ここ3年ほどの間、「環境運動のパブリックヒストリー」と題した講座を企画し、環境運動の当事者から運動史を語っていただく機会をつくってきた。
この講座の目的には、当事者の高齢化が進むなかで、当事者が生きているうちに、語りを記録に残しておくことがある。
さらに、そうした運動史を、いまの運動やこれからの運動に、どう生かせるのかを考える素材としたいとも考えている。
大学の授業のなかで、こうした当事者の語りを学生たちに聞かせて感想を尋ねてみると、思わぬ反応に出会うことがある。
たとえば、以前コラムでも取りあげた「たまごの会」の有機農業運動・消費者運動について、当事者の証言を映像で見た学生は、およそ次のように感想を述べた。
すなわち、そのラディカルな環境運動の意義を高く評価する一方で、国や企業を自分たちと対立する敵と見なして、あたかも悪と闘っているような様子には違和感がある。敵対する側にも言い分があるし、そのおかげで私たちの生活が成り立っている部分もあるのだから、全否定することはできないという。
学生の意見は率直で、また理性的だと思うし、私も賛同する部分が多い。
別の例を挙げよう。
土本典明監督の映画『水俣一揆』において、
故・川本輝夫さんがチッソの島田社長の目の前で机の上にあぐらをかいて、趣味は何ですかなどと尋ねるシーンがある。
被害者と加害者という立場とは別に、つまり、企業の論理の粗を探そうとか、言質を取ろうという考えではなく、一人の人間として、興味を持ったことを聞いているように映る。
私ならば、ドキュメンタリー映画の持つ迫力に痺れながら見る場面だ。
水俣病の被害者が加害企業のチッソに対して加害責任や被害補償を求めても、チッソがその要求に応じようとしないとき、解決手段として裁判に訴えることになる。
しかし、裁判という制度の中では、事実や法に基づいて裁かれる。
相手も弁護士を立てるので、対峙すべき人が出てこない。
人間として直接的に対話することが難しい。
だからこそ、川本さんはチッソ社長と対面で訴えた。
その面と向かって話すというあり方が、机の上であぐらをかくというポーズになった。
被害者が自分たちの声を直接届けたいという思いが象徴的に現れている。
その姿は、制度に埋め尽くされた社会の中にあって、人と人が出会うことの難しさも示している。
このシーンを観ると、私は本当に人と対話できているのだろうか、私は人と出会えているのだろうか、私が本気で人に伝えたいことは何だろうか、などの疑問が浮かぶ。
けっして、ひとごとでは済ませられない迫力がある。
しかし、このシーンを見た学生から、机の上にあぐらをかいて話すという行為が失礼だという意見に出会ったことがある。
もちろん、被害者と加害者の圧倒的な力の差、現在と約50年前との時代背景の違いなどがあるので、そうした歴史的・社会的な文脈を理解したうえで映像を観るべきである。
ただし、そのように説明してもなお、川本さんのやり方は不適切という意見は生じうる。
なぜならば、この学生は被害者の人間性にふれると同時に、加害企業の代表者にも、人間性を観ようとしたのかもしれない。
このような感性は、自らを第三者として位置づけて映像を鑑賞したのではなく、むしろ、自らは被害者にもなりえただけではなく、加害者にもなりえたという想像力が働いたからではないだろうか。
私は2年前から一橋大学で「環境をめぐる問題と実践」という講義を担当している。
この大学で学んだ学生たちは、官僚や大企業の役員となるような人も多くいるだろう。
そのような学生たちに対して、私は環境運動を実践してきた当事者の語りを通して、環境問題の歴史を学んでもらっている。
少人数のクラスなので、毎回学生たちとディスカッションして、終わってからはコメントも書いてもらう。
その中で、「私は加害者になりうるかもしれない」というコメントに多くの共感が寄せられた。
公害・環境教育では、被害者の人権を無視した加害、犯罪を学ぶことで、二度と被害が発生しないように法制度を整備したり、人権教育をおこなったりする。
その際、自分が被害者となるかもしれないという潜在的な当事者性に訴えることが多い。
カネミ油症のような食品公害の場合、誰もが食べた可能性があるというロジックで、当事者性を持つように促す。
先日、この『水俣一揆』をめぐるエピソードをオンライン環境講座の中で話す機会があったとき、社会運動の経験が長い方から、この学生の「素朴な見方」は批判された。
