里山問題を考える環境社会学の方法論――誰にとって何が問題なのか
私は、本シンポジウムのテーマ設定に強い違和感を覚えている。20~30年前に「里山」への希望と可能性が大いに期待されたものの[石井ほか編 1993; 武内ほか編 2001]、思い描いていたようにはうまくいっていないという現状分析には同意する。しかし、多摩丘陵の里山保全運動に関わってきた当事者としては、だからといって「失意」を覚えることはない。たしかに、里山の生物多様性は減少し、担い手の高齢化が進行しているが[日本自然保護協会 2025]、里山の資源や空間に関心を持つ人や団体は増えているからである。以前は、環境意識の高い人にしか響かなかった里山の魅力や可能性が、里山を「資本」と捉える視点も含め多角的に認識されるようになり、地域の自然や文化を基盤に仕事や暮らしをつくる動きが広がってきた[藻谷・NHK広島編 2013:松村 2018]。こうした近年の動向を踏まえると、私たちの団体(NORA)が掲げるキャッチフレーズ「里山とかかわる暮らしを」は、ますます必要とされているように感じる。
それでは、なぜ里山をめぐる問題の捉え方が企画者とずれてしまうのだろうか。ここで、里山問題を議論する際に、誰にとって何が問題なのかと問う重要性を指摘したい[松村・香坂 2010; 福永・松村編 2025]。問題を引き受けて考えている者にとっては、問題があることは当然であり、理想とのギャップを埋めるために試行錯誤することは想定内である。順応的ガバナンス論によれば、うまくいかないことから反省的に学ぶ姿勢や社会的な仕組みこそが、人-自然の関係をより良くしていくための鍵であるのだから、落胆する状況ではない[宮内編 2013, 2017]。
一方、企画者の「失意」という表現には、里山に期待を寄せながら自ら問題を引き受けることもなく、想定通りに事が進まない状況を見て、失望に変わった様子が伝わってくる。たしかに、里山の現状は楽観できるものではない。生物多様性の衰退に対して有効な対策を打てないまま生態系サービスが減少していけば、いずれ社会が回らなくなるという危惧はもっともなことである。複雑な相互作用が働く社会-生態システムでは、問題に気づいたときにはすでに手遅れという場合も多く、急いで対応すべきという主張は「正しい」。
しかし、複数の「正しさ」がせめぎ合う現実社会のなかで、人-自然の関係のあり方を手探りするには、自らの「正しさ」を根拠付けることよりも(その学問的な営為は尊重すべきだが)、人-自然の関係を豊かにする社会経済活動を、多様な他者と共に創造してみせることだろう。その実践が模倣したくなるものであれば、そのモデルはおのずと波及していくだろう。このような思索を経た末に、私は他者の意味世界を理解して環境問題を解決しようと試みる環境社会学的な方法論を選んできたし、「敵対性」[稲葉 2016]を失ったように見える里山保全活動に取り組んできたのである[松村2018; 福永・松村編 2025]。
文献
- 石井実・植田邦彦・重松敏則, 1993, 『里山の自然をまもる』築地書館.
- 稲葉奈々子, 2016, 「分野別研究動向〈社会運動〉―失われた敵対性と「さまよう主体」のゆくえ」『社会学評論』67(2): 238-252.
- 武内和彦・鷲谷いづみ・恒川篤史編, 2001, 『里山の環境学』東京大学出版会.
- 日本自然保護協会, 2025, 『モニタリングサイト1000里地調査 2005-2022年度とりまとめ報告書』(2025年5年19日取得, https://www.nacsj.or.jp/media/2024/10/42010/).
- 福永真弓・松村正治編, 2025, 『答えのない人と自然のあいだ―「自然保護」以後の環境社会学』新泉社.
- 松村正治, 2018, 「地域の自然とともに生きる社会づくりの当事者研究―都市近郊における里山ガバナンスの平成史」『環境社会学研究』24: 38-57.
- ――――・香坂玲, 2010, 「生物多様性・里山の研究動向から考える人間-自然系の環境社会学」『環境社会学研究』16: 179-196.
- 宮内泰介編, 2013, 『なぜ環境保全はうまくいかないのか―現場から考える「順応的ガバナンス」の可能性』新泉社.
- ――――, 2017, 『どうすれば環境保全はうまくいくのか―現場から考える「順応的ガバナンス」の進め方』新泉社.
- 藻谷浩介・NHK広島取材班, 2013,『里山資本主義―日本経済は「安心の原理」で動く』角川書店.
※2025年5月31日に明治大学生田キャンパスで開催される総合人間学会第19回大会シンポジウム「人と自然の未来―里山からの展望、失意と希望の30年をこえて」の予稿