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コミュニティとコミュニケーション:社会より広い世界にふれる

先日、NPO法人こまちぷらすの寄付者向けの集まりに、ゲストとしてお話する機会をいただいた。
代表の森さんやファンドレイジング担当の佐藤さんとは知り合いだったものの、今回のお誘いをいただいたときは意外に感じられた。
これまで、会合で一緒になった森さんの発言をうかがったり、事務仕事に関して佐藤さんにご相談したり、SNS等で発信される情報を受け止めたりはしていた。
しかし、素晴らしい活動をされているなぁと感心していたばかりで、自分との接点を探そうとか、関心領域の重なりを見つけようなどと考えたことがなかったからである。
現状は自団体の運営について考えるだけで精一杯であるうえに、活動分野も環境と子育てでは異なることから、別世界で活躍されている団体とみなすことで、得られる刺激や学びの道を閉ざしていたのかもしれない。

もっとも、周囲で起こっていることに敏感であろうとして、アンテナを高く立てて感度を良くしすぎると、さまざまな音が入り混じり、雑多な音に心が乱されてしまう。
このため、基本的なスタンスとしては、目の前のことに集中できる心持ちでいたいので、やや鈍感でいるようにしている。
その上で何かのきっかけやノリといった、論理的には説明し得ない出会いを大切にしたいと考えている。
今回の機会はそういう出会いだと前向きに受けとめて参加した。

自由に話して構わないということだったので、「コミュニティとコミュニケーション」というタイトルで話した。
しかし、恥ずかしいことに開会時刻を勘違いしてしまい、話す内容を整理できないまま長く話したため、森さんや参加された方々と対話する時間が少なくなってしまった。

このときは、せっかくいただいた機会を生かせなかったので、その反省を込めて話したかったことをここに記しておきたい。

私が話したかったことは、こうすればこうなるという考え方を抱いている限り、自分が欲しい未来を引き寄せることはできないだろう。社会の課題を解決するためには、現在の社会を構成するメンバーだけの力では限界があるので、社会より大きい世界にふれる必要があるだろう、ということだった。

これだけではわかりにくいだろうから、このエッセンスをNORAの活動に引きつけて文章にする機会があったので、それを引用しておく。
これは、NORAからのメッセージと団体紹介をまとめたスライド集「Find My Satoyama」に載せたものである。

NORAは街に暮らす人に向けて、里山とかかわる暮らしを提案しています。近くの森で山仕事、田畑で野良仕事、街中でも旬の恵みを味わい、自然素材を生かす手仕事の場を提供しています。
都市のライフスタイルに自然のリズムや循環の仕組みを取り入れると、世界の見え方が変わっていきます。それは、私たち人間の「社会」よりも、人も自然も含めた「世界」の方がはるかに広く大きいからです。
しかし、人びとが自然に生かされ、自然を生かして暮らしていた時代は過ぎ去りました。人と自然が共に生きていた里山は、街にはほとんど残っていません。
それでも、「社会」に生きる者として人の温かさを信じ、「世界」の中で生きる人として自然の豊かさに驚きたいと思いませんか。そう生きたいと願うならば、生命のつながりが感じられる「私の里山」をNORAと一緒に見つけましょう。
人と自然の関係が遠くなった今でも、探そうという視点を持てば、それはどこでも発見できます。そういう感性を持つ人が増えれば、この社会はもっと温かくなるし、この世界はもっと多様な人と生きものでにぎわうことでしょう。

Find My SATOYAMA(NORA*A-CON+Canva)

このようなことは普段考えていることだけれど、科学的に説明できるようなことではないので、あまり話すことはない。
活動を進めていくときの背後にある仮説のようなものだからである。
曖昧な部分が多いけれど、私が行動するときの原動力になっている部分である。
だから、人前で話すときは気恥ずかしく感じる。

