3月24日(日)~27日(水)の日程で水俣を訪れたので、今回のコラムでは、おもに水俣で見たこと、聞いたこと、考えたことについて報告したい。
行くまで
この水俣行きのきっかけは、12月中旬、法政大学多摩キャンパスで開催された第6回公害資料館連携フォーラムに参加したことにある。最近、カネミ油症について調べに五島列島へ通ううちに、比較材料として公害一般について考える時間が増えていた。特に、戦後最大の食品公害と言われるカネミ油症について考えを深めるには、汚染された食べ物に原因がある点で共通している水俣病について、もっと学ぶ必要があると考えていた。そこで、今回このフォーラムが自宅近くで開かれることを知り、6回目にして初めて参加したのである。そして、ここで吉永利夫さん(水俣病を語り継ぐ会/ミナコレ)と知り合うことができ、「ぜひ水俣に来てください」という言葉を正直に鵜呑みにして、その縁を頼って水俣を訪問したのである。
私が水俣を初めて訪ねたのは、15年ほど前のことになる。このときは、元水俣市職員の吉本哲郎さんが始められた地元学を学ぶことが目的だったので、愛林館に沢畑亨さんを訪ね、寒川集落で地元学を体験した。水俣病について学ぶ時間はほとんど取れず、水俣病歴史考証館をさっと短く見学しただけであった。だから、水俣病を考えるために訪れたのは、今回が初めてと言ってよい。
1月下旬、吉永さんと連絡を取り、誰に会いたいかを伝えると、その希望をすべて取り込んで、3泊4日の旅程を組んでくださった。今回のように限られた時間で回らざるをえない場合、現地に精通しているコーディネーターの存在はありがたい。
さて、水俣訪問を2週間後に控えた3月10日(日)、吉永さんが「水俣病経験の普及啓発セミナー」のために上京されるというので、事前の打ち合わせもしたかったので、会場のある東京青山へ行くことにした。
環境省主催のこのセミナーは、国立水俣病総合研究センターによる最新研究の講演、語り部講話、胎児性水俣病の患者さんの詩に曲を付けた音楽演奏、石牟礼作品の朗読、パネルディスカッション「水俣病の経験を伝えるために」と、多様な内容が3時間半に詰め込まれていた。このため、やや目的が散漫に感じられ、論点を深めるまでには至らなかったが、興味を惹かれる人や言葉に出会うことはできた。たとえば、写真家の芥川仁さん、語り部の杉本肇さん、吉永理巳子さん、水俣病被害者の半永一光さん、新潟水俣病の被害地で地域づくりをされている山崎陽さんなど。
杉本肇さんの語りは、深く心に響く。2016年5月の水俣病公式確認60周年記念特別講演会で、満員の安田講堂で初めて肇さんの語りを聞いたとき、大きく心が揺さぶられたことを思い出した(『水俣フォーラムNEWS』第39号に掲載)。お母様の杉本栄子さんを中心とした杉本家の暮らしは、NHKのドキュメンタリー番組や、水俣病資料館から取り寄せたDVDなどを通じて見る機会があった。それらは栄子さんを中心とした作品であるため、5人兄弟の長男である肇さんの視点から、栄子さんやお父様の雄さんなどのことが語られると、水俣病患者としてではなく、一人ひとりの個性や魅力が一層浮かび上がってくる。おそらく、肇さんは私たちが知っている杉本家のイメージを理解しながら、知られざる一面も含めて、ご両親の生き方を丸ごと大事にお話しされるので、自然と愛情が伝わり、温かい気持ちになるのだろう。
最後のディスカッションでは、芥川さんが水俣に入った写真家を代表して、撮影した写真やネガなどの資料保存については国が責任を持って取り組んで欲しいと述べ、登壇者からは一定の賛同を得られた。この提案については、もっともであると思う反面、公文書をはじめ記録を大事にしない国には期待できないので、市民社会がアーカイブズを運営する仕組みを考えたいと思った。
この日、セミナー終了後に関係者による懇親会が開かれたので、私も参加させてもらった。このとき、杉本肇さん、吉永理巳子さんとご挨拶することができ、水俣での再会を約束した。
現地へ行く前は、事前によく下調べをしておこうと考えていたが、地元町会の会長として4月上旬に開く定期総会のための資料づくりに追われ、ほとんど進めることができなかった。今回の訪問のために目を通したのは、セミナーのときに吉永さんからいただいた
- 「私にとっての水俣病」編集委員会編(2000)『水俣市民は水俣病にどう向き合ったか』葦書房.
