西表島の中央部に稲葉という小さな集落があった。
浦内川中流域の沿岸に位置していたが、一九七〇年頃に廃村となった。
稲葉は水田に恵まれていたので、集落に住む人びとの暮らしは豊かだったと記憶されている。
しかし、稲葉について書かれた記録は非常に少ない。このままでは、稲葉集落が存在したことさえ忘れ去られてしまう。
そうした思いから、旧稲葉集落の聞き書きが始まった。
稲葉の歴史
石炭事業
最初に稲葉で起こった産業は、石炭事業であった。浦内川周辺には、大正~昭和初期にかけて、上流部に浦内坑、中流部に稲葉坑、河口部に浦田坑、そして、支流の宇多良川沿いに宇多良坑があった。稲葉坑については、共立炭坑という会社が白浜に事務所を置きながら、採炭をおこなっていた。しかし、マラリアのために中止となり、新たに崎山で採掘するようになった。これ以上のことがわかる資料は乏しく、おそらく短期間で廃坑となったものと思われる。
宇多良坑は、一九三〇代に隆盛を極めた炭鉱として有名である。坑主の野田小一郎は、もともと高崎炭鉱と称し仲良川沿いで採掘していたが、一九三三(昭和八)年に丸三合名会社と改称して浦内川へと進出した。そして、丸三炭鉱宇多良鉱業所を開設し、坑夫納屋、小学校、劇場、病院なども建設して、密林の中に炭坑村を作った。一九三五年には宇多良に大炭山が発見され、丸三炭鉱は西表一の石炭産出量を誇ることになり、一九三七年の統計によれば、年間出炭高が四~五万トンに達した。これは、当時の那覇市場時価で百二十万円で、県内生産物総額の五十二分の一に相当する収益を上げていた。しかし、一九四〇年代に入り大量の坑夫が招集され、船舶も徴用されるようになると、西表島の採炭事業は全面的に中止となった。
官行斫伐(しゃくばつ)事業
石炭事業の次に稲葉に持ち込まれたのは、国営の林業・製材業(官行斫伐事業)であった。
西表島の国有林は、二万ヘクタール以上の広大な面積が保護管理されていたが、林業等の事業が営まれていなかったので「宝の持ち腐れ」とも言われていた。戦時色も濃くなった一九三六年五月、この「南島の宝庫」の扉を開くために、熊本営林局沖縄営林署と県林務課によって探検調査がおこなわれた。その結果、二十年間の計画で斫伐・造林事業を実施することになり、まずは浦内川沿岸で官行斫伐事業を開始して、砂糖樽用の榑板、抗木、枕木等を生産することになった。
一九三八年九月、稲葉に西表島斫伐所を設置するため、主任として中原親夫氏が赴任し、林道・貯木場の新設、事務所・事業所・職員宿舎の建築、製材機の据付が始まった。しかし、事業の開始直後は、祖内・干立といった地元集落から人員を確保することに相当苦労したようだ。その頃、地元には百五十戸程度あり、三十名の労働力を期待していたが、十名すら集めることもできなかった。中原氏は、この官行斫伐事業が海外からの木材輸入を防ぐために、国策上重要な事業であると地元に説いて回ったほか、仕事を請け負わせるかたちにして勤労意欲を高めた。すると、次第に収入の良い仕事であると知られるようになり、年の暮れまでには六十名以上の人員を集めることができた。
翌一九三九年には、祖内に八重山営林署が設置され、本格的に官行斫伐事業が始まった。稲葉に設置された製材所は、海外からの輸入燃料に頼らず、鋸屑と木片を燃料として五十馬力の動力を得ていた。五月の時点で、木材を運搬するための軌道は千メートル以上敷設されており、さらに千五百メートル延長するほか、ケーブルによる空中輸送の計画まであったようだ。
また、四月には地元の西表小学校高等科卒業生から林業訓練生を集め、三年で一人前の林業技術員になるように育成し始めた。浦内川流域だけでも国有林が四千ヘクタールあるので、毎年百ヘクタールずつ伐採すると四十年かかる計算で、あわせて造林事業もおこなえば、「西表国有林は実に無尽蔵である」と当時は考えられていた。この長期にわたる大事業を見越して、斫伐事業を円滑に進めていくだけでなく、西表島の山林資源開発を担う人物を養成するために募集したのであった。
稲葉大洪水
大きな期待とともに始まった官行斫伐事業であったが、一九四四年十一月十一日、稲葉は大洪水に見舞われ、多数の死傷者を出すとともに、それまでに築き上げた施設等はすべて流出した。この災害により、製材所は操業できなくなり、あっけなく短い歴史を閉じた。