それでも、こういうことを話そうと思ったのは、少し前にNPOの基盤強化をテーマにした集まりで、森さんが団体を良くしようとはしないようにしているとか、団体の中長期計画を立てたときにビジョンを絵に描いて表現したことなどをうかがって、コミュニティのあり方について、かなり深く考えていらっしゃると感じたからである。
おそらく、通常の出来合いの言葉や方法では、自分たちのありたい姿にたどり着けないとお考えなのだろう。
そうした困難に直面したとき、こまちぷらすでは、中途半端に折り合いをつけるのではなく、自分たちなりにその時点での最適なアプローチを探ろうと努めていらっしゃる。
そこに私は共感した。

私たちは、こうすれば課題を解決できるとか、このようにコミュニケーションを取れば良いコミュニティができるという魔法の杖を求めたがる。
そこで、ミッション・ビジョン・バリューを決めてみたり、3C分析やSWOT分析などをやってみたり、中長期計画を立ててみたりする。
実際、私も複雑な問題を整理するに、根源的なシンプルな問いについて考えたり、便利なフレームワークは使ったりすることはよくある。
しかし、このようなアプローチを採用するとき、何かを失うかもしれないと気をつける必要があると思う。

これは、ある程度一般化してもよい。
つまり、何かを得ようとするときには、何かを手放している。
何かを手放さないと、何かを得られない。

もちろん、手放すもの以上に得られるものが大きいから、既存の便利なツールを使うのだが、そのときに、何を失っているのかをよく考えておきたい。
そして、失ったことの痛みや悲しみを覚えておきたい。
そのような困難なプロセスをたどることが大事だと考えている。

何のために?
私の場合、それはよい仲間とよく生きるために、である。
これまで約半世紀を生きてきた自身の経験から感じているのは、痛みや悲しみの経験が私を私らしくしているし、痛みや悲しみをともに経験した仲間が、私を支えてくれているということだ。

だから、社会課題の解決を図るときに、多様なアクターがWIN-WINの領域を見いだし、それぞれの強みを生かして協働して取りかかるという方法には魅力を感じない。
それはスマートだし、合意形成論としては正しいに違いないが、論理的に当たり前のことを整理して述べているだけに思えてしまう。

私がこうした課題解決法に対して引っかかることは、これが現在の社会の中でWINできるところを持っているアクター向けの話であって、カバーできる範囲が狭いと捉えているからである。
社会におけるWIN-LOSEの関係は、時と場合によって、見方によって大きく変わる。
「社会」の中では勝ち組でも、社会を超える「世界」の中では、何一つ満足にできないということはあり得る。
だから、WINを求めるのをやめてLOSEを自分で受け入れたときに、その人の中では何かが得られることがある。
社会の常識を内面化して、自分が囚われていたことからの解放、すなわち、社会を認識する枠組みの可変性と人間的な成長の可能性について示す方がWIN-WINアプローチの説明よりもずっと面白いし、社会を変えようとするアクティビストにとっても大切なことだと考えている。

今回はこまちぷらすの寄付者向けのミーティングだったので、謝礼はお支払いできないと事前に説明を受けていた。
むしろ、このコラムに書いたようなことをあらためて考える機会をいただけたので、そのことは特に気にしていなかったのだが、
閉会後に渡したいものがあるからと自宅の住所を尋ねられ、2日後、色合いや包装から優しさが伝わる箱が届いた。
箱の中には、森さんと佐藤さんからのメッセージと、こまちぷらすオリジナル焼き菓子の詰め合わせが入っていた。
こころにくい演出である。
お菓子は盛りだくさんで入っていたので、しばらく毎日食べ続けた。
材料には米粉を使っているので、飽きが来ない味である。
こうやって味覚を通しても、ファンを獲得されているのだろう。
またしても素晴らしいなぁと感心するばかりで、刺激をいただくとともに、自分のできることに集中することが大事だと思った。

このコラムは、自分のできることの一つとして書いたものである。

よこはま里山研究所のコラム

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