事務仕事やルーティン的な仕事をしているとすぐに飽きてしまうので、気晴らしが必要になります。
テレビでスポーツを見ることでも気晴らしになりますが、できれば良い本に出会って、新しい世界に触れたいと願っています。
だから、決まった仕事をしているときほど、本を読みたくなります。
神門善久『日本の食と農―危機の本質』
まずは、NORAっぽいところから。
神門善久『日本の食と農―危機の本質』(NTT出版、2006年)は、第28回(2006年) サントリー学芸賞・政治・経済部門を受賞した本です。
著者は農業経済学者の中では異端的な存在のようで、そのことを強く自覚されながら書かれています。
普通の専門家が言いそうなこと、すなわち、農水省やJAなどの利権に関わる団体を批判し、規制緩和を求めて企業の参入を推奨するというような議論はしません。
それは「危機の本質」ではないという考えを示しています。
最重要の問題として指摘されているのは、農地利用規制の運用についてです。つまり、地権者のエゴの問題です。
この農地の問題を正面から鋭く指摘している点に、本書の大きな価値があります。
それ以外にも、著者は聞き心地の良いさまざまな議論を批判します。
たとえば、地産地消、グリーン・ツーリズム、食育などを取り上げ、これらの矛盾点を指摘し、問題の本質に目を背けるものと捉えられています。
また、企業の農業参入についても、賛成派・反対派の議論の問題点を指摘しています(著者は、農業に長けた者に農地が集積するという市場経済のメカニズムが正常に機能することを推奨しているという点で自由主義者です)。
さらに、食の安全・安心を求める消費者に対しても厳しく、食生活を乱してきたのは消費者のエゴなのだから、その事実に向き合い、利便性追求を見直す覚悟があるのかと問うています。
このように、ほぼ全方向的に批判が展開されるので、もう少し温かい目で最近の動きを見た方が良いようにも思うのですが、それだけ危機感の強さが伝わってきます。
本書には、読んで絶望的な気分になるのではなく、本質的な対策が書かれているところにも特色があります。
まず、農地利用規制の改革のために、非農家・環境団体等を含む広範な市民参加による土地利用計画を策定すべきと主張されています。
これは、都市計画にも踏み込んだ提言であり、お任せ民主主義を批判した日本社会批判でもあります。
もう1つ興味深いと思ったことは、社会保険料に食生活を連動させよという提言です。
個人の食生活を行政が把握しなければできないので、監視社会化をすすめるもので、おそらく著者も本気ではないでしょう。
このような議論を呼ぶ対策を提案することによって、生きる上で何を食べるのかという問題は決定的に重要であること、それなのに、日本の食生活が絶望的に悪化していること、だから、逃げずに取り組むべきことを示そうとしたのだと思います。
このように大きな波紋を投げかけることで、食と農を本質的に考える機会を提供している点が本書の魅力です。
神門善久『日本農業への正しい絶望法』
同じ著者による『日本農業への正しい絶望法』(新潮新書、2012年)では、さらに絶望の度合いが深まっているように感じられます。
ここでも農地の問題や消費者のエゴについて書かれていますが、本書で特に強調されているのは耕作技能の低落です。
「まえがき」には、「いまの日本農業は、・・・よい農産物を作るという魂を失い、宣伝と演出で誤魔化すハリボテ農業になりつつある」とあります。
日本農業の強みは技能集約型農業であるはずなのに、農家の技能は回復不可能なほどに失われたと見ています。
そして、技能の低落と消費者の舌の劣化は負の連鎖関係にあり、昨今の「農業ブーム」は、その傾向に拍車をかけたと見ています(『奇跡のリンゴ』のような粗放農業は、「奇跡」が起きない限り成功しないと一蹴されています)。
本書では、今日の農業ブームとかつての満州ブームとの類似性を指摘し、問題の本質から目をそらしブームにすがっていると捉えられていますが、この論証は少し強引なように思いました。
しかしながら、全体的には肯ける点が多く、特に耕作技能の低下に対する指摘は重要だと感じました。
こうした著者による批判は、食と農について複眼的に見ていくときに有効だと思われます。
安易な農業ブームに載せられたり、載せたりしないように、この問題に関心がある場合は、一度は目を通しておくと良いでしょう。
杉山秀一『すごい畑のすごい土―無農薬・無肥料・自然栽培の生態学』
神門氏からはほぼ無視されましたが、農薬も肥料も使わずにリンゴを栽培する木村秋則氏の農園について、科学的に植物生態学の立場からアプローチしたものが、杉山秀一『すごい畑のすごい土―無農薬・無肥料・自然栽培の生態学』(幻冬社文庫、2013年)です。
『奇跡のリンゴ』の理由を、「奇跡」として受け止めるのではなく、リンゴ園の生態系がどうなっているのか、最新の研究成果を明かしています。
