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『人類が永遠に続くのではないとしたら』

信頼を寄せている年上の友人が加藤典洋の本をよく読んでおり、しばしば私にも勧めてくださるのだが、これまで今ひとつ腑に落ちることがなかった。
しかし、本書は違った。
環境-社会を考える人にとって、大変示唆に富む重要な本だと感じた。

著者は、2011年の福島第一原発事故の後、現代社会について思考を深め、これまで『3.11―死に神に突き飛ばされる』『ふたつの講演――戦後思想の射程について』などを上梓してきた。
私はこれらを読んでいないが、本書はこれまでの議論を確認しつつ、著者が独自に考え続けてきた経路が示されているようだ。
本書の議論は、すっきりとわかりやすいわけではない。
あちらこちらへと向かうが、自らの問いをしっかりと握りしめ、何かにたどり着くまでは考え続けようとしてきた気迫が伝わってくる。

本書では、いくつもの思想・研究が取り上げられているけれど、特に重要な位置を与えられているのが、見田宗介『現代社会の理論』(岩波書店、1996年(→ 書評)とウルリッヒ・ベック『危険社会』(法政大学出版会、1998年である(危険社会はリスク社会と訳す方がよい)。
私も、この2冊が環境-社会の関係を踏まえて現代社会を考える際に、参照すべき重要な本であると思う。
さらに言えば、環境関連の本は巷に大量に溢れているものの、本書のように、まずはこの2冊を軸にして、今後の環境-社会のあり方を考えるべきだとも思う。

今年の1月1日に亡くなったドイツの社会学者ベックは、チェルノブイリ原発事故があった1986年にリスク社会論を唱えた。
ベックは、「リスク(risk)」とは「危険(danger)」とは異なり、ある行動や選択と相関して現れるものだと注意を促す。
私たちは、かつて「危険」と見なしてきたものを「リスク」と捉える社会に生きている。
たとえば、地球温暖化や原発問題などは、現代社会の典型的なリスクである。
また、自然災害であっても、その被害は減らせると考えられれば、危険というよりもリスクの領域に含まれる部分が大きくなる。
こうした現代的なリスクの特徴としては、いったん事故が起こると破滅的な結果をもたらすことがある一方で、これを予測することが困難であること、さらに、このリスクはグローバルに降りかかり、リスク分配をめぐって社会的な対立が生じやすいことなどを挙げることができる。

著者は、福島原発の事故を受けて、保険会社が原発の掛け金を上げるのではなく、原発の保険を請け負うこと自体を拒否したことに注目する。
そして、産業社会に内在するリスクが途方も亡く大きいことから、社会は内部からの有限性を抱えているという視点に行き着いた。
ベックは四半世紀も前に、こうした視点を得ていたのであるが、この社会の有限性という問題に対する洞察は深くない。
著者はベックが示した問題について、すなわち、社会の無限性を信じるのではなく、書名の通り「人類が永遠に続くのではないとしたら」という問いを立て、この問題を深掘りしていく。


多くの環境主義者は社会の内部ではなく外部に、有限性を規定する要因を求めてきた。
たとえば、「急速な経済成長を目指すと化石燃料が枯渇する」と警告するように、社会の外にある資源の有限性から議論を組み立てることが多かった。
しかし、そうした外部条件から社会のあり方を考えると、説教的なエコロジー論となって、魅力的な社会を構想できなくなる。

この問題に約20年前に取り組んでいたのが社会学者の見田宗介であった。
著者は、社会の有限性という問題に取り組むために、見田の現代社会論を参照する。
見田は、環境主義者と同様に外部資源の制約という条件を前提としつつ、国家が資源を公平に分配すべきという社会主義・共産主義的な方向で考えるのではなく、むしろ、それを諫め、禁じ手として封じ込んだ上で、いかにして自由な社会を構想できるのかと問い、鋭い考察を加えている。
そして、現代社会の諸問題を考える上で否定的に捉えがちだった情報化/消費化という社会の変化を肯定的に捉え、むしろ棹さすことによって課題解決を図るべきという指針を示した。

私はこうした見田の見方に刺激を受け、それ以来、現代社会の問題を考える際に、この指針をベースとしているが、これまでは抽象的にイメージするだけであった。
それに対して著者は、こうした見田の現代社会論を下敷きにしながら、リスク社会論の再解釈をもとに、有限性の社会とどう向き合うかを考え抜く。
その過程で、かつて吉本隆明の反・反原発論に説得されて、現代の産業リスクの捉え方が甘かったことを反省するなど、真摯に、そして粘り強く、考えを前進させていく。

そうした思考の果てに、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンペンを引き、「しないことができる」偶然性(contingency、偶有性とも)という概念に着目する。
さらに、「することもしないこともできる」(可誤性)なかで、あえておこなう投企は、個人に当事者性を与えるとともに、新しい意味や価値、創発性をもたらすという。
こうした見解は、見田の議論を引き継ぎつつ、著者独自の展開を示しているように思われる。
本書の序に、次のような文章がある。

普天間問題、菅降ろし、消費税、TPP、オスプレイ配備、国境問題、日韓不和、 日中対立激化、解散総選挙。次から次へと問題が百出し、それらはまたことごとく 「待ったなし」の問題と呼ばれた。
・・・<略>・・・
しかしいまの目から振り返れば、そのいずれもがどうしても当時、「待ったなし」で 解決しなければならないという問題ではなかった。

「待ったなし」という掛け声には注意が必要だ。
「待ったなし」は、本来考えるべき問題から目を逸らそうとする政府主導の「ショック・ドクトリン」か、あるいは、誰かが自分の主張を押し通すために、考える時間を与えないようにしているのかもしれない。

かりに、本当に「待ったなし」の状態であれば、自由で魅力的な社会を構想する時間など許されないだろう。
だから、私たちは、「することもしないこともできる」うちに、まだ新しい意味や価値を生みだす余裕があるうちに、社会を考え、つくっていきたい。
そしておそらく、私が環境NPOに携わっているのは、きっとそういう気持ちが働いているからなのだと思う。

ただし一方で、3.11以降、私は「待ったなし」という危機感を持っている。
人生の半分を過ぎただろうという年齢も影響しているが。
そのために、「しないことができる」偶然性に飛び込むのではなく、「しないことができない」必然性の中に生きている心持ちである。
これが、この4年近く、私がどうにも浮かない理由であろう。

加藤典洋(2014)『人類が永遠に続くのではないとしたら』新潮社.

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