のほか、今回アポを取っていた方々のことが書かれている次の3冊だった。
- 塩田武史(2013)『水俣な人―水俣病を支援した人びとの軌跡』未来社.
- 水俣フォーラム(2018)『水俣から―寄り添って語る』岩波書店.
- 『地域人(特集:新しい水俣をつくる)』第35号(2018)大正大学出版会
水俣フォーラムが2017年にまとめた『水俣病図書目録』によると、水俣病関連の本は500点に迫るほどであり、到底すべてをカバーすることはできない。しかし、これだけの資料があるので、現地に行かずにわかることも少なくない。逆に言えば、現地で何を学ぶのかを考えておかないと、東京でも調べればわかる情報を入手するだけに終わることもあるだろう。
会いたい人と会うアポ取りについては、ほとんど吉永さんに任せてしまった。先方からすると、どんな人が訪ねて来るのかわからないので、私のプロフィールと今回の訪問の目的を事前に文章で知らせて欲しいとリクエストがあった。以下は、そのために書いたものである。
水俣訪問にあたって
大学で環境社会学という授業を担当しており、15回の授業のうちの3回は水俣病について学ぶ機会としています。学生は、四大公害病の1つとして水俣病を知っていますが、水俣という地域社会について、未認定患者、二世・三世の問題などについては、ほとんど知る由もありません。ですから、私が話をして、資料を見せたりすれば(毎年、水俣病資料館からDVDを借りて、杉本栄子さんの語りは観るようにしています)、あらためて学生も深く考えます。しかし、日々の自分の生活との接点をうまく見いだせず、社会の問題とどう向き合えばいいのか、戸惑っているように見えます。
現在、私は五島列島のカネミ油症被害と、その支援について調べています。
カネミ油症の場合、特措法ができて被害者補償という点で改善した部分がありましたが、その一方で、支援者にとっては次に打つ手が見出しにくくなっているように感じます。
もし、「支援」というものが、被害者が裁判で勝てるように協力することや、良い政策・制度をつくることとイコールであるならば、私にできることはほとんどありません。そのための専門的な知識や経験を持っていませんし、かりに持っていたとしても、問題が発生して半世紀にも及ぶ時間が経過したために、できることは限られると思います。
それでも、私はカネミ油症の被害者と出会ってから、一人ひとりが感じている辛さや悲しみを一部でも分かち合えればと思っています。医者でも法学者でもない、一人の人間として、人が人に対して人として出会い、互いのことを気にする関係になりたいのです。このような思いは特別なことではなく、被害者と出会う機会があれば、同じように感じる人も少なくないでしょう。
このような思いの寄せ方は、いわゆる「支援」とは違いますが、最近のはやり言葉でもある「寄りそい」とも違うと感じています。では、なんと呼ぶべきなのか、よくわかりません。
こうしたことを考えていた中で、永野三智さんの『みな、やっとの思いで坂をのぼる』を拝読したところ、深く共感しました。患者さんの話を聞く、そして言葉にする。このプロセスに込められている心遣いが、伝わってきました。
また、たまたま観た『しえんしゃたちのみなまた』(映画としては失敗作でしょうが)に登場していた中村雄幸さんのアプローチは刺激的でした。患者さんたちの世界に入り、共に生きたいという正直な気持ちは、とてもよくわかるように思いました。
谷由布さんという恵泉の卒業生が水俣にいるということは知っていました。しかし、坂本しのぶさんとの関係については最近まで知らなかったのです。水俣で恵泉OGがどんなことを考えて働いているのか、うかがいたいと思いました。それは、大学の意義を考える上でも、この機会にぜひお目にかかりたいと思いました。
今回の訪問では、質問紙を用意してインタビューにお答えいただくことは想定していません。自分が考えたいことに言葉を与えていくために、これまで水俣病の患者さんと深く関わり、「支援」についても根底から考えてきたに違いない方々とお目にかかり、それぞれが取り組まれてきたことと、お考えになってきたことをお聞かせいただきながら、そこに私の感想やコメントも挟んで、話し合う時間を持てればと思っています。
貴重なお時間を割いていただき、まことに恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。
3月24日(日)
