環境的正義の来歴

1.問題構造の把握

1.1. 「問題」の概略

 本発表で事例として取り上げるのは、西表島大富地区における農地開発問題である。まずは、この「問題」について、ごく簡単にまとめておく。

 「大富地区県営農地開発事業」(地区面積153.5ha、受益面積95.2ha、受益戸数35戸)は、自然的・社会的条件が不利な離島における農業の振興を目的として、1987年度に採択された。国有林野を農用地として開発することにより、受益農家の経営規模を1戸当たり1.6haから4.0haに拡大し、安定した農業経営を目指したのだった。

 事業は、仲間崎工区、大富東工区(以下、東工区)、大富西工区(以下、西工区)の順に段階を経て実施されることになっていた。最初に着手された仲間崎工区では、ほぼ計画通りに施工され、1992年度に完了したが、東工区では、地元農家と西表島自然史研究会(以下、研究会)など自然保護派が対立した。

 大富地区の整備計画が見直しを迫られる契機となったのは、1990年1月、研究会がコウモリ類の保護要請を県に提出したことによる。東工区の近傍にある洞窟には、カグラコウモリ(RDB絶滅危惧IB類(EN))やイリオモテコキクガシラコウモリ(RDB絶滅危惧II類(VU))といった希少コウモリ類が生息している。これらコウモリ類の生息・繁殖環境に対して、農地開発が負の影響を及ぼすと懸念されたのである。これを受けて1991年から始まった希少コウモリ類の生態調査では、沢部・低地林がこれらの生息に重要な役割を果たしていることが明らかになった。調査結果を踏まえて、沖縄県・竹富町・受益農家・自然保護団体の4者は協議を重ね(「四者協議」と呼ばれる)、1994年3月、「県営農地開発事業におけるコウモリ類生息地等の保全に関する協議書」を締結した。この中で、コウモリ類の飛行ルートおよび幼獣の採餌域を確保するために、東工区から地区面積13.7haを除外することに合意したほか、西工区では環境アセスメントの結果を待って4者で調整することが確認された。

 1995年度から96年度にかけて、学識経験者等によって構成される「大富地区環境影響調査検討委員会」(以下、検討委員会)が設けられ、西工区において環境アセスメントが実施された。この報告書では、西工区が国指定特別天然記念物であるイリオモテヤマネコ(RDB絶滅危惧IB類(EN))によって安定的に利用されている重要地域であることなどから、「最も望ましいことは現状のまま保存することである」とされた。しかし同時に、「西工区の工事計画の中止が不可能ならば、従来提示されてきた計画地を縮小することが望まれる」と述べられ、当初計画の25.8haに対して3案(専門委員会案13.0ha、土地改良区案24.0ha、検討委員会執行部案17.6ha、)が併記されるかたちで最終提言がまとめられた。

 これをもとに県は、西工区においても関係4者による協議会を開こうと試みたものの、研究会の理解が得られずに凍結状態となった。研究会は、協議する「問題」が大き過ぎて地域の小さな団体だけでは対応できないと自らを判断し、広く国内外の自然保護側の意見を集約することなど、四者協議の開催にあたっての必要条件を提示したのだが、県はそれを満足させることができなかったのである。

 この「問題」は国会でも取り上げられ、2000年3月、参議院農林水産委員会で民主党議員が、「県と地元の調整もあるが、開発をやるかやめるかという択一的な結論を得るのは難しいのではないか。国として貴重な絶滅危ぐ種、希少生物を保護する大きな観点から政府支援をまとめる必要はないか」と質したのに対し、当時の農水相は、「県が自然保護団体を含む地元関係者との話し合いを十分進めていくことが重要。国としては必要に応じて助言、支援していきたい」と述べ、地元での調整を待つ姿勢を示した(『沖縄タイムス』2000.3.15朝刊)。そして最終的には、四者協議が一度も開催されることなく、2001年3月、西工区の開発中止が決定した。

1.2. 先行研究の検討―リベラリズム対パターナリズムの視角から

 この事例に関して言及している文献は、いくつか散見される(堂本,1995; マコーミック・敷田,2000)。これらのうち、環境社会学的な関心を呼ぶのは、鬼頭秀一の「よそ者」論(鬼頭,1998)を参照しつつ、「地元」による問題解決志向の危険性を提起した越智正樹の論考である(越智,2002)。

