前回に引き続き、今号でも5冊を取り上げます。
平松剛『光の教会―安藤忠雄の現場』
本書も大宅壮一ノンフィクション賞を獲っていますが、少し古く、第32回(2001年)の受賞作です。
さて、昨年、瀬戸内芸術祭期間中に、初めて直島を訪れました。
訪問の目的だった安藤忠雄設計による建築作品群は、予想していた以上にインパクトが大きく、これは多くの人びとが見るべきだと思いました。
特に地中美術館には、完全にやられました。
それまでも、安藤忠雄が設計した光の教会(茨木春日丘教会)には行ってみたいと思っていましたが、この直島訪問によって、ますますその思いが強くなりました。
しかし、本書を読んでみようと思ったのは、安藤忠雄に対する興味からだけではありませんでした。
約4年前、設計事務所や工務店の方々と一緒に家を建てたのですが、そこで、施主、設計者、施工者は、立場が対立する緊張関係となる場面がある一方で、新しい価値を創造するための協力関係ともなる微妙で不思議でスリリングなものだという体験をしました。
それ以降、建築物それ自体とともに、どのようなチームで建物を建てるのかにも興味を持つようになりました。
それでおのずと、安藤忠雄設計の光の教会がどのように建てられたのか興味がわき、本書を手に取ったのです。
著者は、建築を大学院まで学び、さらに構造設計の事務所で働いていたようですが、本書ではそうした経歴が役立っています。
小難しくなりがちな建築系の話が、的確にかみ砕いて説明されており、文章の流れを妨げずに済んでいます。
ノンフィクションを書く際には、取り上げるテーマに関する知識の有無が、説明力の差となって大きく現れてくることを実感しました。
本書の特徴は、光の教会が建設されたプロセスを丁寧に描きながら、安藤忠雄の才能や魅力を伝えているところにあります。
事務所のスタッフをリードしながら猛烈に仕事を進めていくさまや、教会に参集する人にとっての快適性を犠牲にしても、建築デザインとしての完成度の高さを追究するさまなどは、いかにも安藤忠雄らしいと感じました。
しかし、本書では建築家・安藤を中心に据えながらも、彼のイメージを具体的な形にしていくために関わる人びと、たとえば、施主である教会、工事を担当する工務店、構造計算を専門とする事務所などについても、目配り良く書かれています。
そうした関係者の多くは、安藤忠雄の才能に惹かれ(そのために、彼に泣かされることも多いのですが)、限りなく質の高いものを目ざそうと奮闘します。
光の教会は、もともと予算が少ない上に、当時はバブル期で材料費が高騰し、さらに技術的にも難しい工事を強いられていました。
読んでいると、息を切らしながら登山でもしているかのような気持ちになり、タフなプロジェクトであることが伝わってきます。
特に印象に残ったのは、この仕事を引き受けた工務店です。
安藤忠雄の思いに応えようとする工務店の努力は感動的でさえあります。
竣工して間もなく、工務店の社長は52歳で亡くなったそうですが、この教会には社長の祈りが込められているように感じました。
安藤忠雄のファンはもちろんのこと、建築に興味がある人や、家を建てた経験のある人、建てようと思っている人などにとっては面白いでしょうし、単純に読みものとしても、かなり読ませる本だと思います。
平松剛(2000)『光の協会―安藤忠雄の現場』建築資料研究社.
