映っているようです。
また、「システム」は安定した確固としたものであるために、一方で生活を窮屈にしかねないと思われていましたが、今日では政治も経済も不安定で、脆弱なものと見なされがちです。

「システム」が強固であったときは、その肥大化を食い止め、人びとの生活を豊かにするために、「社会を変える運動」として「新しい社会運動」(市民運動)が起こりました。
これに対して、「システム」の脆弱性が露わになると、もう一度「社会を創り出す運動」が生じます。これがお祭りデモや占拠デモであり、「新しい新しい社会運動」です。
この新しいアクティビズムは、従来の市民運動を見慣れた人からすると、「社会を変える運動」とは異なり、明確なメッセージが見えないために、運動として捉えてよいのかわかりません。
しかし、「新しい新しい社会運動」は、表出的な集合行為を通して「社会を創り出す運動」なので、運動それ自体が固有のメッセージであると言えます。

「社会を創り出す運動」では、祭りやキャンプというアクティビティが選ばれます。
この理由は、非日常を一般に慣れ親しまれている方法で効果的に創り出せるからでしょう。既存の社会とは異なる新しい社会を創り出すためには、日常の世界とは異質の特別な世界を生み出すことが必要だからです。
しかし、非日常の世界に新しい社会を創り出せたとしても、日常に変えれば凡庸な生活へ戻るしかないならば、それは魔法の世界のようなもので、現実の社会を創り出す動きにはなりません。
ところが、今日の祭りやキャンプに参加する人たちは、そうした非日常が終わっても、ソーシャルメディアを通じて、日常的に情報を交換し、議論することができます。
むしろ、重要なのはソーシャルメディアを介した水面下での日常的でコミュニケーションであり、デモという目に見えるかたちは付随的なことかもしれません。
つまり、デモとはネット上の定常的なコミュニケーションから生まれ、一時的に開催される「オフ会」のように捉えられるわけです。

このように議論を展開した最後に、著者は「社会を創り出す運動」が望ましいものになるとは限らないと指摘してします。
近年の「社会を創り出す運動」は、1960年代~70年代半ばの市民運動のような「抗議する運動」と、1980年代半ばのネットワーク運動のような「関係する運動」の双方の限界の上に築かれています。
したがって、今日の社会運動社会では、「抗議する運動」と「関係する運動」のサイクルをうまく循環させることが要求されます。
しかし、これは共通の敵を創り出して人びとを結びつけ、大きなつながりを効果的に創り出すことでも可能です。

「社会を創り出す」という機能だけ見るならば、「抗議する運動」と「関係する運動」の組み合わせよりも、「攻撃する運動」と「憎悪する運動」の組み合わせの方が、効率的かつ効果的だろうと述べています。
「社会を創り出す運動」とは、この表裏のどちらの面が現れるか不明な、不安定で危うい運動です。
すなわち、ときに望ましいものとなることもあれば、ときにはおぞましいものとなることもありえます。
しかし、この社会と真摯に対峙しようとすれば、そうした危うさを意識しつつ、この困難な道を進んでいかざるをえないだろうと結んでいます。

危うさという点で私が心配しているのは、近年、急速に人びとの関心が高まっている領土問題です。
領土問題は、日本に限らず、常に関係する国民の感情を煽ります。
そして、元外交官の孫崎享氏が日本の国境問題』 (ちくま新書、2011年)などで警告するように、政治家の中には、「自己の勢力を強め、自己が推進したいと思う政策を推進するために意識的に領土問題を煽る」人びとがいます。
領土問題を利用して、社会を創り出そうとするわけです。
社会の空洞化を背景として、「敵」を名指す「感情の政治」によって社会を創り出し、味方に付けようとする動きには注意したいものです。
そのためには、「敵」とされる社会について理解し、私たちとの間の歴史について学ぶことが必要でしょう。
領土問題については、外交交渉の歴史を知ろうとすることもなく、ただ隣国を口撃し憎悪しても、何もよいことはないはずです。

私たちが新しい社会を創り出すためには、祭りやキャンプも一時的にはよいでしょうが、やはり根底では合理的な知が尊重されるべきだと思います。
新たな社会を構想するうえで、科学と論理を手放してはいけない。
これは私が譲れないところです。

伊藤昌亮(2012)『デモのメディア論―社会運動社会のゆくえ』筑摩書房.

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