 越智の議論は、次のようにまとめられる。研究会のメンバー3名は、いずれも本土から島に移住した人びとであり、鬼頭の言う「よそ者」であった。にもかかわらず、四者協議に参加すべき「地元」とみなされた。このため、「地元」の調整を図る四者協議のテーブルに着かなかった研究会の姿勢は、受益農家から痛烈に非難された。この点について越智は、最終的な決定を下す審級機関の不在を指摘し、結果、「地元」の関係者からなる四者協議に責任転嫁され、島民同士の間に埋めがたい溝ができたと診断する。そして、「地元」が地域環境をめぐる政策形成に関わることに対して、安易に望ましいとする一般的な傾向に疑問符を投げかけ、そうした解決志向が、無責任に「地元」の「問題」へと矮小化される危険性を指摘した。

 この議論は、「地元」の自己決定と学識経験者等による温情的な介入と比較して、どちらを尊重するのかという、リベラリズムとパターナリズムとの耳慣れた論争を想起させる。論点としては、どこで最終的な決定を下すのが望ましいのか、ということがある[1]。環境アセスメントの中で、委員会が3案併記というかたちで最終的な結論を持ち越したのは、「地元」で調整することが望ましいと判断したのか、それとも単に責任を「地元」に押しつけようという意図が働いたのか、その真意を探ることはできない。

 ところで、環境社会学の中でも、とくに鳥越皓之らに代表される生活環境主義者は、地域社会に大きな影響をもたらす政策が、しばしば「地元」の意向を無視して、突然、頭ごなしに到来し、地域の環境を破壊することを批判してきた(鳥越・嘉田編,1984; 鳥越編,1989など)。そして、こうした政策を後ろから支えているのは、普遍的に装われている近代技術主義と自然環境主義であり、これらと異なる生活環境主義という「居住者の生活の場に立つ」パースペクティブを主張した。彼(女)らは、「よそ者」的な科学知に「地元」の生活知を対立させ、後者は生活世界に「埋め込まれて」いるので、結果的に地域の環境保全に寄与してきたことを明らかにし、「地元」の自己決定を推奨している(古川,1999)。そして、「地元」に実質的な自己決定権が委譲されるように、いくつかの概念装置――たとえば、共同占有権――を用意してきた(鳥越,1997)。

 生活環境主義者たちは、琵琶湖をフィールドとして調査研究しながら、その場に押し寄せる圧倒的な力として、究極的な「よそ者」的立場による知の権力を感じ取った。これに対して越智は、西表島でフィールドワークをしながら、最終的な審級機関が不在のとき、決定責任を取る重荷を負わせる矛先が「地元」に向けられる可能性を問題提起した。つまり、一見すると両者は対立的にみえるものの、実はともに根底では、本来そこにあるべきところに当事者が欠落していることを問題視し、これに強い不快感と不満を表明しているといえる。

 本来あるべきところにそれがないという感覚は、アリストテレス的な正義を思い起こさせる。そこで、この問題をさらに掘り下げるために、環境的正義という概念について、今一度検討しておこう。そして、アメリカの環境的正義運動という文脈から少し離れて、環境的正義が潜在的に有する射程の長さを確認しておきたい。

2.環境的正義論の拡張

2.1. 環境的正義論と「よそ者」論

 環境的正義とは、1980年代に、米国のブルーカラー層や人種的マイノリティ地域において環境負荷の著しい偏在が告発され、そうした不公正を批判するものとして登場した(原口,1994)。この概念は、相対的に劣位にある人々であっても、良好な環境が享受されるべきであるという環境的正義運動と関わっており、自らの環境を決定する権利を主張するために動員される。このため、近年では、先住民運動と連動することも多い。

 環境的正義論が、1970年代に花開いた非人間中心主義的な環境思想――動物開放論、自然物の当事者適格、ディープ・エコロジーなど――と決定的に異なるのは、環境保全的であるかということよりも文化の多元性、つまり、地域住民の自己決定に重きを置いている点にある。こうした比重の置き方は、比較的閉鎖的で持続的な地域社会の場合、そこに住む人びとによる決定が自ずと環境保全的であるというケース・スタディーによって支持される。しかし、急速にグローバル化が進展している今日において、地域住民の自己決定への単純な信頼が、環境保全を帰結するとは限らないだろう。もちろん、それでも構わないという立場は取りうる[2]。いずれにせよ、環境的正義は、自己決定と環境保全の間にコンフリクトを招来する可能性を胚胎している(鬼頭,2000)。