きちんと時代背景を説明すれば、川本さんの行動は理解できるはずだという。
その人の言いたいことは十分に理解できる。
今の学生たちは、目に見える部分だけしか観ていないので、川本さんの行為の背景を理解できていないという評価は、妥当なのかもしれない。
しかし、この評価は、被害者ばかりに焦点を絞り過ぎていないだろうか。
加害者側の屈辱、板挟みにあう逡巡など、チッソの社長だから、企業城下町の殿様だからと、この機会に、被害者の苦痛以上の屈辱を味合わせてやろうとか、正義の斧を振りかざそうとか、余計な力みは入っていないだろうか。
自分が見たい勧善懲悪のストーリーに当てはめて、被害者側に立つことに無自覚になってはいないだろうか。
私は学生の意見について、これは鈍感だからではなく、むしろフラットで、解像度高く観ている可能性があると感じた。
つまり、川本さんの立場とともに島田さんの立場も理解し、もっと普通に話し合えないものかと感想を述べたと思われる。
被害者-加害者の間の圧倒的な権力勾配があり、その背景を踏まえたうえで成立する名シーンに対して、そうしたコンテクスト理解が孕む二項対立的なとらえ方を批判しているとも言える。
つまり、川本さんの行為に対する違和感であるとともに、このシーンの感じ方に対する批判でもある。
ここで、話をもう少し広げて考えてみたい。
2016年に稲葉奈々子さんが発表した社会学分野における社会運動論のレビュー論文では、新自由主義的な社会のあり方が広がり、再帰的近代化が自覚される中で、「旧い敵対線は葬り去られた」と解釈された。
この傾向自体はその通りだろうが、結論部に書かれた「市民社会の中に政治性を発見し、そこに敵対線を引き直していく」という社会運動論の方向性は、社会の複雑性を単純化し過ぎるリスクを感じるので、同意できない。
もちろん、さまざまな権力を検出するためのセンサーの感度は上げたい。
そして、そこに働く力に抗う術を身に付けたり、高めたりすることは大事なことだ。
そのような社会運動の意義は、「敵対性の喪失」以降も変わらない。
むしろ、近年になるほど、より微細なポリティクスを見つける視点や名指すための概念も増えていると思う。
そのことを踏まえたうえで、敵対線を引くというやり方は、再帰的な現代社会で力に抗っていくには適していないと考える。
線の向こう側に、自らとは違う位置に敵がいるという発想には、現代社会システムの中に生きている自分のことを捉え損ない、自らの立場性への自覚も見られないと感じる。
それでは、現代の社会運動・環境運動はどこへ向かえばよいのだろうか。
これまでの議論から、それは敵を作らない方向へということになる。
そして、私が思うに、それは若者たちの運動にすでに現れていると思う。
少なくとも私が接してきた範囲では、彼らはむやみに怒らないし、無駄に闘わない。
しかし、それは手段と目的を理解しているからだと感じている。
怒ることや闘うことは手段であって目的ではない。
社会を変えるという目的に近づくのであれば、そうした手段に訴えることもありそうだが、むしろ、目的から遠くなると考えて、よりましな方法で、もっとスマートな方法を選んでいるのではないだろうか。
また、対峙すべき敵を特定して、相手を倒すという手法も好まれないように思う。
そのような方法でいっときの勝利に酔いしれたとしても、社会の土台が変わらない限り、必ず揺り戻しが生じて、むしろ事態は悪化すると捉えているのではないか。
このような傾向に対して、熱量が感じられないと受け止める向きもあるだろうが、長いスパンで社会を冷静に見ているとも言えるだろう。
さらに、現代社会に代わるオルタナティブを作るという発想も弱いように思う。
もちろん、社会の主流的な考え方に対して、少し距離を取って別の手法を試してみたり、斜めの角度から考え直すようなことは、一貫して取り組まれている。
最近ならば、そうしたオルタナティブな実践は、地方で多く見られるような気がする。
けれども、それは「いま・ここ・私」から見える現代社会を相対化する試みであって、オルタナティブな社会を本気で目ざそうとする実践とは異なるだろう。
現代社会に行き渡る制度や支配する文化などに対して、ある意味で信頼しているからこそ可能な取り組みであるように思う。
現代社会を批判はしても、否定はしないのだ。
そうした考えを、私はとても大衆的で健全だと思っている。
三里塚闘争、圏央道建設反対運動など、心情的には共感していた。