昼前、ほぼ定刻通り、鹿児島空港に到着。レンタカーで曽木発電所遺構を訪ねた。
ここは、チッソや旭化成の設立者である野口遵(1873-1944)によって、金山開発の電源供給のために1906年に建造された水力発電所跡である。ここでは、日本における電気化学工業の近代産業遺産としての説明はあるけれども、水俣病については特に言及されていなかった。鹿児島県にとって水俣病は「もらい公害」であるので、この経験から学ぶという取り組みは弱いのだろうと感じた。
15時、水俣市立水俣病資料館の前で杉本肇さんと落ち合い、杉本さんの車に同乗して、おもに水俣病の患者さんが多発した集落をご案内いただいた。まずは、国道3号線を南下してから西に折れ、今が収穫最盛期のサラダたまねぎの畑と大きな合板工場間を抜け、袋小路状の袋湾を左に見て、丘を越えると肇さんがお住まいの茂道集落である。茂道漁港は、入江の地形を生かした小さい港で、シラス漁用の2艘の船が停泊していた。周囲はミカン山に囲まれている。かつて、この山には松が生えていたそうだが、海が汚されて漁業だけでは食べていけなくなったので、農業構造改善事業でミカンを植えたという。つまり、人びとの生活のために変えざるをえなかった環境であるが、こじんまりとまとまった風景を私は美しいと感じた。
肇さんの仕事はシラス漁を中心とした漁業であるが、この時期は獲れないので柑橘類を育てている。水俣では甘夏がロングセラーであるが、最近はデコポンの生産農家も多い。しかし、デコポン栽培には加温が必要であるため、無農薬で栽培している肇さんのような農家は導入しにくいとのこと。また、デコポンにはイノシシの被害もあるのに対して、甘夏には鳥獣被害がほとんど見られない。もっとも、急傾斜のミカン山でヘクタール規模の草刈りは体力的に相当厳しく、放棄されて果実がなったまま収穫されないままの木々も散見された。
茂道のミカン山を縫うように上がり、坂を下ると神川(かみのかわ)集落であった。集落は境川という鹿児島県との県境を流れる川沿いに形成されている。私の家も、東京都と神奈川県の境を流れる境川の近くにあり、親しみを覚えた。境川を越えるとすぐに鹿児島県側の集落があるが、肇さんが子どもの頃は、川向こうの言葉が全然わからなかったという。
神川と言えば、「サラたま事件」(1999年6月)で知られる。これは、『どっちの料理ショー』というテレビ番組で、水俣のブランド野菜であるサラダたまねぎが取り上げられた際、ライバルは「東京都八王子市小比企町」の産と紹介されたのに、水俣のものは「熊本県袋神川」と「水俣市」が意図的に省かれたのである。この時間から20年の年月が流れたが、今のテレビ局は水俣の産品をどのように紹介するだろうか。
国道3号線に出て北上し、左に折れて向かったのが湯堂集落であった。この集落には、胎児性水俣病患者として知られる坂本しのぶさんがいらっしゃる。ちょうど資料館では、「ストックホルムからジュネーブへ―水銀汚染のない世界へ〜坂本しのぶのあしあと」という企画展が開催されていた(5/6まで)ので、2日後に見た。
湯堂漁港は袋湾に面した小さな港である。地形的な特徴から海底から水が湧き出している場所があり、堤防を歩いてその様子を見た。
その後、月浦で写真家のユージン・スミスが借りていた家や、自主交渉派のリーダー・川本輝夫さんがかつて住んでいた家などを案内していただき、南部もやい直しセンター「おれんじ館」へ向かった。この施設に隣接する月浦ふれあい公園から眺めると、不知火海がよく見えるからである。
正面には恋路島が、右手に資料館のある明神崎と埋立地(エコパーク)、左手には茂道の先の岬が見え、水俣湾を一望できる。かつて、この湾で汚染された魚が不知火海全域に拡大するのを防ぐため、1974年~97年まで仕切り網が設置されていた。その範囲が手に取るようにわかるビューポイントであった。恋路島の奥には、左手に獅子島と右手に御所浦島もよく見え、その先には天草の島々も目に入る。まるで湖のようだと形容される不知火海(八代海)の穏やかさに気持ちも和んだ。
杉本さんに最後にご案内いただいたのは、エコパーク水俣であった。ここは、水銀を含むヘドロがたまっていた水俣湾を埋め立て、1990年にできた。1995年から市民の手によって種子から育てた「実生の森」は、木々が生長して立派な森となっていた。2006年、この地に水俣病公式確認から50年を記念して、水俣病慰霊の碑が建立られた。毎年、この慰霊碑の前で公式確認日の5月1日に水俣病慰霊式が営まれる。慰霊の碑の周りには、子どもたちが作った魚介類の焼き物が置かれている。チッソによる海洋汚染による被害は、人間だけではなく魚介類も受けた。亡くなった生きものすべての霊を慰めようとしている。