佐野眞一『あんぽん―孫正義伝』
著者の佐野眞一は、週刊朝日による橋下徹特集記事問題をきっかけに、これまでの剽窃行為が明るみに出て、評判を大きく落としました。
引用・参考にした作品を挙げずに記す悪癖があり、この点を指摘されて、相当懲りたように見えます。
その証拠に、昨年出た『僕の島は戦場だった―封印された沖縄戦の記憶』では、巻末に主要な参考文献を挙げているだけでなく、本文中に引用文献をいささか煩わしいくらいに示しています。
私は佐野眞一の著書を、これまでよく読んできました。
佐野眞一にしか書けないことがあるはずなので、引用・参考にした文章がある場合は出典を明記して、これからも書き続けてほしいと思っています。
本書は、サブタイトル(孫正義伝)のとおり、ソフトバンクHD代表の孫正義の評伝という側面があります。
2011年の福島第一原子力発電所事故の後、孫氏はtwitterでの呟きが数多くリツィートされたり、自身では自然エネルギー財団を設立したりするなど、脱原発を求める多くの人びとから期待を寄せられました。
私は、それまであまり孫正義に注目していませんでしたが、311以降は気になるキーパーソンとなっていましたので、いつかは読んでみようと思っていました。それが、電子書籍版を購入できるようになったので読んでみました。
孫正義は在日韓国人3世で、佐賀県鳥栖駅前の「朝鮮部落」で、「豚の糞尿と密造酒の強烈な臭い」の中で育ちました。
しかし、そうした厳しい環境の中でも、孫は荒むことなく高い目標を持ち、常識にとらわれず大胆に行動して、未来を切り拓いていきます。
たとえば、中学時代に一人で転校の手続きを済ませたこと、高校時代にビジネスとして塾経営を考えていたこと、父が倒れて実業家になることを決心し、
高校を中退してアメリカ留学を決めたといったエピソードが紹介されています。
本書では、こうした孫のパーソナリティの育まれた背景が、佐野眞一らしく下世話な生々しさをもって描かれています。
私が孫正義の行動力にもっとも感心したのは、日本国籍を取得したときの逸話です。
通名として用いていた安本という姓から、本名の韓国姓・孫に変更しようとしますが、「孫」という日本姓がないからと法務省は認めませんでした。
この官庁の先例主義に対して、孫は自分の意志を通すアクロバティックな方法を考えつき、ついに孫正義として帰化することに成功しました。
孫は、社会の制度、世間の常識の枠内で思考するのではなく、自らの目標実現を渇望し、障壁を乗り越えようと具体的に考えていきます。
これが、制度や常識を変えていくエネルギーの源になっているようで、読んでいると元気になれます。
ところが、本書は全体としては、あまり良い出来とは言えません。
前半は、比較的構成がしっかりしていて読みやすいのですが、途中から、取材して原稿を仕上げるまでの期間が短くなったのか、書き急いだような印象を受けます。
また、取材を進めるうちに、孫正義の父親に対する興味が加速度的に増していったようで、後半部は、ほとんど父親の話になっている点も、まとまりを欠く結果を招いています。
たしかに、父親のエピソードは面白いのですが、全体の中にうまく位置づけられていない印象があります。
もう少し時間を取って原稿を仕上げることができれば、良い作品になったように思いますが、きっと完成度を上げる時間がないのでしょう。
読んでみたら面白いけれど、本としての完成度は今ひとつ。これは、本書が書店に平積みされていた頃から予想されていました。
そういう意味で、期待通りに想定内の面白さだったと言えます。
宮内泰介・藤林泰『かつお節と日本人』
本書と次に取り上げる本は、私と専門領域が近い環境社会学者によって書かれたものです。
本書の共著者の一人・宮内さんには、ここ6~7年ほど、宮内さんが代表者を務める研究プロジェクトに私を加えていただいており、大変お世話になっています。
(昨年、5年間に及ぶ研究プロジェクトの成果として、宮内泰介編『なぜ環境保全はうまくいかないのか』(新泉社,2013年)が刊行され、私もそこに論考を寄せることができました。)
