5月30日(土)、勤務校で開かれた春の学園祭に合わせて、私の所属学科ではシンポジウム「地域の力×若者の力による豊かさの創造」を開催した。
シンポジウムのチラシに私は、次のように趣旨を記した。
2014年、通称「増田レポート」のなかで日本創成会議が地方消滅を唱えて以降、人口減少や自治体消滅の議論がひときわ盛んになっています。安倍政権も地方創生を重要課題と位置づけ、地方の活性化に向けた取り組みを急いでいます。
一方で近年、若者の地方回帰・田園回帰が進んでいます。2008年のリーマンショック、2011年の福島原発事故などを経て、若者たちの中には、新しいライフスタイルを地域/地方に求める人たちが増えています。
移住する若者たちにとっては、「どうすれば金が儲かるか」ではなく、「どうすれば人間らしく生きていけるか」が大切な問いです。政府が進めている地方活性化と、こうした若者たちの関心との間にはズレがあるようです。
本シンポジウムでは、こうした現代の社会状況を踏まえ、「地域/地方」と「若者」というキーワードを掛け合わせることによって、オルタナティブな「豊かさ」を創造できないのか、現場からの報告・実践をもとに考えます。
この企画は学科内で内容を検討したものであるが、実態としては、私が会いたい人、話を聞きたい人に集まっていただいたものだった。
基調講演は、新著『地域に希望あり』(岩波新書、2015年)が出たばかりの大江正章さん(出版社コモンズ代表)にお願いした。
講演題目は「地域に希望あり―農山村は消滅しない」。この副題は、今回コラムで取り上げた本書のタイトルから借用したものだった。
本書は、いわゆる「増田レポート」に対する反論として知られる。
元総務大臣の増田寛也氏を中心に作成された「増田レポート」は、段階的に公表された一連のレポートを指すが、これらは増田寛也編『地方消滅』(中公新書、2014年)にまとまっている。
このレポートのなかで、2040年の人口が10,000人以下と推計される523市町村は「消滅する市町村」として名指され、地方に大きな衝撃を与えた。
また、地方における「選択と集中」を訴えたことで、特定地域に対する撤退の勧めと捉えられることもある。
本書は、「増田レポート」の推計にかかわる問題点を指摘するほか、都市から農山村への移住傾向に対する過小評価を指摘して、反論を企てている。
「増田レポート」では2010年のデータをもとに将来人口を推計しているが、2011年の東日本大震災以降、田園回帰の動きが急増していると推測されるので、新しいデータによる修正対応が求められるという。
しかし、農山村の将来をただ楽観視しているわけではない。
農山村が空洞化していくプロセスは、人の空洞化、土地の空洞化、むらの空洞化と段階的に、折り重なるように進んでいくが、人の空洞化、土地の空洞化が進行しても、むらの空洞化に耐えて、何とか集落を維持できているところが少なくない。
農山村の集落は基本的に強靱で、強い持続性を持っている。
それでも、自然災害などによって諦観が住民の間に広がっていくと、臨界点を越えて集落機能が一気に低下してしまうことがある。
つまり、「強くて、弱い」という矛盾的統合体であるという。この見立ては、正しいだろう。
見解が分かれるのはその先である。
本書では、「増田レポート」の問題点を指摘した後で、農山村で実践されている地域づくりの優良事例や、若者世代に広がる田園回帰の実例などを紹介しながら、農山村に希望があることが述べられている。
しかし、こうした記述に対しては、本書では一部の成功例を取り上げているだけで、大枠としては集落の消滅は避けられないとみる向きもあるだろう。
いずれにせよ、地方消滅論を議論する際に、「増田レポート」とともに、読んでおくべき基本書である。
私は、農山村の集落のうち廃村となるところが、これから大きく増えるだろうと思っている。
ただし、それが自治体消滅につながるかどうかは、よくわからない。
消滅するかどうかを考える場合、そもそも、消滅とは何かという定義の問題もあるし、自治体財政の問題は別に論じられなければならないだろう。
一方で、本書が示すように、農山村ではこれからもユニークな地域づくりが展開されていくだろう。