この大洪水を記録した資料は乏しいが、被災者の一人、吉原喜久子さんの聞き書きが残されている。
一九四二年、吉原さんは二六歳の時に稲葉へやって来た。沖縄本島から会社の命令で西表島に来たのだが、戦争の影響で事業が中止となってしまった。そこで、確実に現金収入が得られる製材の仕事を紹介してもらったのだ。
稲葉大洪水の時は、六世帯が住んでいた合同宿舎が濁流に飲まれた。建物の基礎が崩れ、増水した川に押し流された。荒れ狂う川の中、なすがままの状態で、二八名が同じ一つの建物にしがみついていた。すると、二股に分かれたカシの大木が奇跡的にその建物をとらえた。大急ぎで、全員そのカシへと渡り、九死に一生を得た。水が引き始めたのは、翌日の朝九時頃であった。
被災直後は、しばらく食糧が配給されていたが、すぐに途絶えてしまった。小さな仮小屋に住みながら、自力で生活を始めなければならなかった。
おもな食料はアダンの葉だった。それに、竹で作った籠でエビやメダカを捕り、空き缶に入れて煮込んだ。アダンの葉の芯をゆがいて子どもに食べされると、それがウドンに見えたらしく、「ヤマウドン」と名づけていたという。
吉原さんは、その後もしばらく稲葉に住み続け、結局、二十年以上を過ごした。大洪水の後、毎年十一月十一日には、二八名を救った二股のカシの木をお参りした。偶然にも、この日は吉原さんの誕生日でもあった。
八重山開発株式会社
西表島西部における戦中の森林開発は、稲葉大洪水によって中止に追い込まれた。戦後、一九五〇年代から、この森林開発を再開しようとする具体的な動きが現れた。
一九五三年、日本の岩崎産業と沖縄の国場組が資本金五千万円を共同出資して、パルプ用木材の伐出を目的とした八重山開発株式会社(岩崎与八郎社長)を設立した。二〇〇三年までの五十年間の部分林契約を琉球政府と結び、西表島の国有林全体の約三分の二に相当する一万八千ヘクタールについて、伐採と植樹をおこなうことになった。一九五六年には、製材所を設置する白浜と稲葉とを結ぶ延長約六キロに及ぶ空中ケーブルを完成させた。ケーブルを支える鉄塔が二十四本ずらりと林立する光景は実に壮観であった。この工事のために、のべ一万三千人の人びとが働き、人件費は五百万円にのぼった。
会社の計画では、一九五七年二月から本格的に木材を伐採し、空中ケーブルによって三分間ごとに稲葉から白浜へ運び出す予定だった。しかし、一向に操業は開始できず、部分林契約をした政府から会社側に対して事業を始めるようにとの指示も無視された。会社側の説明によれば、木材価格の下落により採算がとれないため操業を見合わせていたというが、朝鮮戦争に伴う枕木の軍需を当てにしていたのに、休戦状態になって見当が外れたとも言われていた。
いずれにせよ、八重山開発は事業を継続できなくなり、部分林契約の解除を求める声が大きくなってきた。そこで、岩崎産業は十条製紙に事業に関する権利を譲ることになった。これにより、ようやく一九六〇年から事業が再開され、翌年二月からは本格的に木材の伐出が始まった。岩崎産業時代は、白浜に製材所、パルプ工場を建設する予定だったが、十条製紙は熊本県八代市にパルプ工場があったので、白浜港を出た木材は三隅港まで運ばれていった。
経営母体が十条製紙へと変わり、それから約十年間は順調に操業を続けた。伐採から輸出までの工程は次のとおりであった。すなわち、チェーンソーで伐採した木材は集材機で道路まで運び、それをダンプカーで四ヶ所の集材所へ集めて、さらに索道を使って船積所へと集める。船積みはキャピタルクレーンでバージ船に積み、最後に本船へと運ぶ。つまり、なるべく人力に頼らずに近代的な林業機械が導入されていた。
一九六二年の新聞記事によると、三百五十名が就労しており、一気に多くの雇用機会が発生したことがわかる。しかし、計画では五百名を雇用し、伐採目標は年間一万二千石を見込んでいたので、これでも労働力不足により平均年間六千石にとどまっていたらしい。また、月給が手取りで最高二百ドルと恵まれていたが、これがかえって、現金をある程度貯めると島を出て行く労働者を生み出してしまい、毎月二、三十名が入れ替わることが悩ましい課題であった。