さて、本書のタイトル『かつお節と日本人』は、鶴見良行『バナナと日本人』、村井吉敬『エビと日本人』に連なる系譜に位置づけられることを明示しています。
宮内さんは、鶴見良行さんを中心としたエビ研究会、ヤシ研究会に参加され、モノを通してアジア・太平洋の関係を一貫して探ってこられました。そして、1994年に鶴見さんが亡くなってから、本書の共著者の藤林泰さんと中心になって1997年に始めたのが、「カツオ・かつお節研究会」(カツカツ研)でした。
この研究の成果は、すでに宮内泰介・藤林泰編『カツオとかつお節の同時代史―ヒトは南へ、モノは北へ』(2014年、コモンズ)として刊行されています。
本書は、その後の追加調査を交えて、新書の形にまとめたという格好です。
内容に入りましょう。
私は本書のプロローグが映像的で工夫されており、気に入りました。
かつお節がつなぐネットワークの時間的な長さ(約300年)と、空間的な広さ(約4,000km)を印象づけるために、国内外のある時間・ある場所の様子を短く紹介しています。
複数の地点のカットを多用することにより、これから始まる物語をいろいろと想像させる効果があります。
また、この冒頭に、「かつお節基礎知識」として、かつお節の製造工程が図入りで示されているのは、読者にとってありがたかったです。
普通の読者にとってはなじみの薄い業界の常識を、ぱっと視覚的に解説することによって、現場での描写に対する理解力がぐんと高まりました。
正直に言うと、先に出たカツカツ研の本から学んだ認識枠組みや個別具体的な事実が非常に興味深かったため、本書から得られた知識は多くありませんでした。
たとえば、かつお節と聞くと、伝統食材というイメージがあるので、近年は消費量が減少しているだろうと思いがちですが、意外にも増加し続けていること。戦前は、日本の南進とともにカツオを追って人びとが太平洋に浮かぶ島じまへと渡っていったことなどは、先の本を通して知り、その着眼点を学んでしました。
このため、私は本書を具体的な内容ではなく、書き方に注目して読みました。
(本書は好著に違いありませんが、かつお節がつなぐネットワークについて、より深く知ろうとするならば、やはり『カツオとかつお節の同時代史』を勧めます。)
本書は、『バナナと日本人』『エビと日本人』に連なる本ではありますが、モノを通して探った先に何を見るのか、そして、本書を通して何を読者に伝えようするのかについて、大きな違いがあるように思います。
前二者では、モノを追いかけた先に、海外の社会問題・環境問題がありました。
世界経済システムに巻き込まれ、生活・生業に影響を被る現地の人びとがいました。
しかし、宮内さんは、フィールドワークで見聞きした地域社会の実情を、グローバル資本主義のような構造的な問題として説明していません。
それよりもむしろ、人びとの生き方・暮らし方にアプローチして、一人ひとりの語りを象徴的に示すことにより、人びとがたしかに生きていることに対する肯定、さまざまな生き方・生命への温かいまなざしが現れています。
このため、かつお節というモノを深く掘り下げることによって、地球規模の巨大な構造的問題をえぐり出し、巨悪を退治するための理論と方法を得たいとしたら、肩すかしをくらったようになるはずです。
もちろん、かつお節を追いかけていっても、その先に大きな問題を意識的に見つけることはできたでしょう。
けれども、宮内さんらは、そうした描き方を採用しませんでした。
おそらくその理由は、そのような問題のあぶり出し方が、現代社会において有効ではないと考えられているからだと思います。
世界中の多くの人びとがグローバルな世界経済システムとかかわることで、ある人は儲け、ある人はそのために貧しくなり、さらには環境への被害を引き起こしています。
ここで、このグローバルな構造自体を問題として捉えると、このシステムに関わって生きている人びとに批判が向かってしまいます。
一方、批判する側は第三者的な立場にいて特権的に見えてしまい、共感を呼ぶどころか反感を招くことさえあるでしょう。
