『旧約聖書』「詩篇」37篇4節~6節
37:4 主に自らをゆだねよ 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
37:5 あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい
37:6 あなたの正しさを光のように あなたのための裁きを 真昼の光のように輝かせて
私は毎年、年に1回ですが、礼拝の担当をお引き受けして、自分の経験をふりかえり、お話しする機会をいただいています。
話す内容を考えるときにいつも心がけることは、自分が学生だった頃を思い出しつつ、普段あまり話す機会のないことを、率直に話すということにしています。
学生と1対1で面談すると、将来のこと、お金のこと、友だちのこと、家族のことなど、普段いろいろと考えていることを知ることができます。
なかには、考えているものの出口が見つからず、深い悩みの淵でもがいていることもあります。
そうした辛い状況であっても、多くの学生はおくびにも見せないので、面談が終わると決まって、もっと早くに気付けなかったものだろうかと考えます。当人からすると、自分の問題だから、自分だけで何とかしようとするのでしょう。
私もそうだったので、特に家族のことで悩んでいる学生と話をすると、自分のことのように胸が苦しくなります。
10代のおよそ10年間、私は思い悩むことが多く、それを分かち合う友だちも作らず、周りには内向的に映っていたと思います。
今思うと、自分ではどうしようもないことについて、自分でどうにかしようと考えていて、八方塞がりになっていたように思います。
私の家庭では、小学5年生の時に父の会社が倒産し、その後しばらく勤めた小さな会社からはリストラされ、高校3年のときに両親は離婚しました。
会社が倒産した頃、「とーさんの会社が倒産した」というギャグを悪気もなく言うクラスメートがいたことを、冗談では無い状況だったので、今でもよく覚えています。
中学を卒業後、秋田から出てきた父は、業者向けの冷蔵庫を作る会社にずっと勤めていました。
高度経済成長期には需要が急速に高まり、会社の景気も良かったと聞きます。
しかし、その会社を一代で築き上げた社長が不慮の事故で亡くなり、引き継いだ息子が社長に就任すると急激に会社が傾き始め、多くの社員が、沈み行く船から逃げ出すように一斉に会社を辞めていったようです。
父は亡くなった社長への恩義を感じていたために残りましたが、結局、会社を畳まざるをえなくなり、最後に残った社員に退職金を支払って清算することになりました。
ところが、その残ったお金を二代目社長が持ち逃げしてしまいました。
会社が倒産したときに父が持ち帰ったのは、当時は珍しかったビデオテープレコーダー1台だけでした。
父が25年ほど働き続けた結果はこれだけかと思うと、切なかったです。
こういう家計の状態であっても、家庭内の環境が良ければ救いがあったことでしょう。
しかし、すでに小学生の中学年の頃から、父と母の関係は悪化するばかりでした。
平日は、それでも父が会社に出ているので良いのですが、両親がともに家にいる日曜日は朝からケンカが始まるので、とばっちりを受けないように、火に油を注ぐことがないようにと緊張を強いられました。
たまたま、小学4年生のとき、クラスに誰よりも勉強のできるおしゃまな転校生がやって来ました。
今の自分からは考えられないのですが、当時はその転入してきた女の子に対してライバル心を抱き、その子が中学入試に向けた勉強をしていると聞いて、塾に行って勉強したいと母にせがみました。
そして、自分の将来のことは考えず、中学受験用の勉強を始めたのです(一応断っておきますが、その子のことが好きだったということはないです)。
家族の間では私の勉強を優先させてくれました。
勉強するという時間は、家庭内の不和から目を背けることができました。
嫌いな日曜日には、朝からテストを受けに都心へ出かけていたので、電車に乗りながら、家の中で起こっているだろう両親のケンカを想像していました。
そして、修羅場から逃れていることにほっとすると同時に、家庭内の問題に向き合わない自分にも苛立っていました。
両親は、私の教育方針をめぐっても対立していました。
父は会社のこともあって、子どもにお金をかけて塾にまで行かせて勉強させなくてよいと考えていたのに対して、母は子どもが塾に行きたいと言うのだから、好きなように行かせたいと考えていました。
ただ、そればかりではなくて、母は専業主婦だったので、当時住んでいたコミュニティが周りからどのように見られているか、率直に言えば、いかに蔑まれているかを大人たちの視線から肌感覚でわかっていて、子どもが勉強できないと馬鹿にされると考えていました。