その後、一九六〇年代を通して、八重山開発は安定して操業していた。しかし、一九六五年にイリオモテヤマネコが発見され、一九六七年には天然記念物に指定されるなど、西表島の恵まれた自然資源に対する見方が変化してきた。つまり、これまで開発すべき対象であったものが、保護すべき対象と見なされるようになったのである。そして、一九七二年五月十五日、沖縄の日本復帰にあわせて西表島の大半が国立公園に指定され、国有林での森林伐採ができなくなった。一九七三年、十条製紙を母体として、一時は大きな雇用を生んだ西表島の森林開発の歴史は終わりを告げた。
恵まれた水田耕作
大洪水からしばらく経ち、一九四五年に敗戦を迎えると、稲葉では浦内川沿いに水田を開けることから、干立から通耕する人びとが現れた。祖内と干立という二つの古い集落では、昔から仲良川と浦内川に沿って、それぞれ水田を開き、通い耕作することが多かった。つまり、戦争が終わって、招集されていた人びとが村に戻り、生活が落ち着きを取り戻すと、少しずつ昔のような人の行き来が見られるようになったのだ。
干立から稲葉の水田まで通う人びとは、田植え、草取り、稲刈りなどの時には、田小屋に寝泊まりして作業した。この中には居所を稲葉へと移す人が現れ、一九六〇年頃には十五戸程度の集落が形成された。
人びとが定着した理由として、一戸当たりの水田面積が広かったことを挙げることができる。一九六二年末の統計によると、稲葉集落では、農家一戸あたりの水田面積が百七十アールで、他の集落がすべて百アール未満であったことを考えると、抜きん出て広い水田を確保できたことがわかる。
また、一九五九年に、干立から稲葉に達する農道が竣工したことも関係があるかもしれない。この農道は急勾配が連続する小道であり、切り盛りは鍬一本でおこない、大木の伐採、伐根もすべて人力によって完成された。当時の新聞記事によれば、この新道の利益は大きく、稲葉まで通うのに舟に頼っていた干立集落の人びとにとっては、実労時間が三時間延長されたほか、馬車の輸送で山林資源が大幅に活かされるようになったという。この記事からは、実際に稲葉への移住を促されたのかは判断できないが、稲葉と干立との間が時間的に短くなったことはわかる。
当時の稲葉の暮らしはどのようなものだったのか。一九六四年に稲葉を訪れた池間利秀という人による報告がある。それによると、「各戸平均二ヘクタールの米作りをしているが、米価保護策のおかげで千ドル農家としての悠々たる生活ぶりである」とあり、経済的には現金収入に恵まれていたことがわかる。また、「消費物資の購入は不便だろうと思っていたら、浦内川を八キロも遡るこの地に石垣市の卸商は生活用品のすべてを運んでくれる」と、意外にも不便ではない生活の様子が記録されている。そして、「稲葉の人々はどの顔も明るい表情で、陸の孤島などという暗さは少しもない。交通機関は専ら刳舟で裸の坊やが櫂を操る母親の後にデンと座って隣のおばさんの家に運ばれていく姿など明るい姿である」と、あっけらかんとした明るい農村の暮らしぶりが描かれている。当時は、昭和三十年代の高度経済成長期の最中にあって、都会では急速に近代化が進んでいた。池間氏は稲葉の生活を「何と素晴らしい生活であろうか」と賞賛しつつ、生活が都市化されていくことに疑問を投げかけている。
調査研究と調査地被害
一九六四年に池間氏が書いた新聞記事には、多くの人びとが調査研究のために稲葉を訪れていたことも書き留められている。
当時七十一歳の後浜宜佐さんの話によれば、調査研究という名目で稲葉を訪問し、後浜さんのお世話になる研究者や学生などの数は、年に三百名を超えていたという。西表島全域を調査する場合、まだ東部と西部が北岸道路で結ばれていなかったので、島を横断することが多かった。その場合、島の中央部に位置する稲葉は、中継点として格好であったと思われる。
西表島を訪れる人びとの目的はさまざまであった。西表島の自然資源を活用することを目的に、その基礎資料を集めるためのもの、西表島の開発計画を立てるために現地を視察するもの、あくまでも学術的に自然環境を網羅的に調査しようとするもの、大学の同好会などで動植物などを調査するもの、うっそうとした森林を探検しようとするものなど多様であった。こうした訪問は、一九五〇年代の前半から見られ、五〇年代後半から六〇年代前半にかけて一気に増加した。