慰霊の碑がある親水緑地には、不知火海に向けて石像50体ほどが置かれている。これは、水俣病の被害者有志が中心となって発足した「本願の会」のメンバーが自ら彫ったものである。肇さんが1つひとつを見て、これは緒方正人さんによるもの、石牟礼道子さんのご主人によるものなどと、解説してくださった。お父様の雄さんが、手の悪いお母様の栄子さんの分を彫ったものもあった。肇さんを産む前に、栄子さんは2回流産を経験されたので、その石像は赤ちゃんの表情が彫られている。
これらの石像は海に向かい、不知火海をじっと見つめている。チッソ水俣工場の廃液が流れていた百間排水口の前には、川本輝夫さんの願いを受けて建てられたお地蔵様がいらっしゃる。こちらは、つねに排水口を見つめ、その先にはこの石が採られた新潟水俣病の被害地である阿賀野川があるという。
肇さんと別れる前に、語り部として手応えを感じるときについてうかがった。そこで教えてくださったエピソードが印象的であった。水俣の高校生が四国に対外試合に遠征したとき、相手チームの生徒から「水俣病!」などと露骨に差別的な言葉を言われたことがあった。そのとき、「そういう言い方を差別というんだ」「水俣病のことを教えよう」と、水俣で育った生徒が毅然と言い返したという。その言葉を聞いて、引率の先生達は感動して泣いたという。そういう話を聞いて教育の力は凄いと、あらためて感じたそうだ。私も教育に携わっているが、このように人が自分らしく生きるための力に役立っているのか、自分の手を胸に当ててみた。
肇さんと別れてから、今度は自分で車を運転して、同じ道をもう一回ゆっくりとまわって反芻してから宿へと向かった。この日は、湯の児温泉に朝食付きで4,400円という安宿に泊まったところ、風呂だけは良かった。
3月25日(月)朝から夕方
朝9時、吉永利夫さんと資料館で待ち合わせ、すぐに車に同乗して、夕方まで水俣病の被害地をご案内いただいた。
まずは、国道を南下して、出水平野に入り、米ノ津川河口にある名護港に行った。吉永さんは、水俣病センター相思社の職員時代、このあたりに住む患者さんと関わっていたという。港近くの住吉町には、NPOみなまたが運営するグループホーム「三郎の家」もあった。後で知ったことだが、水俣病第3時訴訟原告団長を務めた橋口三郎さんは、この町にお住まいだった。
その後北上して、昨日も訪れた茂道と湯堂を、あらためてご案内いただいた。前日は、おもに道幅の広い道を通ったが、この日は旧道を走ったので、茂道の杉本栄子さんが食堂をやっていた場所、湯堂の若衆宿があった場所なども巡り、集落の雰囲気がよく伝わってきた。
冷水(ひやすじ)の旧道は、車の交通が少なく、ヒューマンスケールで雰囲気が良かった。坪谷(つぼだん)は、初めて水俣病に公式確認された患者さんが発生した集落である。この集落の月浦新港でも、恵比寿さんが穏やかな海を眺めており、その佇まいに安らぎを感じた。
水俣駅前のチッソ水俣工場は、グループで事前に予約しておけば見学できるらしいが、今回は正門に近づき、かつて座り込みのためにテントが張られていた場所を案内していただき、敷地の外側をぐるりと半周して悪名高きサイクレーターを外から見てから、丸島漁港へ向かった。ここは水俣漁協があるように、水俣の漁業の中心地であるのだが、最近はあまり魚が獲れなくなっているという。かつて、ヘドロ浚渫のため新港を造ったが、現在はほとんど利用されていない。
まるしま食堂で、早めの昼食として水俣名物のチャンポンをいただいた後は、八幡残渣プール跡(現在は太陽光パネルが敷き詰められている)、石牟礼作品に登場する大廻りの塘、みなまたエコタウンの工場の数々などをご紹介いただき、古賀町2丁目に残る旧日本窒素肥料水俣工場跡や、旧水俣城のある陣内地区のチッソ社員寮などを見てから、さらに北上して津奈木町、芦北町へと向かった。
津奈木湾沿いの大泊と仮泊。その北の福浜からは、廃港になった旧赤崎小学校が見えた。この学校は、校舎が海に突き出しているのが特徴で、翌日に会った谷由布さんの母校でもある。