母は隣近所と親しく付き合っていましたが、現実を踏まえると私がコミュニティに埋没することの懸念を拭えなかったようで、塾に行くことに賛成したとも思われます。
実際、私が住んでいたのは二軒長屋の都営住宅で、母子家庭、貧しい家庭、障害者を抱える家庭などが多かったです。
小学校低学年の頃は、それが何を意味しているのか分かっていませんでしたが、次第に私も地域社会における位置づけに気づくようになりました。
たとえば、貧しくて同じ服をよく着ていた近所の女の子がいたのですが、同学年の男の子はほぼ全員、その家の前を通り過ぎるときに鼻をつまんで走って通り過ぎました。
また、身体的かつ知的に障害のある人のいる家の前では騒ぎ立てて、家の中からその人がぴょんぴょん跳びは生るように出てくると、わーと言って逃げ出す。家に引っ込むとまた騒ぎ立てるということを何度も繰り返していました。
低学年の時に一緒に野球などをして遊んだ3つ、4つ上のガキ大将は、公立の中学に入る頃には荒れて、いわゆる不良になっていくというコミュニティでした。
そのなかで、私も自宅のことを「ぼろ家」などと言われたことはあるものの、勉強ができたためか、いじめを受けたという経験はありません。
それは、もちろん有り難かったのですが、自分の育ったコミュニティへの裏切りのようにも感じていました。
小学6年のとき、勝手にライバル心を燃やしたその子はどこかへ引っ越していました。
張り合う相手がいなくなり、私は置き去りにされたような感じでした。
前年に父の会社が倒産したこともあり、私立中学に行ける家計状況ではないことは承知していました。
しかし、母からは「お金のことは心配しなくていい」と言われ、学校の先生など周りからの勧めもあって、私立中学を受験することにしました。
中学入試の当日、私は父にうつされたインフルエンザで高熱を出していました。それをめぐって、また両親はケンカ。勉強は、家族関係を悪化させ、コミュニティからも孤立させるのでした。
結果、第一志望には落ちて、第二志望に引っかかりました。
中学・高校の間も、両親の関係は修復せず、基本的には家庭内で口を利かない関係でした。
ただし、母が学費を稼ぐために会社勤めをするようになって忙しくなったのか、しばらくは冷戦状態だったように思います。
私は、中高一貫の男子校に通っていて、表面上はつつがなく過ごしていました。
この間、コミュニティの中で幼なじみと会っても、互いに別の世界に生きているようで、会釈をするだけで言葉を交わすことはありませんでした。
中学3年の頃、母からそれまで勤めていた会社よりも給料の良いタクシー会社で運転手として働きたいが、どう思うかと相談を受けました。
当時、女性のタクシードライバーはほとんどいなくて、その会社も初めて採用するという時期でした。
母からすると、一般的にタクシードライバーはあまり尊敬されていない職業だと思われているので、子どもが嫌がると思っていたのかもしれません。
その相談に対して私は「お袋が働きたいと思うならば、いいと思う」と言いました。
当然のことを言っただけだったのですが、後から聞くと、それは母の気持ちを後押しすることになったようです。
父がリストラされた時のことは、ほとんど覚えていません。
タクシーの運転手になるという選択は、それと関係があったのかもしれませんが、ともあれ、母は自分で稼ぐようになり、家庭内の問題を夫婦げんかで解消しなくても良くなっていったのです。
高校3年のとき、両親は離婚について話し合っていました。
父は母の交友関係について興信所を使って調べさせていると聞き、実際、母の周りに同僚の男性の影がちらつくようにもなっていました。
私は、どこかで「子はかすがい」となる役回りを演じようとしていて、倒産、リストラの上に、離婚は救われないなぁと思っていました。
しかし一方で、そうした私の願いが周りを不幸にしているようにも思われ、どうせ別れるならば、すっきりと別れて欲しいと願っていました。
私は、母に対して「離婚するのは二人の問題であって、あの人のせいではないんだね」ということを確かめた上で、ある8月の朝に父に対して「もう気持ちが離れているんだから、お袋の身辺を調べるなんてやめて、ここに判を押そうよ」と、母が書いた離婚届を示しました。
そのとき、父はただ聞いていただけでしたが、その日の夜、印鑑が押されました。そして、父は荷物をまとめて家を出て行ったのです。
しかし、その翌月には、母の同僚の男性が家に転がり込んできました。
母への不信は決定的となり、私は猛烈に後悔し、父には申し訳なかったと、しばらくは毎日泣きたい気分でした。
実際、通学途中など、急に涙があふれてきて、自分でも驚いたことがあります。
こうしたことも、誰にも話すことはありませんでした。
もちろん、1つ下の弟とは同じ屋根の下で、小学校~中高と同じルートを歩んできたので経験を共有していましたが、弟はひどく父を嫌い遠ざけていたので、家族問題についてきちんと話すことは少なかったです。