私も木村氏の著書を読んだことがありますが、ときどきオカルト的な方向へ話が及んでいくので、ついていけないことがあります。
それに比べると、本書はいかにも自然科学者らしい明解さと慎重さをもって説明されるので納得できます。
たとえば、木村農法の畑では、通常よりも多くの微生物が生息し、伸び放題の草にすむ多様な昆虫類が害虫の発生を抑えていました。
また、リンゴ自体の免疫機能が高くて、病気に対する耐性も強いことがわかりました(その理由については、まだ不明な点があり、仮説の域を出ていないことも多いのですが、そのことも含めて、現在の到達点を伝えている点が良いです)。
今生じている「奇跡」を、たまたま起こったことだからと軽視したり、逆に、カリスマ的に崇拝したりするのは、ともに現実を直視しないという点では共通しています。
科学的にアプローチできる点については、きちんと調査研究を進めることが地味だけれど大事なことだと、あらためて思わせてくれました。
武田徹『偽満州国論』
武田徹『偽満州国論』(中公文庫、1995年)は、神門氏の書かれた新書で満州ブームについて言及されていたから読んだというわけではありません。
武田さんとは職場で同僚なので、機会があれば読んでおこうと思っていました。
以前調べたときは、入手するのに数日かかりそうだったのでやめたのですが、先日調べたら電子書籍化されていたので、さっそく購入して、ダウンロードして読みました。
書名から、満州の歴史について書かれているのだろうと思っていましたが、少し様子が違っていました。
これは、満州という(偽)国家を題材にした国家論です。
ルポルタージュと批評を融合させながら、歴史、言語、メディア、都市計画などにも目を配りながら書かれている点がユニークです。
一方、そうした書き方と視点ゆえに、構成の全体的なまとまりは弱く感じられました。
それでも、約20年前の旧満州を旅した描写は貴重で、ぜひ一度は訪れてみたいと思わせてくれました。
本書からもわかるように、国家とは無根拠のものですが、その虚構性を批判的に論じる時代は終わっています。
虚構でありながらリアルである国家とどう付き合っていくのか、この問いに私たちは答えなければなりません。
そのような問題関心から、日本の近現代史をあらためて振り返ることはとても重要だと考えています。
なお、武田さんには、原子力/核の問題を扱った『私たちはこうして「原発大国」を選んだ―増補版「核」論』やハンセン病患者への排除のメカニズムを追った『「隔離」という病い―近代日本の医療空間』など、具体的なテーマから国家について考える作品群があります。
姜信子『今日、私は出発する』
武田さんとはアプローチの方法は似ていませんが、やはり大学の関係者で独自の視点から書き続けている姜信子さんの作品も興味深いです。
私が八重山諸島で調査研究していることから、『ナミイ!―八重山のおばあの歌物語』(岩波書店、2006年)と、『イリオモテ』(岩波書店、2009年)は読んでいました。
後者の本で、西表島にハンセン病患者を隔離しようとした計画に触れていましたが、『今日、私は出発する―ハンセン病と結び合う旅・異郷の生』(解放出版社、2011年)では、このテーマが掘り下げられています。
姜さんの作品では、旅と歌が重要なモチーフです。
たまたまハンセン病をめぐる問題と出会ったものの、人と人が作るこの世界のあり方に「これでいいのか?」と疑問を持ち、これを「切実で大切なこと」と捉えて、自分で考え抜こうと旅をします。
鹿児島、熊本、群馬、岡山のハンセン病療養所を訪ね、元患者さんと対話をします。
借り物ではない言葉で語ろうという意思の強さがストレートに伝わってきます。
誰にも真似できないスタイルがあります。それが、姜さんを作家にしているのでしょう。
自分にとって切実で大切な問題に迫り、どうにか言葉を与えようとする表現者としての生き方には刺激を受けます。
小坂井敏晶『社会心理学講義』
『偽満州国論』で国家の虚構性について触れたので、『民族という虚構』や『責任という虚構』といった著書のある小坂井敏晶氏の新刊『社会心理学講義―〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉』(筑摩選書、2013年)にも触れましょう。
本書で取り上げられる素材は、著者の他の本にも書かれている「虚構」に関する理論が中心であり、紹介される社会心理学の実験も有名なものです。
しかし、本書では、そうした理論を紹介しながらも、それを細分化された社会心理学の説明の材料とするのではなく、もっと大きな「人間とは何か」という問いに繋がっていることを指摘します。つまり、社会心理学が問うべき問いを指し示します。
生物や社会を支える根本原理は同一性と変化ですが、この2つは互いに矛盾します。
本書では、著者がこのシンプルな矛盾の解き方についてどう考え、どう格闘してきたのかをなぞりながら、一緒に考えていきます。