平国には、このあたりでもっとも大きな漁港があり、津奈木漁協がある。それから、合串(えぐし)。さらに、芦北町に入り、大矢、大星、京泊と津々浦々の漁村を訪ねた。京泊には、吉永さんが懇意にしている方がいらっしゃるというので、その方のご自宅を訪ねたが不在であった。そして、最北は打瀬船で知られる佐敷港まで行き、資料館に近い吉永さんの自宅に戻った。
今回、なぜ吉永さんは水俣を中心とした南北に長い漁村を1つひとつ案内してくださったのか。その本意は尋ねていないが、私はご案内いただいて、水俣病の患者さんがこうした漁村にくまなくいらっしゃること、そこに一人ひとりの命があること、そして、水俣病の被害が不知火海に広く及んでいることを実感することができた。
チッソのテント前で患者さんたちが座り込みをしていたとき、水俣の市民の間ではなかなか支援の輪が広がらなかったという。水俣市内では、チッソと関係がある人ばかりなので、かりに支援しようという気持ちがあったとしても、そうした目立つ行動を取りにくかったのであろう。しかし、芦北の漁師たちはチッソと関係がないので、川本さんたちの運動を支えてくださったのだという。こうしたところにも、水俣という企業城下町特有の力学が見て取れるのだが、水俣以外の地域と比較することによって、より理解を深めることができた。
3月25日(月)夕方
夕方16時、水俣の魚を車で移動販売している中村雄幸さんと「おれんじ館」でお目にかかった。中村さんと会いたいと思ったのは、昨年見た『しえんしゃたちのみなまた』というドキュメンタリー映画に登場していて、すっかり惹かれてしまったからである。お連れ会いの藤本寿子さんが水俣市議であるため、選挙間近でお忙しいにもかかわらず、1時間半ほどお時間を割いてくださった。
中村さんは、1974年に相思社の設立時のメンバーであった。その後、14年間スタッフを務めてから魚屋さんに転職して31年になるという。この間のご自身の実践については、挫折の経験と繋げてお話しくださった。
1つめは下関水産大学校での学生運動の経験だった。学生時代、一週遅れの大学紛争が地方の大学に及んでおり、中村さんは運動に参加したが、挫折した。苦悩して行き場がなかったとき、友人に誘われて水俣を訪ね、茂道集落の杉本家で3日ほど漁を手伝った。
中村さんは新潟県の現在の上越市に生まれ育った。山の中の集落であったので、海への憧れが強かったという。小学生のときに初めて海を見たこと、中学時代の臨海学校の思い出、そして水産大へ進学した。学生運動に疲れた中村さんは、杉本栄子さんとの出会いに救われた。水俣が「俺の下り場所」となった。
相思社の立ち上げ時は、患者さんと共同で何かできることはないかと試行錯誤した。「農業をやる」と言って、野菜を生産したり、加工品を販売したりしたが、頭でっかちで経験は何もなかった。患者さんたちが甘夏栽培を始めた頃だったので、水俣病患者家庭果樹同志会の事務局を担当した。養鶏は困難とわかってやめ、キノコ栽培に着手した。現在の水俣病歴史考証館は、このキノコ栽培小屋を改装したものである。
中村さんは、食産部門に所属して、もっぱら堆肥づくりに励んだ。牛糞と鶏糞を半分ずつ混ぜて切り返し、段階的に発酵させ、できた堆肥を急傾斜のミカン畑に撒いた。この仕事を約7年間続けた。好きな仕事だった。畑にはモノレールが設置されているので、堆肥を運ぶのに利用できるのはよいが、それから広い面積に運んだ堆肥を撒くのが重労働だった。
患者さんは全量引き取ってくれる農協に出荷していた。相思社が勧めるような低農薬栽培を導入したのは1世帯だったが、全国に消費者が付いてきたことで、農協よりも高く買い取ることができるようになり、30世帯以上まで増えた。
一方、水俣湾ではヘドロ処理が進められていた。しかし、この工法のあり方に対して疑問を感じていた。そこで、湾内の汚染魚の調査、干潟の生きもの調査等を実施した。不知火海の海のすごさに取り憑かれた。どんな海なのか、この海をどう表現できるのかと考えた。この海ともっと深く関わりを持ちたいと思い、水俣病との関係は伏せて、対岸の島じまへ渡り、生業、食、交通などの島の暮らしについて聞き取り調査をおこなった。いつから集落ができたのか、村の成り立ちを長老から話を聞いた。すべて漁業と密接に関係していた。
県のヘドロ処理に反対しても、工事は進んでいく。水俣湾の魚は危ないと言うけれど、人びとはみな食べている。「危ない」と言っても通っていかない世界。ここで2つ目の小さな挫折を経験した。しかも、自分もまた水俣の魚を食べていた。
患者さんの支援について、自分の中で行き詰まっていた。そうしたときに、土本典昭監督が「不知火海の魚を食べて、うんちして、水銀を減らそう」と言った。この言葉に納得した。