 このアポリアの解決に向けて、希望の光を当ててみせたのが、鬼頭の「よそ者」論である。鬼頭は、「よそ者」と「地元」との間に生まれる相互交流と相互変容のダイナミズムを重視する。「地元」の自己決定を尊重しつつも、それを固定的に捉えるのではなく、「よそ者」との交流の中で変化するところに着目し、「地元/よそ者」という対立図式を解体しようとするのだ。そして、メタレベルで普遍的な視点から「評価」する可能性を追究している。

地域文化を重視し、文化相対主義に基づいた形で考えていこうとしたときに、それが「草の根ファシズム」に陥ったり、地域で決めることが何でも正当化されることになる可能性はないだろうか。その問題を回避するためには、何らかの普遍的視点が必要ではないだろうか。(鬼頭,1998: 54)

 しかし、このようにして二項対立を解消することは、「問題」を分析する可能性を広げるだろうが、「問題」を解決する方向性を指し示していないように思われる[3]。ならば、いったい、どのようにして「問題」に迫ることが有効なのだろうか。

2.2. 環境的正義の分析方法としての環境史研究

 嘉田由紀子ら生活環境主義者たちは、環境問題の文脈依存性に早くから自覚的であり、生活者の視点へと接近する方法として環境史研究を高く評価している(鳥越・嘉田編,1984; 嘉田,1995)。フィールドワーカーならば、生活環境主義という立場に立つかどうかはさておき、当然に検討すべき研究方法だと思われる。ここでは、環境的正義を分析する方法として環境史研究を位置づけてみたい。

 環境的正義は、米国における社会運動との関わりの中で誕生したため、この使用範域として、社会的弱者への不平等な環境的負荷の蓄積に対し、異議申し立てるケースを想定しがちである。しかしながら、環境的正義論は、弱者=被害者という構図が明確に観察できる事例だけでなく、遠くから見ると、弱者=加害者とみなされる場合にも適用できるはずだ。

 私たちは、どこかで自然からの恵みを得ることによって生活している。このため、現在もどこかで誰かが、自然と直接的に物理的に接触している。場所によっては、自然を持続的に利用していることもあるだろうが、今日の地球的な人口とエネルギー消費の増大を支えるためには、どこかで誰かが自然を破壊している。この系として、こうした世界の中には、自然環境に負の影響を及ぼす加害者の存在が導出される。そして、このような現代社会の限界は、「遠隔化/不可視化の機制」(見田,1996)によって転移される[4]

 近代化された地域で生活する人びとは、はるか遠くで自然環境を破壊しながら生活する人びとと共存している。以下では、この事実をリアルに受け止めるために、西表島大富地区の環境史を明らかにすることで、加害者として矢面に立たされる社会的弱者に対して、環境的正義という観点からどのような方策を講じることがふさわしいのかを検討する。

3.西表島大富地区の環境史

3.1.戦後開拓の歴史

 西表島は石垣島とともに、マラリアの猖獗と道路の未整備ゆえに未耕作地が多かったため、戦後の八重山開拓の拠点となった。敗戦後、海外からの引き揚げにより人口が急増して食糧不足に陥ったうえに、米軍による接収によって土地を追われ、困窮にあえいでいた沖縄の人びとにとって、未開の地として西表島は魅惑的に映ったことだろう。そこで、1952年に創立した琉球政府は、本格的な開拓移住計画を樹立し、計画移民の第1号として大富地区での開拓が始まった。

 8月13日に大宜味村から32戸、20日に竹富町から20戸(波照間島10戸、竹富島8戸、黒島2戸)、25日に久米島から8戸が入植した。竹富島からは農家の次男・三男を中心に定員を大幅に超える希望者があったが、口頭試問の結果、8名とその家族が選抜された。OYさん(1914年生まれ、男性)は、そのうちの1人である。

 OYさんは尋常小学校を卒業するとすぐに、台湾へ出稼ぎに行った。男性は店番、女性は女中として台湾へ行くのが竹富島では普通だった。当時の台北は、東京、大阪、京都、名古屋、福岡と並んで、日本の6大都市の1つだった。台湾に渡ってからは、まず徳島県出身の人が経営する洋品店で働き、次に台湾総督府の病院で働いた。

