1月、「まちの近くで里山をいかすシゴトづくり」をテーマに新しい活動を展開していくと宣言した。
今回は、このテーマに関連すると思われる本で、最近読んだものを3冊取り上げる。
高橋博之『だから、ぼくは農家をスターにする―「食べる通信」の挑戦』
雑誌『東北食べる通信』から始まった「食べる通信」の全国展開に関心があった。
読み始めると、まずは著者のユニークな半生に興味を惹かれた。
岩手県花巻市に生まれた著者は、高校を卒業後、大学進学のために上京。東北コンプレックスを感じながら、東京の暮らしを楽しんでいたが、代議士の秘書を務めたことを契機に政治に関心を抱き、社会を主体的につくる側にまわりたいと30歳で帰郷。
すぐに街頭演説を連日続け、観客民主主義を批判しつつ、利益誘導型から理念共鳴型の政治へという掛け声で岩手県議にトップ当選。県内各所で車座の県政報告会を開くなど精力的に政治活動をおこない、2011年には岩手県知事選に挑戦するも、落選。
自分の言葉に暮らす人の視点が欠けていたことに気づき、政界を引退し、震災後の一次産業の支援を始めたという。
ここまでも十分に面白いが、これは本書の序章に過ぎない。
震災で大きなダメージを負った一次産業を支えたい。さいわい、東北の農家や漁師の世界には、都会では得られない豊かさが残っている。だから、農家や漁師の世界を再生し、社会的地位を上げていきたいと考えた。
そこから生まれたアイデアが、食べものと情報をセットにしたメディア。食べもの付きの月刊情報誌の制作であった。
ある食を特集として取り上げ、生産者のインタビュー、レシピなどが16ページにわたりカラーで紹介する雑誌に、その生産者による自慢の一品が付録のようにして付いてくる。
購読会員には公式Facebookページで、届いた食べ物でつくった料理をシェアしたり、生産者と直接コメントを交わしたり、SNSを通じた交流を楽しむことができる。
在来野菜である小菊南瓜の生産者が種を残すのが課題だと話すと、ある読者がその言葉に反応して他の読者にも呼びかけ、食べた南瓜の種を捨てずに採っておき、洗って乾燥させてから選別し、生産者に返すことができたという。
このような生産者と読者とのいい関係を示すエピソードがあふれている。
2013年に東北から始まった「食べる通信」は、またたく間に生産者を支える読者コミュニティをつくり、2014年度グッドデザイン賞金賞にも輝いた。
合言葉は、世なおしは、食なおし。
つくる人と、食べる人とつなぎたい。
都市と地方をかき混ぜる。
こうしたシンプルな言葉をいかして情報を発信している。
購読会員を増やしても1,500名程度が限度であると判断し、この仕組み全国に展開しようと考えたところも素晴らしい。
一次産業の現場が疲弊しているのは全国共通の課題であり、日本全国各地から「ご当地食べる通信」が誕生していった。
その際に著者らが選んだのが「リーグ制」というかたち(→ 日本食べる通信リーグ)。
本部がルールを決めて現場が従うフランチャイズ方式と異なり、各地の代表者が、それぞれの「食べる通信」を独自で運営し、それらが集まって全体を運営する「リーグ制」をとっている。
リーグに加盟することで「食べる通信」の名称やwebシステムの利用、他団体とのノウハウの共有も可能だ。
さらに、「食べる通信」をつくるだけではなく、コミュニティが支援する農業=CSA(Community Supported Agriculture)にも着手し、都市と農山漁村をつなぐ新しいきっかけにしようとしている(→ 東北開墾のCSA)。
経営学者のコトラーによれば、製品中心のマーケティング1.0から、ニーズに耳を傾ける消費者志向のマーケティング2.0、世の中を良くする価値主導のマーケティング3.0へと変化してきたという。
「食べる通信」のマーケティング3.0の成功は、震災後の消費社会に、着実な変化が生まれていることを示しているように思う。
本書は、マーケティング3.0の事例としても有益だろうし、ある社会的起業家の生きざまとして読んでも面白いだろう。
とにかく、読後に何か行動をしたくなるような本だ。
一方、東京という都市の西端に住んでいる者としては、行き詰まった都市を農村が救うというトーンがやや強く感じられて、寂しく感じるところがあった。
また、都市と農村の交流を促すよりも、都市を農村化していく方向の方が、より根源的な世直しになるかもという感想を持った。
高橋博之(2015)『だから、ぼくは農家をスターにする―「食べる通信」の挑戦』CCCメディアハウス.
