最近、学生たちに向き合って話をしたり、話を聞いたりしていると、頭が働かない、力が出ないと思い、そうした自分を第三者的に見て、いらついてしまうことが多い。
その原因は、学生たちにあるのではない。
私自身が、どの方向を目ざして頭を使い、力を尽くせばよいのか、整理できないままに日々を過ごしているからである。
背景には、今の政治経済をめぐる状況がある。
アベノミクスと呼ばれる経済政策、東日本大震災からの復興、TPP、安保法制、2030年の望ましい電源構成(エネルギーミックス)など、現政権の舵の取り方、語る未来に対して、私はほとんど希望を見いだせない。
将来に対して、手応えのある見通しを持てないことは、現在を生きる足もとの確かさに影響を与えている。
しかし、私の気持ちがうつうつとするのは、現政権のふるまいのためだけではない。
たしかに、国会での彼らの答弁は、ほとんど説明力を持たず、人をいらだたせる。彼らが私たちの国をリーダーであることに、恥ずかしさを覚える。
ただ、このように時の政権を批判したくなることは以前にもあった。
しかし、そのときは選挙によって政権を変えればいいのだと思うことができた。
ところが、今はそのように思うことが難しい。
それだけ、民主主義を支える一人ひとりを信じきれていないのだ。
「安倍晋三だけが安倍じゃない」。
安保法案関連が採決され、私のなかに強く残った言葉である。
この言葉は、北原みのりさんが、友人の名言として紹介している(→ 「安倍的な男の人や政治家」にNO」)。
人の話を聞かない。平気でウソをつく。
弱いのに強がり、強いものにはひれ伏す。
強く言い切ることで何かを主張した気になり、反対と言う人には対案出せと言い捨てる。
こうした「安倍的な」人は、少しも珍しくないと言う。
たしかに、ネットやメディアで伝えられる人びとの言動には、このような「安倍的な」ふるまいがあふれている。
現政権に批判的な人びとの矛先は、当面は安倍総理に向かっているが、さらに深いレベルで対峙すべきは、多くの「安倍」の方であろう。
それでは、なぜ、これほど「安倍」が増え、彼らの声が大きくなっているのだろうか。
つぎの3点がポイントだろうと思う。
- この20年ほどの間に相対的に経済力が落ち、潜在的な不満が高まっていること。
- 戦後70年が経ち、戦争にはこりごりという体験した人が少なくなるとともに、敗戦国である日本が国際社会に復帰できた前提が忘れられつつあること。
- 民主党政権の失敗および「ねじれ」国会の長期化により、多数決型民主主義によって物事を決めていくスピード感を求める傾向が高まったこと。
大前研一『低欲望社会』
このうち、1. について考える際に、大前研一『低欲望社会』は参考になる。
バブル崩壊後の日本社会の特徴を、著者は「低欲望社会」と名付けた。
この分析は、基本的に正しいように思う。
特に若い人たちは、お金を掛けなくても、そこそこおしゃれで素敵に暮らせるし、そして、多様な生き方・暮らし方が認められるべきであるという考えを
持っている人が多いように思う。
かりにお金があったとしても、豪華な大邸宅に住もうとか、高価な服や装飾品を身にまとおうとか、スポーツカーを乗り回そうなどと思わず、むしろ、見栄っ張りで格好悪いと思う人が増えているように感じる。
だから、大胆な金融緩和を講じても、それを消費に回そうという人はあまり増えない。
それよりも、経済の見通しや社会保障に関する将来の不安が大きいので、お金を堅実に貯蓄に回そうという人が多いのだろう。
著者は、こうした状況に対しては、金融緩和や公共事業による20世紀型の経済政策=アベノミクスではなく、心理経済学的なアプローチを試みるべきと主張する。
そして、都心再開発、観光振興、移民受入、教育改革、国民データベースの導入などを提言している。
個人的には、著者の政策提言に対していくつか異論や疑問があるけれど、私がアベノミクスに期待が持てない理由は、本書の分析通りだと思う。
私は、低欲望社会を高欲望社会に変えることは無理があると思っており、こうした社会であることをなかば前提として、その中で幸せに暮らす方策を模索する方向で考えている。具体的には、NORAのキャッチフレーズ「里山とかかわる暮らしを」という方向で、未来の社会のあり方を考えている。
大前研一(2015)『低欲望社会―「大志なき時代」の新・国富論』小学館.