若者世代による田園回帰の流れも、ますます強まっていくように思われる。また、地方消滅が心配されているけれど、松谷明彦『東京劣化』(PHP新書、2015年)に書かれているように、東京も今後は急速な少子高齢化に直面するだろう。
全体として高齢化が進み、人口が減少することは避けられないだろうが、それはある程度受け入れるべきであり、そんなに悲観することもないが、楽観できることでもないと思っている。
将来のことはよくわからないので、そこを詰めて考えるよりも、どういう未来を引き寄せたいかを考え、行動する方が好みである。
最近、私が教育の現場に立ちながら考えていることは、311以後の社会のあり方、人間の生き方・働き方である。
2011年3月11日までは、ほぼ同様のことを、「311以降」ではなく「21世紀=環境の世紀」と呼んでいた。
ただし、ここで誤解されないように付言すれば、「環境の世紀」における教育は、環境に配慮する人材育成を意味するものではない。
しかし、経済成長とともに、社会の格差や不公正が大きな問題となり、経済と社会のバランスが求められるようになったのと同様に、今は環境による制約や、環境とのバランスを考えざるをえない時代に生きている。
だから、経済・社会・環境のあり方を考える人材が必要があると感じている。
もちろん、高度成長期まで有効だった社会のあり方は、見直されるべきであろう。
しかし、私たちの多くは見直すべきとは考えているものの、その先をどう生きていくのか、社会がどうあるべきかを十分に考えてこなかった。
いや、考え尽くせるものでもないので、実践していく必要があるだろうが、その努力も不足していたように思われる。
実際、これまでの慣性に、あるいは惰性に委ねてきたように見えることもある。
だから、地方消滅論は、歓迎すべき警鐘かもしれない。
ただし、危機に煽られて考えることを放棄し、トップダウンで社会のあり方を急いで決めるように選択するとしたら、それはおのずと大きいものに有利な「選択と集中」を招き、小さいものに迫っている危機を現実化してしまうのではないか。
むしろ、その危機を受けて立つという心意気をもとに、人びとの内発的な力を生かせるかどうかが問われているように思われる。
それぞれの人びとに、そうした力が湧き出てくるならば、それはとても生きがいがあることだろう。
冒頭に述べたシンポジウムでは、現在、地方で活躍している3人のOGにも登壇を依頼し、現場からの実践を報告してもらった。
夫婦で岐阜県御嵩町に移住、新規就農し有機農業を営むNさん、地元・新潟県上越市の財団職員として農村体験プログラムを担当するKさん、地域おこし協力隊として島根県美郷町で直売所の経営にかかわり、現在は茨城県稲敷市で移住促進をサポートするOさん、三者三様の話だったが、それぞれ自然とともに、人のために仕事をすることが、人間らしく、生きている実感があることを語っていた。
そして、そうした働き方、生き方が、当たり前のこととしてあるべきとも伝えていた。
彼女たちの収入は多くないかもしれないし、税金や助成金等があって初めて成立している仕事では、あるかもしれない。
しかし、若者たちのなかには、真剣に人間の生き方、社会のあり方を考え、望んだ未来をたぐり寄せるために実践している人びとが存在するし、周りを見まわすと、その数は勢いをもって広がっている印象がある。
そうした若者の声に耳を傾けていると、不確実性の高い大きな政治経済の状況について議論するよりも、むしろ足もとの暮らしを味わい、小さな社会のために尽くして感謝されるように生きることの確かさが伝わってくる。
こうした若者たちの選択は、身の回りのことにしか関心が及ばず、国家や市場に都合良く振り回されることになると考える者もいるだろう。
たしかに、そういう危うさを感じることもあるが、自分でコントロールできる確かさから実践していく若者たちの動きに対して、私はおおむね共感している。
少なくとも私が付き合っている若者たちは、したたかさと、しなやかさを持ち合わせているように見えて、なかなか素敵だ。
実践よりも理論に走りがちな私は、いつも彼(女)から刺激を受けている。
特に2011年以降、そうした刺激は、なかば焦りにも似た感情を強めている。