しかし、成田空港も圏央道高尾山トンネルも、今では普通に利用している。
たしかに、許しがたい敵、社会にためにならない酷い勢力は存在する。
それでも、それらが政治的に経済的に力を握っている現代社会に凡人として生きているのだから、相手を叩こうとするときには、必ず自己批判を含むことになる。
こうした自省を踏まえて、私はこれからの社会運動・環境運動の方向性に対して、「誰も傷つけない」という言葉で表そうと思う。
これは、ぺこぱ、ミルクボーイなどが、「誰も傷つけない笑い」と言われていることに影響された表現である。
たしかに、彼らは、他者の弱さや属性を笑いの対象にしない。
誰かを見下したり、排除したりしない。
以前のお笑いは、権力者を笑う場合もあったが、弱者・マイノリティを笑うことも多かった。
このうち、後者の笑いは、人びとの多様性や多様な価値観を認め、ハラスメント意識が高くなった社会では、廃れていく運命にあるだろう。
一方、前者も受けなくなっている。
それは、権力者を笑うことで、大衆がそのときだけ溜飲を下げたとしても、社会は変わらないという身も蓋もない現実があるからだろう。
結果として、そうした冷やかしが、斜に構えているだけの無責任な立場の表れに見えてしまう。
また、政治家を笑うことが、ある政治的な立場を表明しているように捉えられてしまい、聴衆からはパターン処理されてしまうこともあるだろう。
そうした表現は、政治的な分断を引き起こすだけであって、ターゲットに届かず、社会に与える影響も非常に限定的になる。
逆に言えば、社会を変えるために誰も傷つけないで済むならば、その方がよいだろう。
社会運動・環境運動は、社会や環境を実際に変えることが目的なのだから、その目的を達成するために、コスパ・タイパの良い方法が好まれている。
だから、若者はあまり従来型のデモに参加しないように見える。
街頭でデモ行進しても主要メディアに取りあげられず、周辺の住民から迷惑がられるだけである。
一方、SNSを使ったハッシュタグ運動はデモよりもコスパ・タイパが良く、実際に社会を変えるには近道だと考えられているようだ。
また、パフォーマンスも変わってきている。
実際、大学入学共通テストにおいて、国語・数学の記述式問題や英語民間試験の導入に対し、高校生らが中止を求める署名運動を展開し、止めることができた。
当時、私はこの試験改革の方向性は良いと考えていたが、実際に導入する際に公平性が担保できるかどうか疑問に思っていた。
それでも、すでに既定路線で進んでいたので止めることはできないと諦めていたが、当事者である高校生たちが声を集めたことで、覆すことができた。
若者たちは、運動に参加しないわけではないのだ。
誰も傷つけない運動なんてできるのだろうかという疑問はわくだろう。
しかし、それは理念ではなく、すでに文化やエンターテイメントの領域で実践され始めているのではないだろうか。
そうした実践として、今日の日本社会でもっとも注目すべきは、若者の間で絶大な人気を誇るアーティストのちゃんみなさんだろう。
実際、彼女は「私が社会を変える」と言っている。
そして、それが意気込みだけではないことは、ちゃんみなプロデューサーによる、ノノガ(No No Girls)のオーディションを見ればわかる。
これは、もちろん優れたエンターテイメントである一方で、とても社会的なメッセージを含むちゃんみなさんなりの運動でもあったと思う。
彼女は、私たちを性別、国籍、セクシャリティ、見た目などで判断して、人格を否定する者を、さらに、そうした人びとを褒めそやしている社会に対して闘っている。
もちろん、ノノガでも、ほとんどの参加者は選考から漏れて涙を流す。傷つけられる。
それに対して、ちゃんみなさんは、自分の求めるスキルに足りなかったこと、求めるグループの方向性に合わなかったことなどを丁寧に説明し、人間として否定したわけではないことを理解してもらうように言葉を尽くす。
大きな愛をもって、オーディションの参加者と接する。
この振る舞いを参加者に対して、そして視聴者に見せることを通して、社会にメッセージを投げかける。
社会的な分断を引き起こすことで不安をあおり、「○○ファースト」という言葉で支持を取り付けようとする者がのさばる今日、ノノガが好評を博し、このオーディションから誕生したHANAが一躍人気ガールズグループとなったことは、私にとって希望である。
