先日、学内の礼拝の場で、10代の頃に悩んでいたプライベートな問題について、特に家族や地域との関係について、話をする機会があった。
すでに、断片的にはいくつかの機会で話をしてきたことなので、カミングアウトしたというつもりはない。
しかし、なぜこの時期にまとまった話をしようと思ったのか、その理由は自分でも精確には分かっていないが、次の2つのことがない交ぜになっていたように思う。
1つめの理由は、話をしたときに強く思っていたことである。
礼拝で学生たちは、率直に自分の経験をもとに話をするし、ときには感極まってしまう学生も少なくない。
そうした話に私はしばしば胸を打たれる。
だから、私も率直に自分のことを話そうと思った。
学生たちと同じような年頃のとき、いったい何を考えていたのか、何に悩んでいたのかを話そうと思った。
それが、人としてフェアだという気がした。
もう1つは、話し終えてから、これも理由だったかも知れないと思ったことである。
それは、自分が社会学を専門としていることに関わる。
私は環境問題・社会問題を考える際に、その問題の当事者が生きている世界を理解したい。
その世界の中では、どういう解決策が妥当なのかを考えたい。
しかし、もちろん、他者の意味世界を理解するのは絶望的に困難だ。
そのための方法はいくつか考えられるだろうが、私は当人からライフヒストリーを聞くことが多い。
そうすると、当然、次のような疑問が湧いてくる。
つまり、私はどのように生きてきたのか。
私は、自分のことが、今もって謎である。
いったい、自分は何をしたいのか。何をするために生まれてきたのか。
よくわからない。
だから、自分の生きてきた道をふりかえることから、自分がどこに向かおうとしているのかを考えたくなる。
他者を理解するために、自分を理解するためにライフヒストリーをたどる、特に家族関係を探ることに可能性を感じているから、その実戦を試みたようにも思う(自分のことなのに、本当によくわからない)。
今回は最近読んだノンフィクション等の中から、家族の問題が重要な鍵となっている本5冊を取り上げることにした。
森健『小倉昌夫 祈りと経営―ヤマト「宅急便の父」が闘っていたもの』
クロネコヤマトの「宅急便」の産みの親で、ヤマト運輸の元社長・小倉昌男について取り上げた作品で、第22回小学館ノンフィクション大賞を受賞している。
本書は、著者が抱いた素朴な疑問に対して、取材を進めながら、その謎を解き明かしていくという構成となっており、推理小説を読んでいくような面白さがある。
その疑問とは、なぜ小倉が現役を引退してから、巨額の私財を投じてヤマト福祉財団を創設したのかという問いである。
私も、スワンベーカリーのことは知っていたが、それとヤマトとの関係については深く考えたことがなかった。
巨額の富を得た人が福祉事業に乗り出すことは珍しくないので、そういう一人なのだろうとしか思っていなかった。
しかし、小倉の書き残した文章や生前の小倉をよく知る人に話を聞いても、福祉への関心が強かったようには思えない。
著者のなぜという疑問は深まるばかりだ。
著者は、小倉のライフヒストリーについて調べていく。
小倉は結核で4年も入院した経験がある。小倉は熱心なキリスト者であった。どちらも、小倉を理解する大きな手がかりとなる。
そして、現役時代から家族関係で深く悩んでいたことが明らかにされる。
外では冷静に経営をめぐる環境や状況を分析して、粘り強く的確に行動できた小倉も、家の中ではしっかりした態度が取れなかった。
つねに緊張感をはらみ、いつ暴発してもおかしくない状況に、どう対応してよいか悩み、祈りを捧げる小倉の姿に共感する。
家族の問題と福祉事業との間にどういう関係があったのか?
最終的に著者がたどり着いた結論には納得させられる。
いい作品に出会えて良かったと思える一冊だ。
森健(2016)『小倉昌男 祈りと経営―ヤマト「宅急便の父」が闘っていたもの』小学館.
