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人と里山のコミュニケーション

都市の空間は、社会から求められる機能を十分に発揮するために合理的に作られています。しかも、その機能はかなり単純化されています。たとえば、道路は自動車が通るところ、学校は生徒が勉強するところ、病院は病気を治すところ。そして、道路であれば、いかにして車が安全かつ円滑に流れるようにするのかを第一に考えます。住宅地ならば、いかにして効率よく多くの家を建てられるかを考えるでしょう。もちろん、可能なかぎり費用を安く抑えることは前提です。都市に住む人びとは、こういう空間で生きていく必要があります。

多くの人びとは、さして問題もなく都市空間に適応することができますが、そうでない人もいます。勉強をするように迫る学校、病気を治すように強いる病院に耐えられない人がいます。あるいは、機能的な空間によそよそしさを感じて、自分の居場所ではないと思う人もいるでしょう。こういう場合、人と空間のコミュニケーションは成立していません。たいていの都市空間とは、人びとが対話する相手だとみなされていないのです。

一方、里山とは、田んぼ、畑、雑木林、竹林、茅場、ため池などから構成される多様な世界です。そして、人が自然と対話しながら、人と自然の長い協働作業によってできた景観です。里山景観を維持するためには、人が適切に手入れをする必要があります。同時に、手を入れるという作業によって、人は里山から恵みをいただけるのです。一昔前であれば、それは、薪や炭、米や野菜といった燃料や食料などでした。これに対して、化石燃料に依存し、多くの食料を輸入している現代では、そうした物質的な恵みはあまり重要ではありません。今日の都市においては、里山から提供される精神的な恵みが重要です。おそらく、それは自分が必要とされているという実感だと思います。

私たちの社会は、できるだけ手間暇をかけずに暮らしていくことが良いことだと信じてきました。台所にある家電製品、たとえば、電子レンジ、ガスコンロ、炊飯器、食洗機などを見れば、すぐに納得できるはずです。また、最近はあまり頭も使わずに暮らせるようになっています。インターネットで買い物をすると、購入履歴をもとにオススメ商品が示されるように、自分で考えなくても、生活する上で必要と思われるものが適当に揃う時代が到来しています。手を動かしたり、頭も働かせたりする機会が減ることは、一見素晴らしいことだと思えますが、他者とコミュニケーションをとる機会がなくなれば、自分の存在意義もわからなくなってしまいます。

私は、十数年来、人びとに経験される里山を研究の対象としながら、里山保全を目的とした環境NPOの活動にも関わってきました。私たちのNPOにアクセスされる方の中には、都市空間と相性が悪くて、居場所を無くしている方、生きがいを持てない方がいらっしゃいます。そういう方々が、山仕事をする、野良仕事をする、一緒に食事をとるという里山体験を経て、元気になって次のステップへ向かうことがあります。きっと都市の中の休憩所として、私たちの団体と里山空間を利用してくださったのだと思います。この休み処に来られた人には、木を伐る、草を刈る、野菜を収穫する、雑草を抜く、料理を作るなど、何かしらの役割があります。ここで、一緒に活動に参加した人と適当におしゃべりしながら、生きることの原点をあらためてつかんだのかもしれません。大地との関わり、人との関わり。こうした関係性がしっかりとした座標を作り、自分の位置を示してくれるのでしょう。それは、きっと都市空間で生きていく上で必要な地図を手に入れることなのだと思います。

このような経験から私は、都市にこそ里山が必要だと信じています。都市空間には見られない質の豊かなコミュニケーションが、里山にはあると考えているからです。

松村正治(2012)「人と里山のコミュニケーション」『農業共済新聞』(2012.4.11), 7.


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