最近読んだ本の中から5冊を選んでみた。
キーワードを挙げるとすれば、戦争、主体、責任、であろうか。
私がこうした本に関心がある理由には、2つの系統があるように思う。
1つは学問的な関心から、もう1つは家族史への関心からである。
先に学問的な関心から説明しよう。
私が環境社会学という学問に惹かれた理由は、誰もが名前は知っている水俣病のような公害について、これをただ加害企業が引き起こした過去の問題として済ますのではなく、私たちの問題として引き受ける視点が含まれていたからである。
すなわち、なぜ公害が発生し拡大を止められなかったのかという観点から、その地域社会の構造、産官学の関係、歴史的な背景などとあわせて考え、
歴史化された公害を、現代に生きる私たちにとって、リアルな問題として差し出すところに魅力を感じた。
私は、そうした自身の学びを若い人にも体感して欲しいと思い、大学で担当する講義「環境社会学(論)」では、かなり時間を割いて、まずは水俣病について取り上げることにしている。
そうした講義の後で学生から提出されるコメントを読むと、歴史上の出来事と思われていた公害が「終わっていない」こと、さらに、福島原発の放射能汚染は「日本史上最大の公害である」などと書かれており、学生の視点が変わり、社会への理解が深まった学生もいることを感じる。
また、水俣病の加害責任についても、不知火海にメチル水銀を垂れ流した企業(チッソ)だけではなく、行政、学者、地域社会など、それぞれの問題についても言及されていて、視野が広くなったと感じることは少なくない。
しかしその先に、「結局は当時の日本社会全体に責任がある」と考える学生が現れてくることは少なくない。
ここに論理の飛躍があることは明らかだが、それでは、責任を帰せるのは誰なのか、どこで線引きをすべきなのかと考えると、いや待てよ、何か違う、と思う。
これまでの公害裁判の歴史を踏まえると、そうした考え方に基づく帰責論の限界を感じてしまうからだ。同様のことは、アジア太平洋戦争についても当てはまることがある。
公害が発生した際、その責任を問い、正義を実現させるために、私たちが採る手段は裁判に訴えることだろう。
実際、多くの公害裁判が開かれたし、現在係争中のものも少なくない。
そこでは、公害を発生させた責任、拡大させた責任について問われる。
あるいは、救済されるべき被害者は誰か、その判断基準が問われる。
ところが、多くの裁判は失敗する。
原告側の思うように責任を問うことができず、満足な補償も得られない。
公害訴訟の場合、そうした歴史を半世紀も繰り返している。
もちろん、責任を取らせるべき「悪い奴ほどよく眠る」社会では困るが、そこに限界があることをわきまえ、別のアプローチを追求していきたい。
だから、私は責任の問い方を、深く捉え直せないかと考えている。
國分功一郎『中動態の世界―意志と責任の考古学』
責任論、帰責論については、小坂井敏晶『責任という虚構』(東京大学出版会、2008年)、大澤真幸『自由という牢獄―責任・公共性・資本主義』(岩波書店、2015年)などが印象に残っている。特に前者は、この問題を考える際の標準的なテキストになるような本である。
しかし、それらよりも興奮して読んだのが1冊目の『中動態の世界』である。
中動態とは、能動態(~する)でも受動態(~される)でもなく、「する/される」では語れない文法カテゴリーで、かつては古代ギリシア語など、ヨーロッパ諸語に広く見られたようだが、現代では見られない動詞の態である(再帰動詞が似た機能を担っている)。
中動態は、主語から外に向けて動作がおこなわれる能動態に対して、動作が主語へ向けておこなわれる。
すなわち、<能動態-受動態>は、主体の意志が働く方向を示す対立軸だが、<能動態-中動態>の軸は、主体の外に向かうか内にとどまるかを表すという。
主体の意志を前提とする<能動態-受動態>では語りえないこと、主体的におこなったのか、おこなわされたのか不明な行為はあるだろう。
昨年の流行語大賞「忖度」も、そうした行為かもしれない。
自らの意志で相手の気持ちを推し量ったのか、推し量らざるをえなかったのか、曖昧なことは多い。
こうしたことは、最近のモリカケ問題に限らず、アジア太平洋戦争の失敗なども含めて昔から見られる現象であり、山本七兵が鋭く分析した日本的な「空気」とかかわりがあるだろう。
本書の内容は、けっして易しいとは言えない。
言語学的な文法論など、理路を正確には追えなかったところもあった。
しかし、議論の運び方が親切で、段階を追って読み進めることができる。
そして、未知の世界を分け入った先に、著者が専門とするスピノザや、間違いなく重要な哲学者アレントの議論などと見事に接続していくのでスリリングだった。
近年の国内外の政治状況を見れば、アレントの問題意識はリアルだから、この言語の系譜をひもといていく中動態の議論もリアルだ。
さらに、こうした哲学的考察を進める背景には、著者の自由を希求していく姿勢が感じられ、そこに深く共感した。
本書は小林秀雄賞を受賞するなど、すでに高く評価されている。
たしかに、哲学の面白さを存分に楽しめる素敵な本である。
ついでに、本書が医学書院のシリーズ「ケアをひらく」の1冊であることにもふれたい。
このシリーズには、川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』、六車由美『驚きの介護民俗学』、浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』、岡田美智男『弱いロボット』など、刺激に満ちた作品が多い。
これらは、振り返ると、中動態的な世界を扱っているとも言えよう。
担当する編集者のセンスは、この世界にほっとできる場所を確実につくっている。
國分功一郎(2017)『中動態の世界―意志と責任の考古学』医学書院.