 その後、戦時色が濃くなり、OYさんは徴兵検査を受けることになった。身長が低いことから不採用となり、いったんは竹富島へ戻ったが、1938年、サトウキビ栽培のためにサイパン島へ行くことにした。その頃は、多くの沖縄県出身者が、サトウキビ栽培を目的として南洋へ出稼ぎに行っていた。

 サイパンでは、製糖工場で働きながらサトウキビ作りに励んでいた。しかし、その後、日本軍に飛行場建設のため招集され、戦争末期には戦争に巻き込まれていった。結局、米軍の捕虜となって2年間抑留され、1946年に竹富島に戻ってきた。

 久しぶりに帰島したOYさんではあったが、狭い土地に大量の引揚者を抱えた終戦直後の竹富島では、慢性的な食糧不足に悩ませられた。このため、開拓できれば満足に農業を営める可能性を秘めた西表島は、大きな魅力ある土地として感じられたようだ。OYさんが入植を希望したとき、西表島がマラリアの有病地だったので、親戚は口をそろえて反対したが、その反対を押し切って移住したという。

 1952年8月に大富地区で開拓を始めたのは、移民家族の中の成人男性で、彼らは先遣隊と呼ばれた。入植当時の大富地区には樹木が密生していたので、まずは仲間川を挟んで反対側にある大原地区に住み、毎日、米軍の燃料用補助タンクを2つに割った船で川を渡り、密林を伐開していった。工具は鋸、斧、鍬などしかなく、人力に頼る重労働であり、太い切株は周りから枝を集めて燃焼させた。こうした伐採・開墾・整地は、出身地別に、大宜味班、地元班、久米島班の3班に分かれておこなわれた。

 開拓を成功させる一つの鍵が、マラリアの撲滅だった。月1回の頻度で開拓者全員の採血、およびマラリア予防薬のキニーネ、アテプリンの面前服薬が課せられた。また、マラリアを媒介するハマダラカを根絶するため、水たまりには石油が撒かれるなど徹底的な対策が講じられた。

 開拓がすすむと、入植者へ土地が配分された。各自、開拓地の周囲から木を伐り、それを材料として家を建てていった。最初は、壁、屋根ともにカヤで葺いた。簡素な家を建てると、本格的に農作業にとりかかった。まず、当面の食糧を得るために、サツマイモの栽培から始めた。その年の12月から翌年1月にかけて、各班の家族が到着し、5月からは換金作物としてバナナと落花生の栽培を始めた(大富開拓史編集委員会編,1992)。しかし、バナナは台風で、落花生はイノシシによる被害で全滅してしまった。陸稲も植えたが、伸びすぎて実は少なかったうえに、台風に追い打ちをかけられた。安定した収入源は、伐採した木を薪にして、石垣島で売ることだった。

 いくつもの失敗はあったが、換金作物としてパイナップル栽培が1954年から始まり、また水田を開いて稲作を始める人も現れてきた。それに呼応するように、1954年に精米所が、1957年にはパイン加工工場が大富地区に完成した。パイン工場には男女の社員寮があり、女子寮には台湾からの労働者が多かったという。サトウキビも1959年から栽培が開始され、1961年に大原で製糖工場が設立された。この頃は、パイン加工業と製糖業が基幹産業だった。

 ところが、パイナップルは農産物の自由化にともなって価格が下落したうえに、台風による影響で青果が腐敗する年があったことなどから、パイン工場は1967年に操業停止となった。また、本土復帰の前年1971年には、長期干ばつと大型台風による未曾有のダブル・パンチがあり、サトウキビは枯れ、製糖工場も一時閉鎖された。すでに台風によって精米所は潰れ、パイン工場も廃止となっていた大富地区では、サトウキビ栽培に頼るほかなかったので、住民が団結して製糖工場を立て直し、その後、サトウキビのモノカルチャー化を推し進め、現在ではこれと肉用牛の飼育が生業の中心となっている。

3.2.大富地区のマイクロな社会集団

 現在、大富地区に居住する人びとは、大別すると、開拓民とそれ以外の住民に分けられる。しかし、開拓民といっても、一括りにはできない。開拓民は、まず一次移民と二次移民とに分けることができ、さらに一次移民は出身地別に、大宜味班、地元(竹富町)班、久米島班に分けられる。ここでは、大富地区のマイクロな社会集団をみてゆくことにする。