水俣湾が汚染されても、水俣の人は暮らしを変えることがなかった。そういう人びとの中に入って、自分を見つめていきたい。しかし、今から漁師になることは難しい。こう考えていると、患者さんのなかで魚屋さんを辞める人がいたので、その人の仕事を引き継いだ。
石牟礼道子さんから紹介された魚屋さんで、調理の仕方などの基本を修行した。お客さんは、患者さんや支援者さんの口コミで徐々に増えていった。漁師の患者さんは、魚には困っていないはずだったが、買い支えてくれた。
水俣では漁協の組合員が全盛時に約80名いたが、いまは20名ほど。魚屋は7-8名いたが、いまは中村さん1名のみだという。不知火海は全域的に漁獲量が減っているが、水俣の減り方は著しい。この主因として、約60haの干潟を埋め立てたことがあるだろう。
写真家の尾崎たまきさんは、再生された水俣のきれいな海を撮影している。海の透明度が高くなり、サンゴが増えている様子が映っている。しかし、中村さんが言うには、「豊かな海ときれいな海は違う」。プランクトンが減って、魚も減ったのかもしれない。
水俣では、最近になってカキやアオサの養殖が始まった。しかし、津奈木や芦北では、以前からブリ、タイ、トラフグなどの養殖が盛んだ。水俣で養殖がなかったのはなぜだろうか。これは、中村さんが関心を持って考えている問いである。この問いに対して、2通りの答えを用意されている。1つは、養殖するまでもないほど水俣の海が豊かだったから。もう1つは、水俣の漁業は小規模で、資本が十分に蓄積されていなかったから。
正しい答えはわからないが、水俣の漁業が衰退しているのは確かである。魚屋として、このまま座して死を待つのは避けたい。何かしたいけれど何をすればいいのかと考えている。無理を承知で言えば、一定期間、魚種にかかわらず水俣湾での漁獲を禁止にして、自然の力で海を回復させること。これが、水俣の海と魚を考え続けてきた中村さんの夢だという。
最近、中村さんが取り組んでいることは、漁師の聞き書きである。学生運動に敗れ、不知火海に魅了された若者は、年を重ねてもなお、自分を引き付けるこの海を表現するために、歩みを止めていない。
3月25日(月)夜
予定していた時刻になり、中村さんと別れ、一般社団法人水俣病を語り継ぐ会の事務所でもある吉永さんの自宅へ戻った。すでに、妻の理巳子さんが夕食の用意をされていたので、すぐに3人でテーブルを囲んだ。
理巳子さんは、漁師の祖父、チッソ社員の父を、劇症型の水俣病で亡くしている。しかし、水俣病が嫌で恥ずかしくて、40年間家族のことを話すことができなかった。それが、水俣病と向き合えるようになって、1997年から水俣病資料館の語り部として活動されている。この経験の語りは、NHK戦後史証言アーカイブスで閲覧できる。
理巳子さんは、子どもの頃に明神崎の海辺でよく遊んだ。かつては細長い岬だったが、干潟を埋め立て公園にして、水俣病資料館など諸施設が建てられた。国に土地を売るときに反対していた人たちもいたから、せっかく作った資料館は大事に活かして欲しいという気持ちを強く持っている。しかし、水俣市は患者さんに遠慮しているのか、どのように活用したいとうビジョンが見えないと言う。
理巳子さんは、患者・家族としての経験を語る「語り部」の活動のほかに、石牟礼道子さんの作品などを朗読して語り継ぐ活動もおこなっている。利夫さんは、語り部活動を補助する「伝え手」の活動や、理巳子さんとともに朗読もされている。利夫さんの仕事は、簡単に言えば、水俣で何かを学びたい人に向けて、人や場所などを案内したり、紹介したりする教育コーディネーターであろう。相思社を辞められてからは、一般社団法人環不知火プランニングを立ち上げ、この地域だからこそ学べる教育・研修プログラムを企画し、積極的に修学旅行を誘致した。もちろん、この中で水俣病の学習は重要だが、一次産業の体験、リサイクル工場の見学、農家民宿などにも力を入れて、着地型観光を開発した。現在、この仕事からは離れて、水俣の経験から何をどう学ぶのか、そのための人材育成、教材づくり、ネットワークづくりなどを中心に活動を展開されている。
この日の夕食では、このような水俣らしい話に終始したわけではなく、3人とも当事者である離婚に話が及んだ。それぞれが現在地をよしとして生きているが、それぞれ小さくない傷を負って生きている。そのことを、水俣病の患者や支援者というカテゴリーとは別次元で共有でき、人間としてのつながりを感じた