山崎亮『ふるさとを元気にする仕事』
「コミュニティデザイナー」の代名詞とも言える山崎亮さんの著作。
この本はちくまプリマー新書だから、10代後半から20歳くらいの若者向けに書かれたものと思われる。
著者の仕事については、有馬富士公園(兵庫県三田市)、マルヤガーデンズ(鹿児島県鹿児島市)、海士町総合振興計画(島根県海士町)など、断片的に知っていたし、書かれたものもいくつか斜め読みしたことがあった。
ある程度の予備知識があったので、過大な期待はしていなかったけれど、想像していたよりも収穫があった。
最近は大学教授となり、学生相手にコミュニティデザインについて話しているからだろうか、伝えるべきポイントがよく整理されていると思った。
まず、まちを元気にする仕事としてのコミュニティデザインは、都市計画や建築設計の専門家たちが都市をつくる(Design of Community)段階から、住民との対話を重視する市民参加のまちづくり(Design with Community)を経て、暮らしの主役である住民たちが主体となり、まちづくりに携わる仕組みをつくる(Design by Community)ように進化してきたと説明される。
そして、この最新型をコミュニティデザイン3.0として、著者たちのようなコミュニティデザイナーの役割とは、何か課題に直面している地域からの依頼に解決策を示すのではなく、住民たちが主体的に解決するためのお手伝いをすることと定義されている。
このように、著者の言うコミュニティデザインとは何かという基本的な説明がわかりやすく書かれているので、すんなりと読んでいくことができるのだが、この本の魅力は別のところにある。
それは、著者の学生時代の過ごし方や、現在の仕事の進め方について、具体的にて書かれていることである。
たとえば、留学時代、学生が自主的にお金を出し合って、50畳くらいあるアパートの一室を共同スペースとして借り、そこで図面を引いたり模型をつくったりしていた。大学周辺には、そういう場所がいくつもあって、studioと呼ばれていた。
その雰囲気が自由で良かったので、事務所の内装もそれをイメージして設計したし、著者が代表を務める会社の名称studio-Lにも影響しているという。
また、留学時代に読書する習慣が身についたことが、その後の仕事でも大きく役立ったことについてページを割いて説明しており、「本とのつき合い方」「アルバイトで失うもの」なども、自分の経験から教育論を引き出しており興味深く感じた。
さらに、計画された偶然性(Planned Happenstance)の理論は記憶に残った。
豊かな人生に満足していると応えた300人へのヒアリングから、「どうやってその未来にたどりつくことができたのか?」を調べると、圧倒的に多かった理由が「幸運な偶然」だった。その共通点を探ると、思い立ったら行動に移す、自ら人に会いに行く、新しいことに興味を持つ、そういう積極性が幸運な偶然に結びついているということだ。
コミュニティデザイナーとしての働き方としては、個人事業主を勧めている。
Studio-Lでは、収入は自分で決めるという。
かりに、1,000万円のプロジェクトを受託した場合、法人管理費20%、営業費10%、企画の立案者へ10%、家賃や光熱費など5%を収めることが決まっているだけで、残り55%は実行予算となり、使い方はリーダーが決めることになっているという。
これは、職人的な個人の集まりとして組織を捉えているからで、私もこうした考え方には共感する。
少し驚いたのは、インターンの場合、1年間は無報酬ということ。
たしかに、行政等からの受託の場合、受注額が振り込まれるのは約1年後となるから、合理的な考え方であるし、独立して仲間に入ろうというときに、最低1年分くらいの生活費は蓄えておくべきという考え方もわかる。
ただし、このような働き方は、個人として独立する自由と責任をともに理解している人でなければ、厳しい環境かもしれない。
コミュニティデザインの現場についても、いくつか触れている。
ここで大事だと思ったことは、まちづくりでは自分たちの未来は自分たちでつくるという住民の意識が不可欠だけれど、それだけでは十分ではない。意識だけでは不足していて、やはり知識が必要だと書いていることだ。
住民同士が対話するとき、前提となる情報、知識の重なりが十分でなければ、質の高いコミュニケーションはとれないだろう。
全体として見ると、著者の思いがストレートに伝わる正直な本という印象だ。
仕事に対する厳しさにもふれているが、全体として好感が持てる。
一本芯が通っているので、自分の考えとの相違を確かめながら、対話できてお勧めである。
一方で、私は著者の考えに堅さも感じた。