このように私たちが生きる現代社会とは、私たちの行為が何を引き起こすかを予想した上で、何をなすかが問われる社会です。
こうした再帰性に少しでも敏感であれば、「~すべし」という規範を述べるよりも、事実を丹念に描いて社会の実態を示し、どうあるべきか考える材料を提供する方向へと進みます。
本書は、そのようにして書かれているように読めます。
私たちの食は、見えるところでも、見えないところでも、かつお節が深く関わっています。
このため、かつお節を介した人びとのネットワークに対して、まったく関わらないわけにはいかないはずです。
それでは、私たちはどのようにして、このネットワークに加わることができるのでしょうか。
この問いは開かれています。
それを考える材料が、本書には書かれています。
鳥越皓之『琉球国の滅亡とハワイ移民』
本書の著者である鳥越さんは、私が非常に強く影響を受けた研究者です。
かつて、このコラムで取り上げたこともあるように、私は鳥越さんの書く文章が好きなのですが、本書はあまり印象に残るものではありませんでした。
読者を高校生程度に想定して、なるべくやさしく書こうとされた結果かもしれませんが、私からすると物足りなく感じるところが多かったです。
本書の特徴として、「国が滅びると、その民は流浪する」という社会的公理とも呼びうる命題を琉球国の滅亡に結びつけて、沖縄からハワイへの移民を理解するというアプローチがあります。
沖縄県は、熊本県、山口県、広島県、和歌山研などと並んで、移民県と呼ばれるほど、移民の多いところです。移民の数からすると、広島、熊本に次ぐ第3位で、けっして突出しているわけではありません。
しかし、人口に対する割合に換算すれば、広島3.88%、熊本4.78%に対して、沖縄はなんと9.97%と飛び抜けて多く、戦前は約10人に1人が移民として出ていったのでした。
それでは、なぜ沖縄では移民が多かったのでしょうか。
まず考えられるのが貧困で、貧しいから移民するという説明です。
さらにもう1つ、コネクション説があります。これは、親族や近所など身近な人が行っていて、情報があるし頼れる人もいるので、移民が促されるというものです。
また、沖縄の人びとの海洋民としての経験が、移民県にしたという説を唱える研究者もいます。
これらの諸説に対して鳥越さんは、どれも他県でも見られる要因であって、沖縄県から異常な割合で移民を送り出した根本的な理由ではないと考えます。
そして、沖縄に固有の理由があると想定するのです。
それが、琉球国の滅亡です。
なるほど、こうした問題の設定は非常に魅力的で、先を読み進めるのが楽しみな予感がします。
しかし、この適切な問題設定に対してその後の議論は、十分に応えられていないように感じます。
本書では、琉球・沖縄の歴史を記述しておくことにも力が注がれているために、フィールドワークをもとにして書かれた他の本と比べると、鳥越さんらしいユーモアや深みがあまり感じられないのです。
ただし、本書に示されている沖縄移民の聞き書きはとても貴重で、近年の移民研究ブームが起こる数十年前に、移民の証言をきちんと集められていた功績は大きいはずです。
鳥越さんは、1979年から数年間、ハワイへ渡った沖縄移民のライフヒストリーを調べ、『沖縄ハワイ移民一世の記録』(中央公論社,1988年)を出しています。
その当時のデータは、書斎の隅に打ち捨てられていたようですが、当時集めた資料が古くなって値打ちが出てきたことを教えられて、あらためてハワイ移民についてまとめることを考えたとのことです。
そのように解説されると、たしかに古い聞き取り資料の提示に気を配って書かれていることがわかります。
まとめると本書は、なぜ沖縄に移民が異常なほど多いのかという問いに対して、琉球国という国家の滅亡に原因を求めるとともに、その結果生じた移民について、貴重なハワイ移民の聞き書きをもとに、移民という生き方について考えをめぐらす本です。
こうしたアプローチに興味があれば、読まれるといいと思います。
鳥越皓之(2013)『琉球国の滅亡とハワイ移民』吉川弘文館.