梯久美子『狂うひと─「死の棘」の妻・島尾ミホ』
今年は作家・島尾敏雄の生誕100周年に当たるらしいが、私は島尾の文学作品を読んだことはなく、沖縄研究を通して島尾の南島論にふれるくらいだった。
島尾敏雄・ミホ夫妻の「死の棘」体験については、小栗康平監督の『死の棘』で知っていたけれど、原作は読んでいなかった。
ミホについては、作家であったことさえも知らなかった。
ただ、表紙の島尾ミホの写真にただならぬものを感じたこと、そして、第39回講談社ノンフィクション賞を受賞した作品だったことから、未知の世界に入ってみようと読んでみた本である。
戦争末期、特攻隊の指揮官として加計呂麻島に駐屯していた敏雄は、死を覚悟する状況下で島人のミホと恋仲になった。
出撃の時は訪れずに終戦を迎え、やがて2人は夫婦となったが、敏雄の浮気が発覚してミホは精神を病み、両者がいがみ合い、必死にもがく。
このほぼ事実に基づくという「死の棘」体験について理解するために、著者は、島尾ミホに焦点を当てながら、2人のライフヒストリーを、関係者への取材を重ねて丁寧に調べる。
2人の書いたものについても、公開された作品・資料だけではなく、ミホが亡くなって発見された膨大な未公開の原稿・ノート・メモなども含めて丹念に読みこんでいる。
その徹底した調査と読解には、凄まじい執念を感じる(誰もが気になるであろう敏雄の浮気相手「あいつ」については、仮名ではあるが、その女性を特定している)。
それは、作家の生きざまと向き合うための作家としての覚悟が、迫力として伝わってくる。
もちろん、夫婦の話が中心ではあるが、奄美大島におけるミホの家系や家庭環境などを明らかにして、敏雄に出会うまでのミホの人となりが細かく描かれている。
敏雄の妻としてではない島尾ミホという人物像がくっきりと浮かんでくる。
だから、「死の棘」以降のミホの生き方(「書かれる側」から「書く側」へ)も分かるような気がするのである。
結果、本書は島尾ミホの評伝として一級品であるばかりではなく、作家論(島尾敏雄論、島尾ミホ論)としても重要な作品となっているだろう(吉本隆明や奥野健男などのミホ評に対する著者の批判は鋭い)。
本書の主役・ミホはキリスト者であり、1.の小倉夫妻と同様、夫が受洗して同じ信徒になる道を選んだ。
その理由は、性質は違うけれども、家族の問題があったからである。
家族のこととともに宗教についても、大いに考えさせられた。
つい先日、島尾ミホ作の映画『海辺の生と死』が公開された。
トエ(=ミホ)役の満島ひかり主演はよいけれど・・・。
それより、奄美大島、加計呂麻島に行きたくなる。
梯久美子(2016)『狂うひと─「死の棘」の妻・島尾ミホ』新潮社.
石井妙子『原節子の真実』
作家の次は女優である。
2.と同様、本書も表紙に主役の顔写真が大きく映し出されており、印象深い。
本書は第15回新潮ドキュメント賞を受賞している(個人的には、1.と2.の方が作品として優れているように思う。
この賞の過去の受賞作の中では、増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』が圧倒的に面白かった。)
私にとっての原節子は、小津安二郎監督の『晩秋』『麦秋』『東京物語』のいわゆる「紀子3部作」における紀子役の印象があまりにも強い。
だから、小津が亡くなった1963年に原が女優業を引退したことについても、いろいろと理由が詮索されていたが、何となく納得していた。
しかし、本書は小津作品を中心にみる原節子論を斥ける。
実際、敗戦直後の婚期を逸した女性や戦争未亡人という役に不満を感じていて、自身が出演した小津作品を評価していなかった。
代わりに、『カサブランカ』のイングリッド・バーグマンに憧れ、細川ガラシャを演じたいと繰り返し述べていた。
著者が重視するのは、原節子の家族関係であり、特に義兄で映画監督であった熊谷久虎に深く傾倒していたことである。
原は引退後亡くなるまで、義兄の家族とともにひっそりと暮らしていた。
丹念な取材のために、原節子の真面目な生き方がよく伝わってくる。この部分には深く共感する。
義兄との強固な信頼関係が、原節子の可能性を狭めたように感じて、それが惜しいと感じる。
黒澤明監督が『白痴』以外に、原節子を撮る機会があったならとは、誰もが当然想像したくなるだろう。
