本書は、NPOに関する新書サイズの基本書という位置づけになるだろう。
特に日本のNPOについて、知っておきたいことや考えるべき論点などが、コンパクトに手堅くまとめられている。
記述も平易で読みやすい。
NPOの沼に深くはまっている実践者や、理論的な関心からNPOにアプローチしたい人には物足りないかもしれないが、本書が想定している読者ではないだろう。
NPOについて聞いたことはあるけれど、実態についてはあまり知らないから何か適当な薄めの本があるといいなという人に、安心してお勧めできる本である。
さて、今回のコラムでは、本書を詳しく紹介したり批評したりはしない。
タイトルとなっている「NPOとは何か」という問いに対して、自分なりに考えていることを書いてみたい。
なお、本書でも整理されているとおり、NPOという用語は、社会福祉法人や学校法人なども含む非営利組織全般を指す場合(広義のNPO)と、ボランティア団体・任意団体やNPO法人など市民が自発的に参加する組織(狭義のNPO)があり、さらに法人化したNPOのみを指す場合(最狭義のNPO)の3通りに使い分けられている。ここでは、NPOと言ったときに一般的にイメージされる狭義のNPOとNPO法人について書く。
私より少し上の世代のNPO法の成立(1998年)に関わった人たち、あるいは、その動きを身近に感じて、NPO法の成立を願っていた人たちにとって、NPOとは民主的な社会を求める市民運動の象徴であったように思う。
「ボランティア元年」と言われる1995年の阪神淡路大震災をきっかけに、市民の力が公的に認められるようになり、さらにNPO法の成立によって、NPOは市民社会をつくる主要なアクターへと成長していった。
それまでも、市民による主体的な活動が社会課題を解決したり、新しい価値を創出したりしてきたことはあった。特に1970年代以降に展開された「新しい社会運動」(旧来の労働運動との比較で「新しい」と呼ばれる)は、NPO法を生み出した潮流に接続している。
それでも、NPO法の成立は画期的であった。かつては市民団体が、行政と協働して政策づくりを進めたり、事業を展開したりすることは難しかった。かりに実現できていたとしても、一部の自治体や、一部の部署に限られていた。それがいまでは、行政と市民・NPOとの協働はデフォルト(標準設定)のようにみなされている。この大きな変化は、市民運動によって実現した法制化によるものと言えるだろう。
1990年代当時、「NPO」という言葉には期待や希望が込められていた。その点を、本書では次のとおり適切に説明している。
「個人レベルのボランティアから組織レベルのNPOへの視点や関心の移行があり、古くからある存在のようで新しい組織としての期待を背負い、単に非営利という言葉だけでは説明し得ない何かを含意しつつ、さらには、従来のボランティアや社会運動に含まれるイメージを薄め、これらをすべて丸抱えするように「NPO」概念に収斂していった。…当時の日本社会で想定されていたのは、非営利組織全般ではなく、むしろ人びとの期待が込められた概念としてのNPOだったと言える。」
いまでも「NPO」に期待が寄せられる理由の一つに、こうした日本のNPOをめぐる経緯がある。だから、この言葉から受けるイメージが世代によって異なるのは当然であろう。
私はNPO法を生み出した市民活動家たちよりも少し若いが、彼・彼女たちの行動をそばで見て、その思いを感じ取ってきたので、市民社会を豊かにしようという願いが託された「NPO」という言葉にこだわりたい気持ちがある。
一方、今日では社会課題の解決を目ざすソーシャルビジネスをおこなう株式会社が増え、2008年の公益法人制度改革以降、一般社団法人も設立しやすくなった。社会課題の解決に取り組むために法人を立ち上げようと思ったとき、NPO法人を選ぶ以外にも、いくつかの選択肢の中から選べるのである。
NPO法人は、その公益性を担保するために、10人以上の会員を集めたり情報を広く公開したりする必要があり、また設立しようと思ってから認証されるまでに最低4か月程度はかかる。こうした要件は、社会的な信頼を集める機会を作りだしているとも言えるが、少数精鋭で社会課題をスピード重視で取り組みたいという社会的起業家(ソーシャルベンチャー)には足かせに感じられても不思議ではない。
さらに、近年、NPO法人以外が好まれる背景として、社会にいいことをしようとしても、お金がなければ何もできないと考える傾向が高まっていることもあるだろう。かつてのNPO経営は、団体にもとに多くのボランティアが関わっており、そうした人びとを事務局スタッフがコーディネートしながら、活動をすすめていくことが標準的だったように思うが、現在はボランティアも高齢化して少なくなっており、何か活動への協力をお願いするにはお金が必要になっている。公益的な活動がボランティアから仕事へと移行してきたことから、法律上利益を分配できないNPO法人よりも自由度の高い法人形態を選ぶ社会的起業家が増えたように思う。このような時代に、NPOの存在意義はあるのだろうか?
近年、SDGs、カーボンニュートラル、ネイチャーポジティブといった環境用語が広まって、企業から里山体験や環境教育の機会を提供して欲しいという希望が届く。ほかの環境NPOでも、そうした要望が増えていると聞く。この傾向自体は望ましいことだし、委託料もいただけることが多いので、経営的にもありがたい。
しかし、私は何か腑に落ちないとも感じる。そして、私たちがNPOだからこそ企業に提供できる価値はないのだろうかと考える。もし何もないのであれば、それはただ体験サービスが買われているだけである。それでよいのかと自問する。
私は株式会社、公的研究機関、学校法人で働いた経験があり、NPO法人は経営に参加している。雇用される立場と経営する立場の違いは大きいけれど、その違いを超えてなお、NPO(あるいは私が考える「NPO」)には質的に異なる部分があるように感じている。
それは、NPOの場合、スタッフ間の話し合いを民主的におこなうことはもちろん、その議論の中身が会議に参加していない会員・寄付者から見ても適切であるようにと常に心がけているし、さらに言えば、さまざまなかたちで資金を調達しているので一般市民からの視点も内面化して議論を進めている。このような倫理的な態度は、多様な視点から話し合うことを要求するため、議論が長引くことも少なくない。しかし、このプロセスは、一人ひとりの声が尊重される社会をつくるために必要なコストだと考えている。
また、私がこのコストを支払うのは、民主的な社会の実現のためだけではない。私自身が、コミュニケーションを通してほかの人の考え方を知り、その違いを受け入れながら、他者そして社会をより深く理解するとともに、自己の成長も感じられるからである。逆に言えば、私自身がほかのメンバーとともに、各自の特徴とそれぞれの違いを生かしつつ成長できる場でなければ、NPOのかたちを取らなくてよいと思っている。
そう考えると、たとえば、企業の求めに応じて里山体験の機会を提供するとき、私たちがこだわるべきことは見えてくる。それは、多様な他者との出会いであり、コミュニケーションであり、そのプロセスから得られる気づきであり、学びなのではないだろうか。