 入植したとき、大宜味班の人びとは、地元班と久米島班が来島することをまったく聞いていなかった。入植3日目に初めて、町長と琉球政府から、まず竹富町出身者20戸の参加入植を懇願された。32戸で開拓団を編成してきた大宜味村出身者は、1戸当たり3町歩の土地を配分されるように政府と約束してあったので、予定外の20戸が参加したら土地がおよそ半減すると反発した。それでも、町長の強い要望があって地元班が加わり、さらには久米島班も参加することになった。財産を売り払って来た大宜味村出身者の中には、「話が違う。これでは引き合わない」と言って、入植まもなく石垣島北部に移住した人もいた。

 現在、一次開拓民またはその家族が大富地区に残っている割合をとってみると、大きな違いが認められる。地元班は誰も出て行かなかったのに対して、大宜味班は4分の1ほど、久米島班は2戸しか残ってない。当初、地理的に近い地元班の中から多くの退団・引揚者が発生すると予想されていたが、逆の結果となった。

 大宜味村出身者では、1971年のダブル・パンチのときに引っ越した人が多かった。最初は、出稼ぎのつもりで夫だけが沖縄本島に渡ったが、翌年に本土復帰を控え、さらに1975年の国際海洋博覧会開催に向けて公共工事が多かったので、しばらくして妻子を呼び寄せるというパターンが典型例だった。そもそも、大宜味村出身者は、本島にきょうだいや親戚がいる場合が多かったため、帰島しても頼れる場所に不自由しなかったようだ。また、大富地区に移民してきた久米島出身者は、もともと沖縄本島出身者であったことから、大宜味村出身者と同様、本島に落ち着ける場所があったという。他方、竹富町出身者が帰島しなかったのは、仮にそうしたとしても、島では農業しか産業がなく、土地を得られる可能性は乏しいので、安定した生活を営めるという確証がなかったからだという。

 出身地別に退団・引揚者の割合が異なることは、意外なところに影響が及んでいる。土地所有者が大富地区からいなくなったとき、基本的には、同郷から出てきた人に譲られる。このため、退団・引揚者を出していない竹富町出身者は、1戸当たりの土地面積が相対的に狭いのである。しかも、同じ西表島東部にある大原や豊原といった開拓村は、大富よりも平均経営耕地面積が広いので、近隣集落と比較したときには、ますます土地の狭さを感じるようだ。このようなこともあって、農地開発事業をすすめるうえで組織化した土地改良組合では、竹富町出身者が農地の拡張を強く希望したのだった。

 二次移民についても、触れておかねばならない。1954年、琉球政府が仲間川河口近くにある肥沃なヤッサ島という三角州への開拓移民を募集した。45戸の応募があったが、隣接する大原地区の住民から反対されたので、ヤッサ島への入植が中止となった。しかし、すでに家をたたんで石垣島へ来た人もあったので、新たに10戸が追加入植した。すでに耕地として適した土地は、一次移民に配分されていたため、ムンバナリと呼ばれる斜面地が与えられた。STさん(1933年生まれ、女性)は、この二次移民の1人である。

 沖縄本島首里出身のSTさんは、沖縄戦で戦災孤児となった。同じく戦争で家族を失った夫とともに嘉手納に住んでいたとき、たまたま大富開拓団長の娘婿と隣近所だった。これが縁で、「西も東も分からず、連れてこられた」という。

 開拓のために石垣島まで来たものの、ヤッサ島への入植が叶わず、大富へ行くことになった。到着翌日から食糧に困り、他人が掘り起こしたサツマイモ畑から、残ったイモを取るなどしてしのいだ。こうした窮状にたまらず、入植後2ヶ月で引き揚げる人もあったようだ。

 配分されたムンバナリを開拓して、パイナップルを植えても、イノシシの食害に遭った。イノシシと競争して急いで収穫する必要があった。畑でとったパイナップルは、まず背負い籠に入れて木製そりまで運び、これをスイギュウに引かせて広い道に出し、それから牛車で工場まで引かせた。引き揚げた人の畑を借りて畑を拡げても、二次移民に与えられた土地は狭かった。農業収入を補うために、しばしば薪を伐って、石垣島で物々交換した。STさんは、「3年は、帰りたくて泣きました」と語る。