3月26日(火)
9時半、九州新幹線の高架下にある「ほたるの家」を訪ねた。この日の午前中は、谷洋一さん・由布さん親子とアポを取っていた。先にお話しをうかがったのは谷由布さんである。私が働く恵泉女学園大学のOGでもあるので、一度お目にかかりたいと願っていた。
まず、由布さんには、患者さんの憩いの場である「ほたるの家」「遠見の家」を運営するNPO法人水俣病協働センターの目的や経緯などをうかがった。胎児性・小児性の水俣病患者さんの地域生活を支援しているが、抱えている症状には違いがあり、その症状を本人が表現できない場合も多い。だから、症状を診ることは簡単ではなく、丁寧に診ることが必要である。また、これまで胎児性・小児性の患者さんは親御さんが面倒を見ることが多かったので、他者を受け入れることが難しい人も多い。
課題は、ここでも人で不足である。ヘルパーや訪問看護が入るようになっているが、水俣病について理解して支援できるスタッフは少ないという。患者さんは誰でも受け入れられるわけではなく、代えがきかない場合もある。患者さんが特定の支援者に依存的になることもある。だから、順繰りに回せない。
患者さんの健康、生活にかかわることなので、いつでも対応することが求められる。一方で、身内のようになると冷静になれないことがあり、これは患者さんにとっても良くないかもしれないという。
由布さんは、胎児性水俣病患者の坂本しのぶさんが、外で話しに出かけるときに付き添っている。しのぶさんは、講演の最後に「水俣病は終わっていない」と言う。まだ、裁判も係争中であり、被害を認められていない人も多い。そして、水俣病を「過去のこと」と思っている人は多い。だから、今もある、そうなんだと思ってもらうだけでもいい。話を聞いた人の中から、裁判の傍聴に来る人もいて、ありがたいと思うという。
由布さんも、中高生や学校の先生に向けて話すことが多い。人権や環境など、どういう言葉を使って話すと受け止められるのか、記憶に留めてもらえるのかを真摯に考えている。しのぶさんが「チッソは許せない」と言うと、周囲は「チッソも大変だった」とは言えない。しかし、由布さんは患者という立場ではない。
しかし、これまで国や企業によりもたらされた不条理を、患者さんは一方的に押し付けられてきた。その構造は、いま現在も変わっていない。そのことを伝えために、具体的な患者さんの様子を話すように心がけているという。たとえば、裁判を闘っている患者さん、感覚障害があるために熱い飲み物を飲んで喉を火傷する患者さん、目で見ないと服のボタンをとめられない患者さん。幅広い被害の実相を伝えるようにしているという。
由布さんから1時間ほどお話しをうかがった後に、お父様の谷洋一さんからお話しをうかがった。洋一さんは、NPO法人水俣病協働センター理事、水俣病被害者互助会事務局として、患者さんの在宅支援、裁判支援、水銀条約に関わる仕事などをされている。この3月は、福岡高裁2件、熊本地裁1件の裁判があり、証人尋問等の準備に追われている中、貴重なお時間をいただいた。
2004年の関西訴訟の最高裁判決では、国・県の責任が認められた。1995年の政治的解決を拒み、裁判を継続した意義は大きかった。この結果自体は良かったものの、その後は救済制度をつくるべき行政が患者さんに対して全面対決の姿勢となり、学会も巻き込んで、病像論で闘おうとしている。裁判に負けても、それは一部の例外として扱おうとしているという。
一般に、水俣では1995年の和解以降、「もやい直し」が進められたと言われるが、国・企業は「責任を取れよ」という声もある。行政と連携しながら動いている団体もあれば、外部に向けた情報発信が得意な団体もある。そのなかで谷さん親子は、患者さんに近いところで、求められる活動をおこなっている。多くの訴訟にかかわってきた経験から、司法は「体制維持の道具」であると認識しつつも、裁判支援に奔走している。
正午に辞去し、昼食後に水俣病資料館を訪ねた。副館長の草野徹也さんと熊本大学大学院生の佐藤睦さんから、この資料館の経緯、資料活用の現状や課題について、1時間ほどお話しをうかがった。その後、時間をかけて資料館を見学し、館内にある資料を閲覧していたら、思いのほか時間が経ってしまった。
