3.11以降、当然、このコラムを書く気持ちに変化がありました。
原発事故に何も言及せずに、ただ里山に関して語ることが難しくなりました。
けれども、こうも考えます。
私は10代の頃に原発のことを考えるようになり、その後、地球環境問題へ関心が移り、そして、身近な里山の問題へと焦点を定めるようになりました。
原発と里山はまったく別の問題と見えますが、私の中では(明確に言語化できていませんが)、つながっているのです。
だから、一見遠いように感じられるけれども、自分が取り組んでいる里山というテーマについて変わらずに考えを深め、行動していくことが大事なのではないだろうか。
そこで思考を掘り下げていくことにより、原発を考えるときに、私なりの、NORAなりの視角が得られるかもしれない。
そんな風にも考えます。
いろいろと考えて頭を整理できないならば、できないなりに書いておくことにも意味があるのではないか。
そんな風に考えられるようになりました。
そこで、今回取り上げる本は、『さとやま』です。
しかし、漢字で「里山」と書かずに、あえて「さとやま」と平仮名書きしているところが特徴的です。
もう1つ特徴を挙げると、副題の「生物多様性と生態系模様」における「生態系模様」という表現です。
この2点についての私の評価は後で述べます。
そうした細かい点よりもまず、この本の著者・鷲谷いづみさんと、私がどう関わってきたのかを説明しましょう。
と言っても、私は鷲谷さんとほとんど面識がありません。
一度、エレベーターでご一緒したとき、簡単に挨拶を交わした程度なので、きっと覚えていらっしゃらないと思います。
だから、関わりと言っても、読者としての一方的な関わりです。
私が最初に鷲谷さんの書かれた本を読んだのは、『日本の帰化生物』(森本信夫と共著、保育社、1994年)でした。
これは、帰化生物の問題を理解する上で面白かったのですが、著者に対する印象はほとんどありませんでした。
しかし、今から15年前に出た『保全生態学入門』(矢原徹一と共著、文一総合出版、1996年)は私にとって衝撃的で、それ以来、鷲谷いづみという研究者を強く意識するようになりました。
『保全生態学入門』は、タイトルのとおり、保全生態学という学問分野を初学者に紹介する入門書です。
この本は、教科書としてよくできていて、わかりやすく書かれており、当時、急速に発展していたこの分野の魅力が十分に伝わってきました。
里山では、人が適度にかかわることで生態系が豊かになると言われますが、そうした内容について、保全生態学という学問で扱えるということを知り、高揚した気分になりました。
私が、もう少し生き物のことが好きで、多少詳しかったら、大学院では環境社会学ではなく、保全生態学を学んだと思います。
それくらい、保全生態学が輝いて見えました。
しかし、その後、私は社会学の視点から環境(問題)を捉えるようになると、鷲谷さんの書かれた本を読んで違和感が残るようになりました。
鷲谷さんの場合、生物多様性という視点で生態系を見ます。
評価するときに何かしらの視点を定めることは必要ですが、それを「正しい」視点としてしまっているように思われるのです。
私の場合、そうした見方が「正しい」かどうかは研究者が決めるのではなく、社会が決めると思っているので、そこに埋めがたい距離を感じます。
このように鷲谷さんとの立場の相違を感じますが、環境や生態系を捉えるときに、理系の視点が大切であることは言うまでもありません。
参考にしている理系の研究者は数人いますが、その中でも、生物多様性、里山、自然再生といったキーワードを掲げ、いつも情報を発信し続けている鷲谷さんの動きには、今でもずっと注目し、ほとんどの著作を読んできました。
私は鷲谷さんとの隔たりの理由がわかっているので、その点を意識的に括弧に入れて読めば、とても教えられることが多いのです。
鷲谷さんは、一般向けに文章を書くのがうまいので、誰にもわかるような本を多く出版されています。
『生態系を蘇らせる』(NHKブックス、2001年)、『自然再生』(中公新書、2004年)、『〈生物多様性〉入門』(岩波ブックレット、2010年)など挙げていけばきりがないほどです。どの本を読んでも、鷲谷さんの生き物に対する情熱が伝わってきます。
精力的な著述という行為からも、大きな刺激を受けます。
さて、今回取り上げた本の特徴に関してですが、岩波ジュニア新書という中高生向けの本ということもあり、これもまた読みやすく書かれています。
また、最新の里山、生物多様性に関する動向も書き込まれており、とりあえずの1冊としては、とても優れた本だと思います。
そのように総合的に評価した上で、この本を特徴づける2つの言葉についてコメントします。
タイトルに用いられた「さとやま」という言葉は「里地・里山」と呼ばれている地域を指すと書かれています。
もともと里山は、奥山に対して里に近い山という意味で用いられていましたが、それでは、田畑、草地、ため池なども含めた二次的自然の問題をトータルに扱えないことから、これらをまとめて、「里山」と表現されるようになりました。
しかし、環境省は、里山のもともとの意味にこだわり、それ以外の集落周辺にある二次的自然を里地として、「里地・里山」という言葉を普及させようとしました。
けれども、日常用語としては、この言葉が用いられることはまれで、もっぱら同じ対象を、ただ「里山(さとやま)」と呼ぶことが多いので、その実態を踏まえて、この本では「さとやま」としたのだと思います。
私が同じ対象を指そうとするならば、「里山」と書きます。
「里地・里山」「さとやま」のどれも対象は同じと言ってよいので、言葉の受け取る側のことを考えて、普通に「里山」と書くのが、もっともイメージを伝えやすいと思うからです。
逆に言うと、「里山」と書かないときにこだわったところが、受け止める側に通じないならば、あまり意味がないでしょう。
この点で、「さとやま」と記そうとする意図は理解できますが、この表現が適当かどうかはわかりません。
つぎに、「生態系模様」という用語ですが、これは、集落を中心にして、雑木林、屋敷林、竹林、田畑、草地、ため池など、多様な環境がモザイク状に散りばめられた景観を表しています。
鷲谷さんは、「パッチとしての小さな生態系を組み合わせてできるモザイク模様」と定義されていますが、これを「生態系模様」と呼ぶのが適切かどうか。私は納得できませんでした。
つまり、この本の題名、副題に込めた2つの特徴的な言葉は、あまり効果を上げていないと思いました。
もちろん、私の評価が正しいとは限りません。
「さとやま」や「生態系模様」という言葉が、人びとに広く受け入れられるかもしれません。言葉に対する感覚とは、時や場所、人によってまちまちです。
だから、仮に専門家が客観的に「正しく」定義をしようとしても、その感覚が正しいとは限らないはずなのです。
言葉が社会に流通するときには、定義した者の手から離れて、広がっていきます。
もし、言葉が意図したように伝わらないとしたら、それは、一般の人びとの考えが足らないからではありません。
言葉の意味とは、世界に書かれているのではなく、人びとの心の中にあるということを見誤ったからだと思います。
これまでうまく表せなかったことを、新しい言葉で捉えることは大切な力です。
しかし、自分だけがわかったように書かないこと。
この陥りやすい落とし穴を避けつつ、言葉にこだわり、新しい領野を切りひらくことが、求められていると思います。
私たちと自然とのあるべき関係性を指し示すために、ぴったりな表現を探し続けたいと考えています。