秋は、考えるにはよい季節だ。
蒸し暑い夏が過ぎ去ると、落ち着いて取り組もうという気持ちになる。
学会大会・研究会・ワークショップなど、学び合うイベントも数多い。
特に今年は、リモート参加できる機会が増えたので、興味のあるもの全てに顔を出そうとすると、身体が一つでは足りないくらいだ。
今月のコラムには、学ぶ場に参加して考えたメモを記す。
その場で立ち止まって考えたことは、自分の感情が動いた記録である。
断片的なメモを並べてみると、どのように心を動かすといいのか気づくことがある。
その気づきの視点から、個々バラバラに見えたものが関連づけられるとき、何か自分にとって新しいアイデアが思いつく、あるいは浮かび上がるように感じる。
環境社会学の中で
環境社会学会の会員として、『環境社会学事典』の編集委員を務めている。
30人以上いる委員の1人として分担して取り組んでおり、私は理事の足立重和さん(追手門学院大学)にお声掛けいただき、「環境社会学のポジショナリティ」という章を担当することになった。
学会のアイデンティティが象徴的に込められている章だ。
この突っ張った感じが、私には合っているのかもしれない。
2年前、鳥越皓之さん(大手前大学)のお弟子さんたちが、鳥越さんの退官記念に論文集『生活環境主義のコミュニティ分析』を出した。
私はこの本の書評を書いたのだが、それに対する足立さんのリプライとともに、12月発行予定『環境社会学研究』に掲載される。
この良好な緊張関係が、事典編集においても、よい方向に働かせたいと思う。
環境社会学会の関連では、『講座 環境社会学』の編集委員にも就いている。
約20年前に刊行された同タイトルの講座(シリーズ本)を新たに編集する仕事である。
この役割は、福永真弓さん(東京大学)に声を掛けていただき、引き受けた。
福永さんも足立さんも、よい意味で面倒くさい人という印象だ。
つまり、普通には軽く流してしまうことに目を向け、立ち止まって考えるタイプで、個性が光る研究者だと思っている。
そうした個と、考える仕事を通して向き合えるのは、大変ありがたい。
フィールドと向き合う環境社会科学
当然、学ぶ合う場は、1つの学会の内部だけではない。
約3年前から若手の研究者3名―山下詠子さん、増田敬祐さん(ともに東京農業大学)、桑原孝史(日本獣医生命科学大学)―と、小さな自主ゼミを開催している。
これは、大学の研究職に就いた若手研究者が、地域貢献や雑務等に追われ、研究時間を確保しにくくなっていることを背景に、定例的にゼミを開くことにより輪番制で研究発表する機会を設け、調査研究の優先順位を上げて論文を生産していくことを目的としている。
この自主ゼミに参加しているメンバーの専門分野は、林政学、農業経済学、環境倫理学、それに私の環境社会学と、それぞれ異なる。
しかし、フィールド(現場)とかかわりながら社会科学的な調査研究を進めているという共通性があるためか、これまでゼミを続けてきて、意外と議論がかみ合うように感じていた。
そこで、今年度、日本生命財団の環境問題研究助成(若手研究・奨励研究)に、共同研究「持続可能な環境ガバナンスに向けた合意形成の条件-地域社会の自治能力の形成と継承に着目して」を申請したところ採択され、10月から着手したところである(研究代表者は山下さん)。
この合同研究では、宮内泰介さん(北海道大学)の科研費プロジェクトのなかで長く議論してきた順応的ガバナンス論を踏まえ、縮小化する社会における農林業の実態や合意形成や主体形成に関する議論などを接続して、新しい政策論を提示できればいいと考えている。
そのキックオフとして、宮内科研の成果である『なぜ環境保全はうまくいかないのか』 『どうすれば環境保全はうまくいくのか』をテキストにして、2回の書評会を開催した。
1回目は、10/10(土)に、この2冊に論考を寄せている富田涼都さん(静岡大学)、鈴木克哉さん(NPO法人里地里山問題研究所)を招いて議論した。
このときもっとも印象的だったのは、経験から学び取る能力に関してであった。