清水習『構造と主体―政策の可能性と不可能性』
2冊目の本のタイトル、『構造と主体』という問題設定は王道である。
この問いとは、「主体の意思決定と行動は、主体を取り囲む構造によって決定されるのか、それとも、主体の自由意志によってなされるのか」である。
本書は、この古典的とも言える哲学的な問いに対して、政策学の立場から、「構造と主体」の論点を大胆に整理しているところに特徴がある。
すなわち、制度主義と合理主義という対立的な研究アプローチに対して、イデオロギーの役割を重視した構築主義アプローチが説明される。
ここでは、これらのアプローチの優劣を決めることが目的ではなく、それぞれの方法の有用性と限界を明確にすることがねらいとなっている。
先行する研究を単純化し過ぎているきらいはあるものの、一方で、シンプルに考えることの有用性が感じられた。
どんなに良い分析方法であっても、それを使って考えられなければ意味はない。
政策学における多角的な方法論が珍しく、あまり見かけないタイプの議論だったので、意外性があって楽しめた。
清水習(2017)『構造と主体―政策の可能性と不可能性』晃洋書房.
堀川惠子『戦禍に生きた演劇人たち―演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』
3冊目の『戦禍に生きた演劇人たち』は、いまもっとも読みたいノンフィクション作家・堀川惠子さんによる作品である。
著者は、『永山則夫―封印された鑑定記録』(岩波書店、2013年)、『原爆供養塔―忘れられた遺骨の70年』(文藝春秋、2015年)など、死刑、原爆という重たいテーマに独自の視点から迫り、的確な言葉を与えながら、読み応えのある作品を書き続けている。
本書は、井上ひさし作の芝居『紙屋町さくらホテル』などでも知られる劇団「桜隊」の原爆死を取り上げており、これまで著者が扱ってきたテーマと連続性がある。
8月6日、爆心地近くにいた「桜隊」9人のうち、5人は即死、残る4人も、いったんは命を長らえたものの、強い放射線を浴びた身体では9月を迎えることもできなかった。
そうした原爆がもたらす悲惨さは、演出家・八田元夫が看病しつつ、書き残したメモによって、細かく残酷に再現されている。
ただし、本書は広島での被曝だけに焦点化した作品ではない。
そのクライマックスに至るまでの演劇史が、新劇の誕生から丁寧に描かれており、そこに深みがある。
歌舞伎などの旧劇に対抗し、西欧の近代演劇に影響されて始まった新劇は、小山内薫らによる築地小劇場の成功により確立された。
しかし、やがてプロレタリア演劇運動の大きな波に飲まれ、多くの演劇人たちは、国家から厳しい弾圧を受けた。
その中には、投獄され拷問される者もいれば、プライドを保ちつつ検閲を通す努力を惜しまなかった者もいれば、国威発揚のために脚本を書き、芝居を演じた者もいた。
リアリズムに基調を置き、近代的な主体を演じる新劇は、大政翼賛体制の内で表現手法がきわめて限定された。
被曝した桜隊は、内務省から派遣されていた移動劇団であった。
国の意向にそぐわない芝居はできない。
戦前の名優・丸山定夫をはじめ、それぞれが自分を表現する手法を探り、めぐりめぐって合流してできたのが、この桜隊だ。
そうした経緯がよく描かれているからこそ、広島での被曝が痛切に感じられるのである。
ただし、同じ著者のほかのノンフィクションと比べると、やや読みにくさを感じた。
それは、サブタイトルの「演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇」が、本書の内容を適切に表現しているとは思えないこととも関連がある。
この副題には、著者が本書を書くのに当たって、早稲田演劇博物館に眠っていた八田の遺品を発見したことも強調しようというねらいが感じられるが、それがあまり効果的ではない。
おそらく、八田元夫よりも、丸山定夫や、劇作家の三好十郎の方が、より魅力的な人物として迫ってくるからであろう。
とは言え、このような減点は、著者の優れた作品群と比較するからであり、本書のみを捉えれば、優れたノンフクション作品であることは間違いない。
堀川惠子(2017)『戦禍に生きた演劇人たち―演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』講談社.