荏開津典生『農業経済学』
最近、食や農というテーマが注目されているように感じます。
実際、このテーマに関連する雑誌がいくつか刊行されていますし、食や農をテーマにしたイベントや会合、まちおこしなどが盛んにおこなわれているようです。
しかし、そうした記事を読んだり、イベントで語られる話を聞いたりするたびに、満足できないことが多くありました。
あっさりと言ってしまえば、食や農への期待が書かれ、語られるばかりで、浮ついたブームのように感じられることがしばしばありました。
なぜ、このように食や農の扱われ方が軽いのかを考えてみたところ、およそ4つの理由を思いつきました。
1つは、食や農というテーマに関して、人びとが取り組んできた歴史が共有されていないことです。
私も当てはまりますが、農村の人びとの暮らしがどう変わってきたのか、特に戦後の劇的な変化について知らない世代が増えてきました。
2つめは、1つめとも関わりますが、食や農に関わる制度について、あまり知られていないことです。
農地法をはじめとした法制度に固有の難しさがあるほか、実際に食や農に関わる活動をしようと思うときに障壁となるさまざまな制度がありますが、これを理解していないために、楽観的な見通しを立てることがあります。
3つめは、1970年代から一気に花開いた農民や市民による新しい社会運動が継承されていないことです。
食と農を私たちの手に取り戻すために、生協運動、産消提携、有機農業運動などが展開されてきましたが、世代交代がうまくできずに、新しい動きに埋没しかかっているように見えます。
4つめは、食や農について考えるときの固有の学問が、十分に理解されていないということです。
私たちは、工業と農業を同じ経済論理で考えてはいけないと主張しがちですが、どの部分が同じで、どの部分が違うのかについて、あまり意識することなく、大ざっぱな議論をしていることが多いように思います。
これでは、食と農の分野に工業的な経済原則を持ち込もうとする人に対して、ただ違いを言い募るだけで、建設的に話し合うことはできません。
知識と理論を組み合わせた体系が必要なのです。
本書を読もうと思ったのは、この4つめについて、私自身が理解したかったからでした。
本書は、農業経済学のテキストとして編まれたものです。
非常にわかりやすく書かれていますが、本書のエッセンスを理解するためには、初歩的なミクロ経済学の知識があった方が良いです。農業経済学は、普通の経済学との違いを軸にして、学問領域のアイデンティティが形成されているからです。
普通の経済学は、都市的な世界、工業の世界を想定してモデルが作られているのに対して、農業経済学は農業的世界を想定しています。
日本のような先進国では農業人口が非常に少ないものの、世界全体で見れば、半分を超える人びとが農業的世界で暮らしています。
農業経済学の扱う世界はけっしてマイナーではありません。
農業的世界を扱う場合、通常の経済学ではうまくいきません。
生産要素としての資本と労働に加えて、農業的世界では土地がきわめて重要ですが、これが通常の経済学では重視されていないという問題があります。
これに対して農業経済学では、土地の特質を、生産不可能性、移動不可能性、外延性、不加滅性、地域性として把握することができます。
このように、農業的世界を研究するためには、農業経済学が必要であることがわかります。
それでも、本書を通読して農業経済学が威力を発揮すると思えたのは、モデルを考え、数学を用いて分析することで、シンプルな結論を導けるという、いかにも経済学らしい点でした。
「経済が発展するにつれて、農業部門の割合は相対的に縮小する」という命題をはじめ、なぜ日本では農場の大規模化が進まないのか、農産物の価格を維持する政策は何が適当なのかといった疑問などについて、モデルを用いて数学的に考えることができます。
私も、これまで食と農について、人並みに考えてきたつもりですが、分析的に捉えるための知の体系を持ち合わせていなかったので、問題意識を高めるばかりで、きちんと捉えられずにいました。
それが、本書を通して経済学的なアプローチの方法を知り、経済学者がどう頭を働かせて、食や農の問題を考えているのか、何となく掴めたように思います。
本書は学部生レベルの教科書ですから、現実の社会で生じている複雑な問題を考えるには不十分でしょう。
それでも、農業的世界について考える際に、経済学的な分析の有効性を実感できるすぐれたテキストだと思います。
「はしがき」には、説明なしに用いられているミクロ経済学の理論について、わからなくても読み進めて構わないと書かれています。
たしかに、数式を読み飛ばしても理解できるとは思いますが、やはり、多少ミクロ経済学を学んでから読んだ方が、得られることがはるかに大きいはずです。