本書は、平和研究・平和学を初めて学ぶ大学生向けのテキストとして書かれた『学生のためのピース・ノート』(御茶の水書房、2013年)の全面改訂版である。
私は第10章に「里山の遺産を活かしたコミュニティの可能性―持続可能な地域づくりの観点から」という文章を寄せている。
私が所属する恵泉女学園大学は、東京都多摩市にある緑に囲まれた小さな女子大で、園芸(環境)教育と平和教育を大事にしているキリスト教主義の大学である。その特色は、「生活園芸」と「平和研究入門」を1年生の必修科目に指定し、学部学科を問わず、必ず学ぶことに象徴的に表れている。
「生活園芸」とは、農薬や化学肥料を使用しない有機農業を体験的に学ぶ科目で、ジャガイモ、キュウリ、ハクサイなど1年間で12種類の野菜を育てる。
収穫した野菜を料理し、家族と分かち合い、さらに地域社会のコミュニケーションへと展開させて、人と人の輪を広げていくことを重視している。教育農場は、2001年に教育機関として初の有機JAS認証を取得している。
一方、「平和研究入門」は、これまで市民運動・NGO活動と大学での教育研究を両軸として活動してきた教員が担当してきた経緯があり、理論的分析よりも、アジアの人びと視点から考える戦争と平和、NGOや市民による民際協力、問題解決のための実践活動を積極的に扱っている。
早稲田大、明治学院大、立命館大など多くの大学で「平和学」を開講しているが、必修科目にしている大学は珍しい。
前書は、この授業で力を入れている「モノから考える平和」「日本とアジアの歴史から」「国際協力の仕組みを学ぶ」「私たちの日常生活の平和」「先進国の平和への課題」の5部から構成されていた。
内容は盛り沢山で充実していたため教員からの評価は良かったが、初学者にとっては分量が多いという難点があった。
そこで、この改訂版では、「非暴力の徹底」「構造的暴力/文化的暴力を問う」「当事者の視点から考える」「歴史から学ぶ」という4つの視点を重視し、構成や体裁も含めて全面的に見直した。
本書の構成は次のとおり。
第1章 私たちがなにをどう食べるかの選択が平和をつくる―インドネシアにおけるエビ養殖の事例から
第2章 低価格の洋服と平和―バングラデシュの縫製工場で働く女性たち
第3章 モノから考えるグローバル経済と私たちがつくる平和―フィリピンのモノカルチャー経済からフェアトレードまで
第4章 日本と韓国の真の協力関係を考える
第5章 平和をつくるために考えてほしい三つのこと
第6章 アフリカにおける草の根国際協力とは―コトから考え、行動するために
第7章 バングラデシュにおけるNGOの活動変遷―援助から社会変革へ
第8章 アジア人、地球人として平和をつくる―ピースボートの活動から
第9章 産むか・産まないか―からだと健康をめぐる女性の運動
第10章 里山の遺産を活かしたコミュニティの可能性―持続可能な地域づくりの観点から
10名の執筆者の多くは、大学教員とNGO・市民活動の二足の草鞋を履いている。
それぞれの専門分野から、現場を踏まえて問題を提起するとともに問題解決に向けて積極的にコミットして欲しいという気持ちから、具体的な解決策やオルタナティブな考え方などを提案している。
以上は、本書の編者で同僚の堀さんによる説明をまとめたものである。
ここからは、本書に関わった個人的な経緯を書こう。
私は、10年ほど前に大学で働き始めたとき、平和(学)という言葉が、なんとも気恥ずかしく感じていた。
人並みに平和教育を受けてきて、学校で平和について考える意味は大きいとは思っていた。
しかし、小中学生ならばまだしも、高校生くらいになると社会を現実的に考えるようになるので、大学で平和教育を実践していることが理想主義的でナイーブに感じていた。
ところが、しばらく過ごすうちに、平和について考え、平和を求めて活動している同僚のことが、素直に格好良く素敵だと感じるように変わったのである。
それは、私より年上の知り合いがキャンパスを訪ねに来られたとき、「大学には自由の風が吹いている」と漏らした感想にハッとした頃だったと思う。
この言葉を聞いて私は、なるほど、たしかに大学は、あるべき理念、理想を掲げながら、自由に考えられる貴重な場であると自覚した。
今日の大学は、実社会に即戦力として役立つ人材の育成が求められる傾向にある。