 二次移民10戸のうち、現在も島に残っているのは3戸である。

4.環境的正義にかなう問題解決へ

4.1.環境史から見えてくるもの

 終戦後に移住した開拓民にとって、西表島は広い土地を獲得できる魅力的な土地として映った。しかし実際には、政府からの支援が不十分だったので、入植以前に予想していたよりもはるかに厳しい開拓となった[5]。過酷な環境に耐えて労働したためか、開拓民には若くして亡くなる人が少なくなかった。多くの退団・引揚者を出しながらも密林を開拓した結果、開拓民は自分の土地を得ることができた。こうした若かかりし頃からの、あるいは親の代からの土地をめぐる努力を無駄にしないためにも、大富地区の農家はその場所にこだわっている。とりわけ、OYさんなど竹富町出身者は、故郷の島に戻っても土地が限られて農業を営むことが困難なので、大富で農業を続けたいという気持ちが強いようだ。大富の開拓民にとって、農業を継続的に行なうことは、個人のアイデンティティを確保するためにも、きわめて重要なことのように思われる。

 STさんら二次移民に配分されたムンバナリとは、農地開発される予定だった西工区と重なる。パイナップル栽培のために利用されていたムンバナリは、パイン工場の閉鎖に伴って放棄され、現在では、往時の景観を想像できないほど植生が回復している。そして、かつては僅かな現金収入を得るために涙をこぼしながら伐り開いたムンバナリは、容易に農地開発できるようになったときには、イリオモテヤマネコに象徴される希少野生動植物種が生息・生育する重要な空間として保存されることになった。

 こうした大富地区の環境史の中に身を置き、その視点から「環境」を捉えてみると、それは農業を営むために可能ならば開発したい場所であり、また、希少野生動植物を育む周辺の山林や湿地などは、耕地の拡大を阻む障害となっていることが分かる。さらに、西工区については、かつては二次移民に配分され、苦い記憶とともにある場所であることにも気付く。こうした「環境」への認識を踏まえると、目の前に大規模な農地開発事業が選択肢として現れたときに、これを選ぶという理由も理解できよう。

 ならば、私たちは、この「問題」をどのように考えればよいのだろうか。どのような「問題」の越え方があるのだろうか。

4.2.土地をめぐる政治が始まる前に

 リベラリズム対パターナリズムとして、土地をめぐるゼロサム・ゲームという「問題」が顕現してしまうと、「地元」にせよ「よそ者」にせよ、どちらかが痛みを覚えることになる。そして、この論争がやまないことからして、「問題」は政治的に決着されざるをえないのではないだろうか。たしかに、政治的な決着の付け方について、議論することは可能であるし必要でもある[6]。しかし、こうした「問題」の分析から豊かな含意を得ようとするならば、検討すべきことは「問題」以後ではなく、「問題」以前に何を準備できるかどうかではないだろうか。

 大富土地改良区の人びとは、農地拡大に伴う年収アップの期待値を次のように計算する。すなわち、基幹産業であるサトウキビ栽培の場合、2年に1度植える夏植が主体なので、反収の平均を8tとすると、1t当たり約2万円で買い取られることから、2haの耕地に対して約160万円の収入増を期待する。一方、しばしば指摘されることであるが、農地開発事業は地域性の違いを考慮せずに標準化された設計基準や工法が採用されるため、赤土流出をはじめとした自然破壊が沖縄県内の各所で生じている(家中,1998)。農業収入を耕地面積に比例させて機械的に出力し、さらに自然破壊型の事業しか選択できないとすれば、農業経営を安定化させたい農家にとっては、自然環境に対して加害者となるという「構造化された選択肢」(舩橋,1995)しか選ぶところがないのだ[7]

 したがって、「問題」以前に用意しておくべきことは、こうした貧しい選択肢を豊潤化することだろう。このとき、「地元」の「環境」観を踏まえることは言うまでもない。大富地区の環境史を繙いた後では、西工区の環境アセスメントの提言としてエコ・ミュージアム構想が廃案となった理由も納得できる。

 西工区の工事中止が決定し、県はその代替事業として、土地改良区からの要望を聞きつつ、営農雑用水の整備、猪垣の整備、果樹・野菜の試験栽培など、多面的な営農支援を検討するようになった。いわば、「問題」以後に選択肢が豊かになったのだ。環境的正義にかなうためには、このような自由の広げ方を、「問題」以前に検討しておくことが重要となる。これによって、社会的弱者が「構造化された選択肢」に巻き込まれ、自然を破壊する加害者として現れることを回避できる可能性は高まるに違いない。