原節子ファンには、既知の「真実」も数多いのかもしれないが、普通の映画好きには十分に楽しめる。
ただし、原節子伝という性格が強いので、映画マニアには映画評の部分が物足りないかもしれない。
堀川恵子『永山則夫―封印された鑑定記録』
私が生まれる直前(1968~69年)に4人をピストルで射殺した刑死者(元死刑囚)。
犯行当時19歳だった永山については、獄中で執筆した手記『無知の涙』が話題になり、助命嘆願の声もあがったが、1997年に刑が執行された。
現在の私と同じ48歳だった。
永山判決における死刑判決の適用基準(永山基準)は、その後の少年が犯した重大犯罪に対する死刑適用に際して参考にされてきた。
永山則夫は、死刑制度について考える際に、ほぼ必ず言及される。
そういう意味では知らない人物ではなかったし、これまでの議論についても多少は知っていたつもりである。
現在、日本では死刑制度を容認すると答える人が8割で、廃止すべきと考える人は1割という状況であること、また、刑死後20年も経過していることから、私の中では終わっている問題だった。
しかし、同じ著者の『原爆供養塔―忘れられた遺骨の70年』にしびれた私は、きっと、これまでの永山論とは違う手法で永山則夫に迫っているに違いないと思い、人からの勧めもあって、読んでみることにした。
著者は、これまで「貧困が生み出した悲劇」と言われてきた永山の犯行に対して、これを家族の問題として描くというアプローチを採っている。
取材の過程で、永山則夫が精神科医の前で語った100時間を超える録音テープの存在が明らかになった。
著者は、このテープに残された声に耳を傾け、永山則夫と家族が生きた世界に分け入り、永山の心象を読み解いていく。
それを現代的に解釈すれば、ネグレクト(育児放棄)、DV、いじめ、PTSD(心的外傷性ストレス障害)といった用語でとらえることができる。
ただし、こうした分析は、このテープを持ち続けていた精神科医の石川義博氏がすでに1974年におこなっており、鑑定書も書き上げていた(石川鑑定)。
最高裁では、石川鑑定は一蹴された。
今日の死刑を求める世論からも、精神分析は減刑・免罪へと扉を開くものとして、忌み嫌われているように思われる。
しかし、永山のような事件を防ぐためには、当人が生きる意味世界を理解しようとするアプローチが必要だろう。
私たちが理解できない犯罪者を、理解できないからといって排除、抹殺するのか、理解できない犯罪者を、理解しようとして、再発防止につなげるのか。
本書を私たちがどう読むのか、問われている。
なお、著者はもともと映像作品を制作していたためだろうか、ノンフィクションも映像的に感じられて、その感覚を味わうのが好きだ。
今月11日の山の日には、広島市に呼ばれて講演することになっているので、著者にその存在を教えられた原爆供養塔に行ってみたい。
堀川惠子(2013→2017)『永山則夫―封印された鑑定記録』岩波書店→講談社.
『裸足で逃げる―沖縄の夜の街の少女たち』
沖縄のキャバ嬢6人(優歌、翼、鈴乃、亜矢、京香、春菜)の生きる世界を、本人や家族、友人たちへの聞き取り調査をもとにまとめたものだ。
その多くが10代で子どもを産み、パートナーと別れ、シングルマザーで子育てするためにキャバクラで働いている。
児童虐待、不登校、非行、妊娠、パートナーからのDV、レイプ被害など、10代の女性が1人では対応できない大きな問題を抱えこみ、自分が生きて、子どもを生かすため、ほっとできる居場所をつくろうと必死になる。
そして、キャバ嬢にたどりついた。
ここに書かれている事実は重たい。
著者はこうした環境で生きてきた女性たちに寄りそい、その問題構造を声高に批判するのではなく、ただ聞く。
その姿勢には共感するし、また、励まされもする。
本書を読んで、昨年都内で開催された「私たちは買われた」展を思い出した(今年7月からは、沖縄を含めて全国4か所で巡回される)。
女性たちは自分を語ることによって、どこか救われている部分があるように思う。
そう思いたい。
上間陽子『裸足で逃げる―沖縄の夜の街の少女たち』(太田出版、2017年)
自分を語るには、その話を聞く人と、話ができる場が必要だ。
私が聞く人の1人となり、NORAが話のできる場の1つとなれればと願う。