「つくらないデザイン」とも言われるコミュニティデザイン3.0は、しなやかで柔らかいイメージだが、まちづくりの舞台に当事者として立つことを求めるので、おのずと住民に個としての自覚を求める。もちろん、スタッフには、それ以上の水準で自律を求めるだろう。
これは、目ざす理念としては理解できるが、うまくいかないと、精神的に行き詰まるように感じる。
もっとぐだぐだで、ゆるゆるな感じがあって人間らしいなと、逃げ場があって、猥雑であって居場所だなと思う。
金丸弘美『里山産業論―「食の戦略」が六次産業を超える』
著者の金丸さんは、食・環境を軸にして、国内はもちろん海外でもユニークな事例があれば、現場を訪れて取材しているジャーナリストだ。最近は、食の総合的なプロデュースもされているらしい。
実は以前、私も金丸さんから取材を受けたことがあり(→記事)、そのときは現場をよく歩いている方だなぁという印象を抱いた。
内容はサブタイトルにあるように、「食の戦略」に焦点を当てたものである。
最近は、地域創生の文脈で、食に焦点が当てられることは多く、さまざまなメディアで地域と食を絡めた事例は紹介されている。
そうした情報と比べて、本書が優れている点は、食文化、経済、環境などを複合した地域戦略の重要性と、とりわけ人材への投資の必要性を強調している点にあるだろう。
地域の個性を食が表すことは間違いないだろうが、食が生産される地域の景観も含めて考えられている例は少ない。地産地消をうたって、生産物、加工品が売れればよいというだけでは、地域という空間との必然的な関係性が見えてこない。
著者の言うように、地域景観も含めて食を捉え、総合的な戦略のもとで地域づくりをしていくことが重要だろう。
特にグローバル化が進むなかで、ローカルの価値を高めるには、ただ安全で安心できる食をつくるというだけでは十分ではない。食が私と地域をつなぐ結節点であるからこそ、景観的にも良い地域をつくることが、良い食を育み、良い暮らし、良い社会をつくることにもつながるように思う。
もう1つ面白いと思ったことは、食に関する教育である。
本書の特徴としては、日本だけではなく、イタリア、フランスの事例も盛り込んでいるところにあるが、特に「味覚の講座」の受講レポートに発見があった。
この講座は、栄養学的な学ぶのではなく、個性を育てることが目的である。
五感をフルに使って、あらゆる角度から食を捉え、それを言葉にしていく。
私たちは、毎日食べているけれど、食を表現するための豊かな言葉を持っているだろうか。
地域づくりの核に食を据えるにしても、その食を語るための言葉を、地域に暮らす人びとが持っているのだろうか。
こう問うてみると、味覚の講座の価値が理解できる。
味覚は、思い出、健康状態、季節、宗教、年齢、教育などによって変わる。
どう味わうかに正解はないだろう。
しかし、自分がどう味わったのかを表現することは大事だ。そのためには、観察し分析する力、意見を述べる言葉が必要だ。
これは、私たちが生きる上で不可欠な食という共通基盤を通した市民教育とも言えると思った。
タイトルが「里山産業論」とやや大げさなので、本格的な産業論の展開を予想すると期待外れに感じるかもしれないが、書かれていることは、まっとうだ。
著者による本は多数あるが、この1冊は読んで損はないと思う。
金丸弘美(2015)『里山産業論―「食の戦略」が六次産業を超える』角川書店.
さて、もうすぐ震災から5年目を迎える。
原発の再稼働が進み、被災地への帰還が勧められている。
あれは1000年に1度の甚大な災いだったが、自然災害だから仕方がない。
震災以前よりも強靱な建物をつくり、力強く復興し、再び高い経済成長を目指そうとしているように見える。
一方で、ただハードを強固にすることが、震災後のあるべき社会の姿ではないと感じている人がいる。
私たちの生命は、何も咎がなくても、自然に奪われることがある。
だから、この世に生まれてきた意味にこだわりたい。
人が人を大切におもうことの美しさ、人の役に立つしごとの尊さ、地域をつくってきた人びとの真摯さに打たれる。自然とともに暮らしてきた知恵や技に打たれる。
そうしたことに、あらためて目を向けて、社会のあり方を見つめ直し、自分の暮らしやしごとを見つめ直す人びとがいる。
そのような人びとが、たしかな仕事をつくりだし、社会に影響を与えている。
私も、そうした仕事づくりに加わりたいと思う。
今回取り上げた本のなかで紹介されている事例は、ほとんど地方であり、「まちの近くで里山をいかすシゴトづくり」というテーマとぴったり重なるわけではない。
しかし、目ざす社会の姿としては、アプローチは違うにしても、似たような方向を向いているように思う。
それは心強く、気持ちを前向きにしてくれる。