富田さんは、あっさりとベーシックな読み書きの能力が、言葉による思考が、他者への共感、想像力と関係しているのではないかと述べたが、これはきちんと考える価値があると思った。
2回目の書評会は、10/25(日)に宮内さんを招いて議論した。
いくつもの論点が挙げられたなかで、ガバナンスの対象と政治地理学的なスケール論との関係については、この共同研究で深める価値が高いと感じた。
宮内科研で扱った対象はコミュニティレベルのものが多かったのに対し、桑原さんや山下さんの対象は国や都道府県の役割が重要であり、私が扱う石垣島の自衛隊配備問題は国の安全保障政策そのものだから、この研究チームの特徴を生かせそうだと思った。
2回の書評会を通して、この合同研究で深めるべき論点が提示されたが、コロナによる影響も続くなかで研究期間は1年間と共同研究としては短いので、ポイントを整理したうえで言葉を磨き、思考を深めて、政策論に落とし込みたい。
なお、宮内さんとの対話を通じてあらためて確認したことだが、私が抱えている問題意識として、順応的ガバナンスが機能するような協働型の社会を、私たちの社会が望んでいるのかという問いがある。
個人がそれぞれ考えて適当な役割を引き受け、不確実性にも耐えながら、しなやかに学び続けるという社会は、私たちの目ざすべきモデルとして相応しいのだろうかという疑念がある。
むしろ、あっさりと「正しい」とされる答えを与え、それを信じるように迫る強いガバメントを期待しているのではないか。
現実の社会を見ると、どう答えてよいのかと揺れてしまうのだが、この問いについて考え続けることが私のライフワークとなっている。
これは、公共性と共同性のあいだについて考えることだといえる。
どのように、このあいだを縫うように生きるのが、個人として、そして社会としてよいのだろうかを考え続けている。
アカデミズムを超えて―市民科学、公共社会科学
学び合う場は、アカデミズムの中だけにとどまらない。
10/9(金)、NPO法人市民科学研究室主催で、この日から1年続く「日本の市民科学者―その系譜を描く」(全12回)の第1回講義「「市民科学」と「シチズンサイエンス」に参加した。
この連続講座は、法人の代表理事である上田昌文さんがすべて講義する。
初回は導入として、市民参加でビッグデータを収集する「シチズンサイエンス」と社会課題の解決志向性が強く「市民科学」との系譜をたどり、欧米で発展している前者の勢いを生かして、後者のバージョンアップを図ろうとするねらいは面白いと思った。
私もそうした方向での「市民科学」の発展に関わりたい。
従来の「市民科学」は専門科学者と一般市民との関係を問い直すものだったが、そうした脱構築の先に創りだす新しい市民科学を、私たちの社会は支持するのだろうかという問いがある。
この問いも、先ほどの順応的ガバナンスを機能させる協働型社会のあり方と同様の問題であろう。
ところで、つい最近、宮内さんと上田さんが共著で、『実践 自分で調べる技術』という本を岩波新書から出版した。
これは、2004年に宮内さんが出した『自分で調べる技術』の全面改訂版である。
一読して、前著の良さを引き継いでいると感じたものの、大きく2つの点がうまくいっていないと感じた。
1つは、上田さんとの共著になり、リスクの調査分析の章が加わったものの、この部分が本全体のなかで有機的に絡んでいるとはいえず、また内容もやや専門的すぎて、調べることのハードルを引きあげている点。
もう1つは、こちらの方が本質的だが、「調べる」ことの意義を伝えることが省略されすぎているように感じる点。
まずは調べてみよう、調べてみれば面白さがわかるはずというスタンスだろうが、そう言えるのは、大学やNPOで研究を仕事にしているからだろうという疑念がわく。
このような疑問は、私が「市民科学」への期待とともに、危うさ、怪しさを感じてしまうことともつながっている。
このような問題系を扱うのが、公共○○学であり、