文献

  • 堂本暁子,1995,『生物多様性――生命の豊かさを育むもの』岩波書店.
  • 舩橋晴俊,1995,「環境問題への社会学的視座――『社会的ジレンマ論』と『社会制御システム論』」『環境社会学研究』1: 5-20.
  • 古川彰,1999,「環境の社会史研究の視点と方法―生活環境主義という方法」舩橋晴俊・古川彰編『環境社会学入門――環境問題研究の理論と技法』文化書房博文社: 125-152.
  • 原口弥生,1999,「環境正義運動における住民参加政策の可能性と限界」『環境社会学研究』5: 91-103.
  • 嘉田由紀子,1995,『生活世界の環境学――琵琶湖からのメッセージ』農山漁村文化協会.
  • 金城朝夫,1988,『ドキュメント 八重山開拓移民』あ~まん企画.
  • 鬼頭秀一,1998,「環境運動/環境理念研究における『よそ者』論の射程──諫早湾と奄美大島の『自然の権利』訴訟の事例を中心に」『環境社会学研究』4: 44-59.
  • 鬼頭秀一,2000,「環境(的)正義論」『アジア・太平洋の環境・開発・文化』1: 36-42.
  • ガバン=マコーミック・敷田麻実,2000,「自然環境の保存と開発のジレンマ」宮本憲一・佐々木雅幸編『沖縄21世紀への挑戦』岩波書店.
  • 松村和則,1999,「山村再生と環境保全運動――『自由文化空間』と『よそ者』の交錯」『環境社会学研究』5: 21-38.
  • 見田宗介,1996,『現代社会の理論――情報化・消費化社会の現在と未来』岩波書店.
  • 越智正樹,2002,「西表島における農地開発問題―「地元」概念を中心に―」環境社会学会関西支部研究例会資料.
  • 戸田清,1994,『環境的公正を求めて――環境破壊の構造とエリート主義』新曜社.
  • 大野晃,1983,「西表島における環境問題と農業・農民」『高知論叢』18: 239-278.
  • 大富開拓史編集委員会,1992,『開拓四十年史』大富開拓団.
  • 鳥越皓之,1997,『環境社会学の理論と方法――生活環境主義の立場から』有斐閣.
  • 鳥越皓之編,1989,『環境問題の社会論――生活環境主義の立場から』御茶の水書房.
  • 鳥越皓之・嘉田由紀子編,1984,『水と人の環境史――琵琶湖報告書』御茶の水書房.
  • 家中茂,1998,「沖縄における土地改良事業にともなう赤土流出――石垣島宮良川土地改良事業を事例に」『環境社会学研究』4: 235-242.

[1] 総事業費は24億円余りで、国80%、県15%、土地改良区(受益農家35戸)5%が負担する県営事業において、どのような意思決定の方法が最適なのだろうかという問いを立てれば、近年の公共事業見直し論へと接続することも可能である。

[2] 環境の中心には、それを環境と認識する主体がある。その主体にとって、何が「環境」の「問題」であるのかは個別的である。したがって、「環境保全」が意味するところも多様であるだろう。

[3] 松村和則(1999)は、鬼頭の「よそ者」論に対し、方法論的客観主義に固執するがゆえに『生活』の論理に迫るという現代的課題を捉えきれないと考える」と批判している。

[4] 戸田清(1994)は、「豊かなものが破壊し、貧しいものが被害をこうむる」構図の淵源として「エリート主義」を批判し、参加民主主義を通じて、環境問題と南北問題の解決に向けた道筋を示した。

[5] 開拓移民は、国有地が無償で譲渡されるものだと思っていたのに、一部有償で払い下げされた。また、ブルドーザーは道路を開くために利用されただけで、個人の開墾にはほとんど使えなかった。入植後の納税免除も、石垣島では市民税が免除されたのに、西表島ではそのような措置がとられなかった(金城,1988; 大富開拓史編集委員会編,1992)。

[6] 原口弥生(1999)は、「住民参加」政策がマイノリティー住民など社会的弱者にとって効力をもつことなく、環境的不公正が生まれたことを明らかにした。

[7] 大野晃は、「土地の拡大化が“高所得”につながるという発想から、安易に山林原野の農業開発をすすめるのではなく、島の既耕地及び耕作放棄地の範囲内で基盤整備を進め、土地生産性を高める集約的農業、農法の確立を急がなければなるまい」(大野,1983: 266)と適切に述べている。

松村正治 「環境的正義の来歴―西表島大富地区における農地開発問題をめぐって」, 第26回環境社会学会セミナー(明治学院大学), 2002年10月27日.


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