しかし、学生時代は、現実の社会と距離を置きつつ、本質的なこと、理念的なことを、深く自由に考えられる時に違いない。だから、その特長を守ることが何より大切だと思う。
地球上のほとんど全ての人びとは平和を求めているだろう。
ところが、多くの人びとはそれが現実にはかなわないと思い、そこから先を現実的に突き詰めて考えようとはしない。本気で考えようと思ったら、簡単ではないことは明らかだから。
しかしだからこそ、大学で平和を考えるべきだと思うようになった。
それも、現実的に。
理想は現実の対義語と考えるのが普通だろうが、現実的に考えられないことは、理想にもならない。
それは、単なる夢や幻である。
こう考えを改めるようになっていたので、2年前に前書が出版されたときは、同僚たちの仕事が誇らしく感じた。
率直に言えば、羨ましくも感じた。
そして、このテキストを通読して、初めて大学で展開されている平和教育が具体的にどういうものであるのかを、より正確に理解できるようになった。
今度は、こうした教育の機会を得ている学生も羨ましく感じた。
同時に、その価値がわかる学生は多くないだろうとも思ったが。
前書から1年余りが過ぎて、本書の編者である堀さんから、『ピース・ノート』の改訂版を作るのだけれど、1本書いてもらえないかと打診された。
堀さんは、研究者関係でただ一人、私を「まっちゃん」と呼ぶ姉さん的存在で、お互い遠慮せずに言い合える得がたい同僚である。
私が周囲の人間関係を気にせずに率直に言い過ぎて、大いに困らせてしまったこともあり、恩義を感じてもいた。
だから、執筆依頼があったときは、引き受けようと思った。
もう1つ、この原稿を書きたいと思ったのは、本書の出版社が環境・アジア・農・食・自治などをテーマに良質の本を出し続けているコモンズだからであった。
このコラムでも、コモンズから出た本として、『森をつくる人びと』(浜田久美子、1998年)(→ 書評)、『土の匂いの子』(相川明子、2008年)(→ 書評)などを取り上げてきたように、いくつもある出版社の中でもコモンズには、特別に親しみを感じてきた。
また、NORAの理事でもある石田周一さんは『耕して育つ』を書き、石田さんも含めて知り合いが何人か『街人たちの楽農宣言』に原稿を寄せており、いつかコモンズから出る本に原稿を書けたらとも思っていた。
このことも、原稿依頼を快諾した理由であった。
ところが、いったん引き受けてから、本当に書いて良いものかどうか不安になった。
昨年7月に、コモンズの代表・大江正章さんから目次案が示されたのだが、私の原稿は他と比べて、平和について正面から考えるテーマではないので、内容が適当かどうか疑わしく思われたのだ。
特に、私の原稿が最終章に置かれることになっていたのには驚き、場違いなのではないだろうかと感じたのである。
堀さんが、適当な執筆者を探したけれど、なかなか見つからなかったので、近くにいた私にノリで声を掛けてみたところ、あっさりと引き受けられてしまい、どこに収めようかと困った結果、はみ出した原稿を最後に置くことにしたのではないかと訝しく思ったりもした。
大江さんも、さぞ困ったのではないかと心配することもあった。
しかし、考えたところで生産的ではないし、堀さんや大江さんがよしとするならば、それで構わないと開き直って、あとは淡々と原稿を書くことにした。
今年3月、あるイベントで大江さんにお目にかかる機会があり、これまでモヤモヤしていた疑問をぶつけてみた。
すると、大江さんから見れば、収まりが悪いということもなかったようで、ひどく安心した。
私は表だって主張してこなかったけれど、NORAのキャッチフレーズ「里山とかかわる暮らしを」は、環境運動の言葉というよりも平和運動の言葉だと思っている。
国家や市場の暴走に対して歯止めをかける抵抗手段だと捉えている。
大江さんは、そうした私たちの意図について、深いレベルでご理解いただいていたのである。
ということで、実はまだ通読していないのだが、きっと良い本に仕上がっていると思う。
堀さんも、良い原稿が集まったと満足そうだった。
ただし、本は出すだけでは意味がない。
多くの人に読まれ、読んだことをもとに議論が始まったり、活動が起こったりすることを願っている。