前回のコラムで取り上げたパグリックヒストリー(公共歴史学)はその1つである。
私は最近、環境社会学よりも公共社会学の方に問題の関心が移りつつあるようだ。
デジタルアーカイブの世界
10/17(土)-10/18(日)、パブリックヒストリーへの関心から、デジタルアーカイブ学会の第5回研究大会(オンライン開催)に初めて参加した。
参加費は会員・非会員ともに無料であり、オープンに議論していこうという学会の姿勢が読み取れる。
発表内容は、文系・理系を問わず、多様な分野からデジタルアーカイブを「やってみた」的な実践報告が多い。
白黒つけることにこだわるよりも、とりあえず前に進もうという進取の気性、ワチャワチャした雑多な感じがあり、活気があるなぁという印象を覚えた。
聞く側にも、そうした試行錯誤をリスペクトする雰囲気があり、誰もがアウェイな立場に置かれないような風通しのよさを感じた。
まるでNPOの集いのようで、私にはウマが合うようだ。
10/24(土)には、デジタルアーカイブ学会のワークショップ「デジタルデータの保存・管理」にも参加した。
ここでは、デジタルアーカイブの保存・管理はお金を生みださないから、活用にばかり関心や資金が集中しがちであること。
保存・管理の費用を確保するために、経費を可視化する必要があることなどが指摘され、これもNPOをめぐる議論と重なると思い、共感を覚えた。
私のデジタルアーカイブの関心から、最近取り組んでいるのが、カネミ油症被害者支援センター(略称:YSC)のウェブサイト制作である。
YSCと関わるようになって2-3年が経過し、一般に向けてカネミ油症被害者の現状や課題について伝えることが十分にできていないように感じるようになっていた。
被害者救済の運動を優先してロビー活動などに注力しているために、広報まで手が回らないようだったので、運営委員としては最も経験の少ない私が担当することになった。
YSCの公式サイトとして運営しながら、自分の学びにも生かしたい。
実践者たちの学び
ここまでにふれた学び合いの場は、アカデミズムと関わりがあるものだったが、NPOやソーシャルビジネスの実践者たちのあいだで定期的に学び合う場にも参加している。
1つは、南房総にあるシェアハウス+里山「ヤマナハウス」に集う人たちと2-3週間に1回くらいおこなっている読書会である。
メンバーは、シェアハウスの運営、地域ブランディング、ハンター、地域金融、移住促進などに関わっている実践者だ。
猫も杓子ものZOOMを使わずにLINEを利用し、顔も出さずに声だけでテキストの解釈や意見を述べ合っている。
私は途中から参加したのだが、これまでに宮本常一『忘れられた日本人』、網野善彦『無縁・公界・楽』、真木悠介『時間の比較社会学』などを地道に読み進めている。
現在読んでいるのは鶴見俊輔『限界芸術論』であり、いわゆる芸術家ではない人びとが創りだすさまざまなマージナルな芸術について論じている。
日本におけるパブリックヒストリーの先導者である民俗学者の菅豊さん(東京大学)は、鶴見の限界芸術論を踏まえて、今日のアウトサイダーアート、おかんアートなども包含する現在の「野の芸術」論に取り組んでいる。
読書会では、メンバーで議論して輪読するテキストを決めたのだが、今回のテキストが決まったとき、私は菅さんの後をおのずと追ってしまうのだなという気持ちになった。
もう1つは、8月から始めた環境NPO運営スタッフ懇談会である。
2か月前のコラムでふれたので詳細はもう書かないが、メンバーは東京・神奈川・静岡・大阪・福岡の環境NPO運営スタッフ9人、知識や経験の共有と新しい協働の模索を目指し、月に1回ZOOMで集まっている。
私の学問上のホームといえる環境社会学会では、12月に開かれる第62回大会で「自由報告」という通常の研究発表のほかに、NPO・行政職員等向けに「実践報告」という発表枠が設けられた。
その心意気に応えるべく、この新たな枠で、この懇談会の経緯とともに実践の手応えなどを報告しようかなと考えている。