森まゆみ『暗い時代の人々』
4冊目の『暗い時代の人びと』は、3冊目と同様に、昭和初期から敗戦までの「暗い時代」に、反時代的に生きた人びとを取り上げている。
本書は、この時代に抗って生きた人びとの評伝という形式をとりながら、暗に現代もまた「暗い時代」に差し掛かっていることを示し、さらに、そうした時代にどう生きるかを考えるように迫る。
そうした意味で、本書は歴史を扱いながらも、すぐれて現代的であり、反時代的な表現手法として、刺激を受けた。
斎藤隆夫、山川菊栄、山本宣治、古在由重といったわかりやすい抵抗者だけではなく、竹久夢二、西村伊作(文化学院創設者)なども扱っているところに著者のユニークな視点がある。
一方で、そのために、全体的なまとまりがやや散漫になった印象も受ける。
また、エッセイストとして活躍されているためか、ときおり主観的な感想や個人的な思い出などが挿入されて、話の腰を折られるのはもったいないと感じた。
アレントの著書と同じタイトルであることにも、違和感を覚える。
それでも、全体的には、現代を考える上で良い本だと思う。
さて、先に家族史への関心について述べたが、本書には、私の家族と関係のある人物が2人取り上げられている。
古在由重と立野正一である。
古在は、唯物論研究会を設立し、戦前、治安維持法違反で検挙された。
戦後は、民主主義科学者協会(民科)哲学部会の中心として、原水爆禁止運動や平和運動にも参加した。
私の祖父は古在の4つ年下で、唯物論研究会に参加。やはり検挙されたが、起訴留保で出獄。戦後は民科哲学部会に属した。
古在も祖父も、戦後、日本共産党に入党したが、ともに別々の理由で除名されている。
古在の評伝を読むと、行動を共にすることがあった祖父が近くに感じられる。
小学2年のときに亡くなったので、祖父の記憶はほとんどないために、こうした手がかりが、この年になって、ありがたい。
私は祖父の思想にほとんど共感するところがないが、一方で、祖父の生きた時代では、どのように主体的に物事を考えることができたのかとも思う。
その祖父が、「主体性論争」という主体性をめぐる議論を熱く交わしていたのだから、滑稽に感じられる。
学生には、自分の頭で考えるようにと、そればかりを言っているのだけれど、それは簡単ではないし、不可能とさえ言える。
ファミリー・ヒストリーをひもとくと、その時の社会的な構造の中で、いかに個人が不自由であるか、主体が主体的でないかについて、骨身に染みるほど分かってしまう。
だからこそ、この構造と主体の問題に私もこだわり、少しでも自分らしく、自由を求めて生きようと思い、若い人たちとも、この希望を共有したいと願うのだ。
一方の立野正一は、あまり知られている名前ではない。
京都に、老舗の喫茶店として知られる「フランソア」の創業者である。
昭和初期に豪華客船のホールをイメージして建てられた建物は、喫茶店として初めて登録有形文化財に登録されたものである趣がある。
店内には、著名な画家の作品が飾られ、クラシック音楽が静かに流れ、この喫茶店ができた背景を知らなければ、上品な画廊喫茶、名曲喫茶という印象を受けるだろう。
立野は、この喫茶店を当時の時代情況への抵抗から始めた。
戦前、社会全体が軍国主義へと向かっていくなかで、思想や芸術について自由に語り合う場としての役割を担おうとしたのである。
反ファシズムを訴えるリベラルな新聞「土曜日」の発行を支援もしていた。
このため、立野ら治安維持法違反により検挙された。
どういう経緯か知らないが、私の母が立野の次女と友達であり、1980年代半ばだったか、「フランソア」が一時、成城学園に出店したとき、手伝いのためにしばらく通っていた。
店は数年で畳んだと記憶しているが、こういうわけで、10代の頃から京都の「フランソア」には親しみがある。