現在の社会心理学を痛烈に批判する書ですが、同時に、著者のこの学問への愛情を強く感じさせる書でもあります。
この分野に強い関心がなくても、自分自身について、あるいは、社会について考えたい人には価値がある本だと思います。
特に、人文・社会科学について勉強しようとして悩んでいる人には、著者の学問観に触れてみることをお勧めします。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』
残りの4冊は、facebook上での「友達」の投稿記事を見て、面白そうと思って読んでみた本です。
まずは、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011年)です。
これは、サブタイトルに「人間らしい生活とは何か?」とあるように、この普遍的な問いに対して、暇と退屈という視点から考えていくという本です。
書名からすると、奇をてらったような印象を受けるかもしれません。
ところが、暇と哲学について考えてきた哲学者や思想家は、思いのほか多くいるものです。
本書は、彼(女)らの言葉を適切に引用しながら、問題を腑分けして議論していくきわめて真っ当な哲学書です。
文体も平易ですし、論点が適切に整理されているので、気持ち良く読み進められます。
こういう本を学生の頃に読んで楽しめたら、良かっただろうなと思います。
著者は「あとがき」に、自分の悩みを考察の対象にできるようになったのは、哲学や思想を勉強したからだと思うと書いています。
本書を読むと、その意味がとてもよく分かります。
結論は、けっして目新しいものではありません。
しかし、そこに至るプロセスを著者と一緒にたどることで、自分の切実な問いに対する応え方、考え方について、視界が開けるという若い人がいるように思います。
それくらい丁寧に書かれていることから、逆に、かつての著者の悩みの深さと、それを乗り越えようとして勉強してきた後がうかがえます。
生きることがつまらない上に勉強もつまらないと思っている学生に、ぜひ読んで欲しい本です。
國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』
同じ著者の『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書、2013年)は、多少、哲学や思想に関心がないと面白くないでしょう。
私も、ドゥルーズの哲学に興味があるわけではなかったのですが、國分氏の本だからと読んでみました。
ここでも、著者の読解の深さと分析の明解さは発揮されており、丁寧な記述のお陰で読み進められました。
私は文章を書くとき、しばしば権力をどう記述したらよいのか困るので、最終章の「欲望と権力」からは教えられることが多かったです。
六車由美『驚きの介護民俗学』
六車由美『驚きの介護民俗学』(医学書院、2012年)は、予想通りに面白い本でした。
介護を要するようなお年寄りは、宮本常一風に言えば「忘れられた日本人」であり、介護現場は民俗学にとって「驚き」に満ちた魅力的なフィールドとなることを、読みやすい文体で説得力のあるかたちで示しています。
介護の分野でも、お年寄りから「傾聴」することは大事とされていますが、通常は話を聞くことが重視されており、話される内容については真摯に受け止めようとされていないようです。
著者は、その場面に介護民俗学の可能性が見いだします。
そして実際に、お年寄りから聞いた話をまとめて、『思い出の記』として関係者に渡しています。
ターミナルケアとしておこなう聞き書きに魅力を感じますし、著者が提唱する介護民俗学の可能性も伝わってきます。
私もフィールドワークの際に、しばしばお年寄りから昔の話をうかがうのですが、施設に入られているために、お話を断念することも多かったです。
断念していた先にも、豊かな聞き書きの世界があることを知れて良かったです。
永田和宏『近代秀歌』
永田和宏『近代秀歌』(岩波新書、2013年)は、弟が短歌をやっているので読んでみました。
「日本人ならせめてこれくらいは知っておいて欲しいぎりぎりの100首」を厳選し、その1つひとつに説明が加えられています。
短歌を趣味人のたしなむものと思ってしまえば、現在の生活とは関係のないものとして済ますことができます。
しかし、短歌には当時の人びとの暮らし、人生観、自然観などが含まれていますので、日本人の文化遺産として捉えることができます。
同じ景色を見たときに、昔の人はどのように感じたのだろうかということを知っている場合と知らない場合、どちらが現在を豊かに生きられるのでしょうか。
そう思うと、こうした秀歌を共有財産としようとするこうした試みは、案外と大切なことだと思われます。
恥ずかしながら、私には知らない短歌が多かったので、勉強になりました。
今後、『現代秀歌』も書かれる予定だということですので、刊行が待たれます。