ましてや、中学高校では、ちょうどバブル期だったためか、ブランドの革靴やバッグを持つクラスメートが増えてきたりして、打ち明けようと思うことはありませんでした。
このように、10代の頃は、身の周りの関係や環境のことばかりを気にして生きていたため、自分を解放できずに鬱屈していたように思います。
その状態から抜け出すきっかけは、大学入試に失敗したことでした。
高校3年の後半は、人間不信の状態にあって、ただ悩んでいただけだったように思いますが、大学にすべて落ちて浪人することになり、このままではいけないと思い直しました。
家族のことは自分で考えても何も解決できないし、起こったことは変えることもできない。
あれもこれもと考えずに、この一年はシンプルに大学受験のために使おうと、毎日9時~夕方6時まで勉強することに決めました。
優秀な同学年は先に入学しているので、コツコツやっていれば、1つ下の学年に追い抜かれないだろうと考え、決めた時間だけは勉強することにしました。
苗字が変わったのも良かったと思います。鉛のような服を脱ぎ捨てて、生き直せると思いました。
名前は高校3年の時に変わっていたのですが、周りから詮索されたりするのもうっとうしいのでそのままで通し、浪人が決まってから切り替えました。
それでも、浪人時代はリセットしようという気持ちになっただけで、実際に自分を解放できるようになったのは、大学に入ってからです。
入学後、自分を試したいと思ったのでしょうが演劇の世界にはまり、さまざまな背景を持つ人と付き合うようになりました。
人間関係が大きく変わり、自分の悩みを打ち明ける人もできて、その段階になってようやくわかったことがありました。
それは、友だちは私の不幸を望んでいないということでした。
私が楽しく過ごしていないことを、寂しく感じる人びとが周りにいるということでした。
私は、家族関係の問題と向き合い、それを背負うことが誠実な生き方だと思い、楽しく生きることに対して後ろめたさを感じていました。
けれども、両親をはじめ周りからみれば、不満を溜めて自分だけで抱え込んでいた当時の私のことを、けっして嬉しく思っていなかったはずです。
今ふりかえれば、父には父の、母には母のそれぞれの事情、やむを得ないことがあって、そして私にもそうした事柄が重なって、倒産だとか離婚だとか不幸に見えることが起こりました。
しかし、その境遇を誰かのせいにしても、また、その責任を背負うことも、何も楽しくありませんし、誰も望んでいないことでした。
恥ずかしながら、こうしたことについて気づかされたのは、二十歳くらいになってからのことです。
次第に自分で自分を生きているという感覚が増してきて、一時は信頼できなくなった母との関係も改善し、家族それぞれに対して一人の個人として向き合えるようになりました。
一人ひとりは普通に良い人たちであり、私の悩みもまたありふれたものでした。
そのような解放は、私だけではなく弟にもあったようです。
弟は短歌を詠む歌人です。
彼が短歌で生きていくことを選んで出した第一歌集には、「結婚式」と題する一連の歌が詠まれています。
これは、「定住しない、定職を持たない、結婚しない」と宣言した弟が、結婚式を挙げたときに詠んだ歌です。
そこには、「もう夫婦ではない父と母がいて結婚式は静かに進む」から始まり、「この人の何を嫌っていたのだろう父のカメラに向けて微笑む」「かすがいになれなかった子もいつの日か父となる日を夢に見ている」などの歌が連なり、「「離婚した親を持つ子」であることも終わりと思う今日を限りに」で締めくくられます。
これを詠んだときの弟を思うと、万感が胸に迫ります。ようやく弟も解放されたのです。
彼もまた私と同様に、自分で自分の将来へとつながる道を選ぶことができて、ようやく周りのこと、これまでのことを受け入れることができたのだと思います。
クリスチャンではないのですが、最後にお祈りをさせてください。
本日は、この礼拝で自分のことをふりかえる機会をいただき、感謝いたします。
今この時点において世の中には、さまざまな事情でがんじがらめになり、自分の人生を自分のこととして生きている心地がしていない人は少なくないと思います。
そうした人たちが、特に若い人たちが、そうした状況にあっても投げやりにならずに、自分を大事にして生きてほしいと願っています。
自分を肯定できるようになったときに、ようやく周りのこと、さまざまな事情も受け入れることができると信じているからです。
しかし、そこにたどり着くには、自分の力だけでは乗り越えられないかもしれません。
そうしたときに、前を向ける希望と、信頼できる友を私たちにお与えください。
この感謝と祈りを、イエス・キリストの御名を通してお献げいたします。
(2017年7月5日、恵泉女学園大学チャペルアワー感話原稿より)