後浜さんの家では、泊まる人が多くて家屋に入れなくなると、庭にテントを張って泊まらせた。持参している食料が不足している場合は、分け与えることもあった。訪問者たちが昆虫採集を目的とする場合は、夜間に灯火を用いて昆虫をおびき寄せるので、火の用心も必要であった。こうした世話を、後浜さんは不満一つ言わずに喜んでおこなっていたという。
このような事態について、池間氏は、「調査視察も結構なことではあるが、生きた人間が集団で移動するのだから、経済的に精神的に現地の人々に多少の負担は掛るようになる。……住民のみが世話を見て如何なる団体や機関も一向に省みようとしない処に問題がある」と、稲葉をはじめとした西表島における調査地被害を問題にしている。西表島に住む人びとに対して一方的に調査研究に伴う負担を掛けることは、この後も西表島でしばしば問題となっている。
なお、平良彰健さんの父も、しばしば研究者や学生をはじめとした来訪者を舟に乗せ、浦内川を運んでいた。これが、後に動力船で浦内川をめぐる観光会社、浦内川観光の設立につながったという。
消えた構想
稲葉には、歴史上実現しなかった構想がいくつもある。
一九五八年には、政府により、稲葉に百五十戸(七百五十人)を入植させる計画が立てられた。ただし、稲葉といっても入植候補地の位置は集落のあった浦内川の中流ではなく、その上流のマリュドゥの滝の上であった。ここに、おもに林業に従事する移民が計画され、八重山開発株式会社の事業展開とともに、西表島の林業が飛躍的に発展すると期待された。ところが、現地調査によって、想定以上に土地の傾斜が急であることがわかり、当初計画していた耕作面積を得られないことが判明した。逆に、十分な耕地面積を確保するならば、入植戸数を二、三十戸へと規模を縮小するしかなく、そのために道路などの社会基盤を整備することはできず、紙に描いた計画は頓挫した。
消えた構想のうち、規模が大きかったのは、いわゆる高岡構想と呼ばれるものである。これは、一九五九年に高岡大輔氏(当時、南方同胞援護会理事)によって明らかにされた日本政府による西表開発計画である。この内容は、浦内川流域に資金約十億円を投じて千ヘクタールの農業センターを設置するというものであった。
敗戦によってすべての植民地を失った日本は、同時に「宝庫」=台湾も失うことになった。そこで、日本は開発の対策として、「眠れる宝庫」=西表島にあらためて目を向けるようになった。高岡構想では、長年にわたり日本が台湾で蓄積した熱帯・亜熱帯地域の農業に関する知識と経験を、次世代に引き継がなければ大いに後悔すると強調された。さらに、それを継承する場は西表島をおいて他にないと力説され、農業センターの設置が提案された。これを建設する目的としては、「①日本の国民生活を向上するためにも、②日本の海外貿易を促進するためにも、③東南アジア諸国に対して農業技術の援助するためにも、④中南米に対する日本の移民事業を発展せしめるためにも、⑤将来、東南アジア諸国の貧困を救い、もってその赤化を防ぐため」、と五項目が挙げられた。このように高岡構想が掲げられると、新聞も「可細い琉球政府の貧乏財政ではどうにもならず、日本政府の積極的で強力な政策が待望される」と評価したが、結局、何も具体的な動きは見られなかった。
このほか、一九六三年には、ブラジル帰りで那覇市に住む古堅宗知氏が、稲葉集落の対岸に十四ヘクタールのコーヒー園を計画して、八重山営林署に借地を出願したこともあった。また、同じ年には、稲葉集落に住む兼久良治氏等が中心となって、千ヘクタール余りの広大な一大観光地を開発しようという計画も持ち上がった。しかし、ともに青写真を描いただけに終わっている。
再び洪水、そして廃村
一九六八年七月下旬に襲った台風五号(ナディン)の豪雨は、稲葉に壊滅的な被害をもたらした。稲だけでなく田圃に野積みしてあった籾も流出し、さらに乾燥してあった籾は水に浸かって発芽してしまった。農業では、刈り取った籾を一度に脱穀するという従来の方法をではなく、二日刈り取っては脱穀するように指導していた矢先のことで、地方庁の水稲係は天災でなく人災だと判断した。ただし、八重山気象台の観測によると、この時の降雨量は四七〇・六ミリで、一九四四年の大洪水の雨量四五七・〇ミリを上回っていた。