加藤典洋『戦後入門』
3. に関しては、以前の書評『民主主義の条件』(砂原庸介)で取り上げて考えた。
今日、民主主義と言えば多数決と思われがちであるが、そうした多数決型民主主義と比較されるのがコンセンサス型民主主義である。
どちらにもメリット・デメリットがあり、私はコンセンサス型を好むが、決められない政治に愛想を尽かした後に、多数決型を選ぶ気持ちは理解できる。
だから、多数決型のデメリットを経験しないと、コンセンサス型が見直されないだろうと思う。
残りの2. については、最近出た加藤典洋『戦後入門』が参考になる。
本書は、今日に至る戦後の日米関係と日本政治の歴史について、大枠を理解するには適当な本である。
内容的には、すでに知られていることが多いけれど、現代の視点から踏み込んで読み解かれ、よく整理されているので、あらためて戦後史を理解するうえで役に立つ。
著者の言葉を借りれば、戦後70年が経った今日においても、いまだに「戦後」を終わらせることができていない。
戦後問題が解決されないままだから、私たちは希望を抱くことが難しい。
現政権は、戦後レジームからの脱却を図ると言っているが、敗戦国として近隣諸国と友好的な関係を築けない限り、「戦後」は終わらない。
また、米国への従属的な関係についても、独立国として対等な関係を築けない限り、「戦後」は終わらない。
それでは、どうすれば「戦後」を終えられるのか。
本書では、戦後史をたどりながら、矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(→ 書評)を踏まえて、憲法9条の強化案が示されている。
私も基本的には同じような考えであり、憲法9条については、今の条文を死守する護憲よりは、平和主義と国際協調を基軸にして良くすべきと思っている。
今年2月のコラムでは、加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』(→ 書評)を取り上げたが、どちらも現代に生きる私たちに多くの考える材料を提供してくれる。
井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください―井上達夫の法哲学入門』
憲法9条について考える際には、井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』も参照すべきである。
まず、著者は戦争を律する正義論を4つに分類する。
- 積極的正義論=自分の信じる正義のためには武力を行使できる。
- 無差別戦争論=国益追求の手段として、外交と同様に(無差別に)戦争もできる。
- 絶対平和主義=自衛のためでも、戦争という手段は行使できない。
- 消極的正戦論=自衛のために必要不可欠な場合は戦争に訴えることはできる。
憲法9条との関係で問題になるのは、絶対平和主義と消極的正戦論であり、このうち著者は後者を支持する。
ただし、単独で自衛するのではなく、集団的な安全保障体制の方がいいと言う。
そのうえで、従来の護憲派、改憲派の言い分を鋭く批判するとともに、護憲派に親和的と見られやすいリベラリズムの立場から、良心的兵役拒否を認める徴兵制を支持している。
これは、論理としては一貫しているように思われるし、私の考え方も著者に近い。
しかし一方で、このように多くの人びとから反感を買うような結論が哲学的に導き出されるところに、リベラリズムに内在する難点があるようだ。
現実の社会との関係が、途中で切れてしまっているような感じなのだ。
著者は現実的に考えているのだけれど、現実感がなくなるのはなぜなのだろうか。
この問題は、引き続き考えていきたい。
さらに、著者は憲法9条を削除せよと主張する。
これは、安全保障の問題も、通常の政策と同じように、民主主義的に討論されるべきという考えに基づいている。
私は憲法9条が、歴史的な産物であることを重視したいので、これには反対である。
これと正反対な立場から、「憲法9条を世界遺産に」というアピールがあるけれど、特に世界史的な「遺産」という点について、私は共感している。
ただし、すでに述べたように、今の条文を死守せよという立場ではないが。
こうしたことも含めて、広くオープンに議論していかないと、私たちは「戦後」を終わらせることができない。
そして、「戦後」を終わらせられないと、低欲望社会のなかで、将来に希望を持って幸せに生きることも難しいだろう。
井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください―井上達夫の法哲学入門』(毎日新聞出版、2015年)