8/11に父が亡くなり、8/16に身内で葬儀を済ませた。
父が息を引き取った日、血圧が50台まで下がってきたので、来て欲しいと言われ、夕食後に施設に向かった。
私にはただいつも通り眠っているように見えた。
6月下旬、退院して施設に入るとすぐに植物状態となり、その後はほぼ眠っている状態が続いた。
私は見舞いに行くと、その日のニュースなどについて、1時間以上父に語っては帰宅していた。
医療特化型の施設だったが、毎日、点滴500mlを1本入れるだけで、特に何もしていなかった。
輸血もせず、酸素も吸入せず、そうした状態で生き続けることに、不思議な気持ちでいた。
8/11も、父の様子は普段とあまり変わらないと感じて帰宅した。
2時間後、施設から呼吸が止まったと電話があった。
一瞬驚いたけれど、父が亡くなることは、6月上旬に高熱を出して入院したときに覚悟したので、よく生きたよと思えた。
父の死に目には、会うことができなかった。
母や義母などは、バイタルサインのアラーム音が鳴り続ける病室で、家族がベッドの周りを囲む中で息絶えた。その瞬間は劇的で、死とはそういうものだと思い込んでいた。
父の場合は、静かな個室で深く眠る中で心臓が止まり、それを2時間おきに巡回する職員の方が見つけた。私もそんな風に、落ち着いた環境で静かに死を迎えたいと思った。
弟は、8/11のブログに、自身の歌集『について』から、父のことを詠んだ短歌を3首引いている。歌人らしい表現だ。
プロ野球の話ができる季(とき)は過ぎ短く終わる父との電話
松村正直(2025)『について』現代短歌社
中卒の父を蔑(さげす)み過ごしたるわが青年期 消えることなし
十七年ともに住みしが父に降る秋田の雪のふかさは知らず
父が亡くなってからも、私は変わりなく過ごした。
8/18にNPOの総会があったので、その準備をしていた。
死んでからよりも、生きているときの方が、悲しかった。
私も何か書こうと思ったが、思い浮かばない。
3月のコラムに、書きたいことを書いたからか。
→「生きた事実を確かなことに」
父は15~80歳まで働いた。
退職後、毎日好きな時に起きて、どこでも手にはいるバナナ、牛乳、ヨーグルト、ロールパンを飽きずに食べていた。
入院中、父は病院の食事と、当時の決まった朝食を比べながら、あの頃は楽しかったとしみじみと語った。
私は、その言葉から、それまでの父の人生を思った。
働き過ぎたね。
ゆっくり、おやすみなさい。