日が傾くなか、乙女塚に赴いた。例年5月1日、公式確認の日に合わせて、エコパーク水俣親水緑地では水俣病犠牲者慰霊式が営まれる。一方、水俣病互助会主催の慰霊祭は、1981年に舞台俳優の砂田明さんが建てた乙女塚の前で執り行われる。今年は新天皇即位日と重なるため、慰霊式は10月に延期されることになったが、乙女塚慰霊祭は例年通りに実施するという。
水光社は、もともとチッソ水俣工場の購買部だったが、現在は水俣市内だけでなく、隣の津奈木町や熊本市にもお店を構える大きな生活協同組合となっている。ここで、夕食用のつまみを買い込み、18時頃、愛林館に沢畑亨さんを訪ねた。夕闇が迫るなか、見事な石積みの棚田や、植林した木が大きくなった様子をご案内いただいた。今回は、研修生として愛林館に宿泊したので、こうした「研修」を受けることが必要だったのだ。
3月27日(水)
前日の夜は沢畑さんと、水俣のことに限らず、音楽、スポーツ、温泉の話題で盛り上がった。そのとき勧められた岩の湯(芦北町湯浦)で朝風呂に浸かり、9時に相思社を訪ねた。
相思社では、『みな、やっとの思いで坂をのぼる』の著者・永野三智さんにお話しをうかがった。永野さんは、上着を着たまま、視線を合わせようとはせず、ぽつぽつと語る。それは、自分を外に開き過ぎないことで、内から生まれてくる言葉を、損なわないようにしているように感じられた。この言葉の使い方への繊細な心遣いが、書かれた文章によく現れている。だから、そうした語り方がごく自然に思われ、その話す姿に納得していた。
永野さんのお話しは多岐にわたったが、大事にしたい価値に重なる部分が大きいようで、何を話してもしっくりきた。娘さんの病気から永野さんが考えたことと、母の病気から私が考えたこと。洗濯には合成洗剤を用いず石けんを使う家庭で育った永野さんが、子どもの頃に考えていたことと、一年中半袖・半ズボンで過ごしていた私が考えていたこと。あるいは、自分では納得していないことにも、周りに流されて同調してしまう弱さ。その弱さをすぐには乗り越えられなくとも、自分の成長を信じた年月。もちろん、状況は違うけれども、そのときに感じるポイントに共感した。
永野さんは逃げるようにして相思社に来た。2008-12年に6,300人もの水俣病の申請を受け付けた。朝から夕方まで、お昼も食べずに話を聞いていた。特措法に基づく申請受付が終わった2012年から、訪ねて来る人の話をきちんと記録できるようになった。
以前の相思社では、患者さんの対応に非常に慎重で自由度が低かったという。だから、永野さんの仕事は、要領が悪く、生産性の低いものとみなされていた。しかし、相談に来た人から水俣病のことを「初めて話せた」と言われた。その言葉を聞いた永野さん自身、「私が救われた」。子どもの頃、水俣のことで恥ずかしい、惨めな思いをした。水俣出身であることを隠していた。そこから解放された。いまは、水俣病とかかわることを仕事にできて良かったと思っている。
本を出版したこともあり、講演を依頼されることが増えた。講演の内容は、たいてい水俣病の歴史と患者さんの現状などが半々くらいだが、最後にどう話をまとめるか考えあぐねる。先日、永野さんは講演する機会があったのだが、最後の提言が弱いと言われたという。
依頼する側とすれば、相思社たるもの、最後にビシャッとした辛口の社会批評を期待していたのだろうか。私は、期待に十分に応えられなかったことを気にしつつも、「提言は今でも言えない」と正直に話す永野さんを信頼できると思った。著書のように、リアルな経験を飾らずごまかさずに伝えることに、十分な力が備わっているはずである。
提言に代わる永野さんの願いはシンプルだ。病気であっても、その人が人として生きていけること。安心して食べものを食べることができること。この2つは、水俣病の経験から、せめてこれだけは学び、活かすべきと思われることだ。そして、これは水俣に限らず、どこでも実現すべきことである。
考証館の展示案内は、葛西伸夫さんが担当してくださった。以前来たときは、スタッフの方にご案内いただく時間的な余裕もなかったが、今回は丁寧に贅沢にも1対1でご説明いただいた。
国立民族学博物館の平井京之介さんがどこかで書いていたが、水俣では水俣市立水俣病資料館と、この水俣病歴史考証館を見比べるとよい。それぞれどういうストーリーを下敷きにして展示されているのか、いろいろと気づくことがある。また、資料館でも販売物は置いてあるが、考証館の販売コーナーは非常に充実している。応援会員になっているので、入館料が無料になったので、その分も含めて、いくつか図書・資料を購入して、帰路に就いた。