それにしても、なぜ母は立野家と交流があったのだろうか。
立野が、志賀直哉や武者小路実篤などの白樺派の作家に影響を受けていたことと何か関係がありそうな気がする。
今度、母に聞いて経緯を確かめてみたい。
井上寿一『戦争調査会―幻の政府文書を読み解く』
5冊目の『戦争調査会』には、祖父の父、つまり、曾祖父が出てくる。
というよりも、曾祖父が戦争調査会のメンバーであったことを知っていて、興味を持っていたことから、本書が出版されてすぐに読んでみた。
戦争調査会とは、1945年11月に幣原喜重郎内閣によって、敗戦の原因および実態の「徹底的」調査のために設置された機関である。
しばしば、日本では敗戦の原因究明や責任追及があいまいであったとか、それが戦勝国によってなされたために、日本人自身の総括が不十分であったというような意見が聞かれるが、戦争調査会は、敗戦まもなく自らの手によって、原爆投下に象徴されるような惨劇に至ったのかについて、その原因を調査し、議論を重ねていた。
戦争調査会については、最近まで断片的にしか知られていなかったが、2015年、当時の事務局書類がまとめられて公刊され、その全容が明らかにされることが期待されている。(→『戦争調査会事務局書類』ゆまに書房)
本書は、この史料をもとに書かれており、戦争調査会に関する一級史料の案内書ともなっている。
本書には、戦争調査会の設置に対する幣原首相の強い決意、人選の難航を乗り越えてこぎ着けた機関の設置、さらに、各部会でどのような議論がされたのか、そして、設置から1年足らずで廃止となるまでの経緯が、わかりやすく書かれている。
日本人が自主的に調査しようとしても、敗戦直後であったため、戦勝国の意向を無視することはできない。
次第に米ソが鋭く対立するようになり、その影響が戦争調査会にも当然及ぶとともに、戦争責任を追及する国際軍事裁判との関係などもあって、GHQの意向を受けた吉田内閣が、1946年9月に廃止を決めた。
曾祖父・松村義一は、警察畑を歩んだ元内務官僚であり、政治家であった。
国家総動員法が審議されたときに猛反対したことから、戦争調査会でも、開戦の決断を否定的に捉え、戦争を始めた責任者を究明の上、処罰する必要性を訴えた。
しかし、本書で紹介されている議論を読むと、曾祖父の発言はまっとうには聞こえるものの、視野が狭く感じられる。
その点、幣原首相の方が上手であり、議論の行方が国際社会から注視されていることを理解していた。
特に戦勝国からの日本に向けられる戦争責任の追及を見越して、調査会がどのような立ち位置を取るべきかを腐心していたのである。
多数の戦犯逮捕に伴う人選の難航、多くの公文書が焼却されたことによる資料収集の困難といった壁のほか、戦勝国のパワーバランスに左右され、日本人が主体的に設置した戦争調査会ではあったが、自由に議論することなどできなくなっていった。
幣原首相は、そうしたことを早くから予見して、政治性を脱色した「調査会」という名称にしたのだが、廃止せざるを得なかった。その後、この試みは継承されず、議事録が公開されたのも55年後の2001年であった。
もちろん、戦争責任は追及すべきで、責任者には罰が与えられるべきである。
しかし、その一方で、どうして戦争が始まったのか。
どうしてもっと戦争を早く終わらせられなかったのかを調査し、深く考察することは、それ以上に大事なことだったように思われる。
その社会的な機制を理解し、失敗しないようにつくり直すか、暴走を止めるための策を講じるかしないと、同じような惨劇を繰り返すだろう。
構造と主体の関係性の中で、私たちは、そうした惨劇が繰り返されない社会を実現することはできるのか。
これからの人生もまた、この問いへの応答のために費やすことになるだろう。