この時の被害状況は、洪水で流された稲束が三メートル近い木の枝に引っかかっていたことからも想像できる。また、平良彰健さんには、マングローブの上に引っかかった稲を取って集めた記憶がある。それを、しかるべき所へ持っていくと補償金がもらえたので、懸命に集めたのであった。
すでに、この頃には稲葉集落の世帯数は四戸、人口十名となっていたが、この水害をきっかけにして稲葉を離れたり、居所を移して稲葉へ通ったりする人が増えた。そして、最後まで稲葉に残った平良家も一九六九年の年末に浦内へと引っ越した。それ以来、稲葉に定住した人はいない。
この本が作られるまで
西表島の中央部に稲葉という小さな集落があった。浦内川中流域の沿岸に位置していたが、一九七〇年頃に廃村となった。
稲葉の旧住民であるた平良彰健さん(一九五四年生)は、集落での暮らしがとても豊かだったことを覚えている。集落の人びとの生活は半農半漁だったが、比較的広い水田に恵まれたため、米作りによって十分に生計を立てることができた。目の前を流れる水量豊富な浦内川では、エビ・カニ類、ウナギなどを捕ることができたし、刳り舟で河口まで下れば、海の魚を釣ったり、貝を集めたりすることもできた。周りの自然から多くの恵みをいただくことで、充実した生活を送れていたように思われる。
彰健さんが稲葉に住んでいたのは、小学一年から中学三年の二学期(一九六九年)までの多感な少年時代であった。この間、祖内にある西表小中学校まで片道六キロメートル、歩いて一時間以上の道のりを通った。雨の日も風の日も、近所の友だちとともに、途中で小さな丸木橋を渡り、細い山道を上ったり下りたりしながら学校へ行った。
たしかに、不便ではあった。テレビが普及し始めた時代だったが、稲葉にはそもそも電気が通っていなかった。しかし、周りには豊かな自然があった。子どもたちは、身近な生きものと向き合い、既成のものに頼らず、一人ひとり工夫を楽しみながら遊んだ。遊びを通して学び、成長していった。そこには、自然に囲まれた幸せな少年時代があった。そして、子どもながら夢を持って生きていた。毎日のように、将来の夢を友だちと語り合いながら通学した。
今の子どもたちには、自分が子どもの時と同じように、夢を抱きながら生きていく環境があるのだろうか。彰健さんの目には、最近の子どもたちが夢を失っているように映っている。
彰健さんは、稲葉で少年時代を過ごしたことに誇りを持っている。しかし、これまでに書かれた郷土史をひもといても、稲葉に関する記録はほとんど残っていない。西表島には、稲葉の他にも、網取、崎山、鹿川、高那、仲間などが廃村となっており、いくつか記録も残されている。このままでは、稲葉集落が存在したことさえ忘れ去られてしまう。このように危惧した彰健さんは、自分が経営するレストランに集落の名前を残そうと「キッチン イナバ」と名付け、店内には昔の稲葉を偲ばせる貴重なモノクロ写真を飾った。
さらに彰健さんは、子どもの頃、楽しく過ごした稲葉の記録を残すことで、子どもたちに夢を与えたいと考え、聞き取り調査を始めることにした。昔、同じ集落で過ごした友だちや先輩を訪ね、稲葉で過ごした思い出を語ってもらった。すでに、西表島を離れた人も多いが、出張で島を出るときなどに時間を作り、話を聞かせてもらった。思い出話に花が咲き、時を忘れてしまうこともしばしばだった。
このように、この本を作るプロジェクトは、平良彰健さんの稲葉の記憶を記録に残そうとする熱い思いから始まった。本の中心である聞き書き部分は、彰健さんと一緒に調査したフリーライターの今村治華さんがまとめたものに少し手を加えた。全体の編集は、当初、今村さん担当する予定だったが、事情によりできなくなったので、西表島の森林開発をテーマに調査している私がお手伝いした。
松村正治編(2010)『記憶されなかったムラの記憶―西表島旧稲葉集落の聞き書き』浦内川観光, 127pp.の本人執筆部分
失われる記憶を呼び起こすことは自分の生きた歴史を後世に残す大切な作業だと思います
頑張って欲しいと心より応援いたします
応援コメントをいただき、ありがとうございました。