『企業的な社会、セラピー的な社会』

小沢健二(2007)『企業的な社会、セラピー的な社会』ドアノック・ミュージック.

学生時代、オザケンは小山田圭吾とバンド「フリッパーズ・ギター」を組み、英国のネオアコ、ギターポップの影響が強いその音楽性によって、音楽好きにはよく知られる存在になっていました。
私も同じキャンパスに通っていたので、偶然でも見かけられないかなと何となく気にして過ごしていましたし、他大学の友人に「オザケンと会わない?」と尋ねられることもありました。(あいにく、これまで一度も見かけたことはありませんが。)

その後、オザケンはソロに転向し、「渋谷系」の音楽を代表するミュージシャンとなりましたが、私はフリッパーズ時代も含めてオザケンの音楽をよく聴いていました。
しかし、1990年代半ば頃から、オザケンは活動のペースを緩め、私は次第に音楽を聴かなくなってしまい、2000年代に入ってからの動向にはほとんど注意を払っていませんでした。
2006年に久しぶりに出た全編インストゥルメンタルのアルバムは、かつてのファンとして購入したものの、あまり聴くことはなく、最近のオザケンがどのような活動に取り組んでいたのか、まったく知りませんでした。

それが、今年の春、勤務校の卒業生からこの本を紹介されて、久しぶりにオザケンを強く意識するようになりました。
まず驚いたのは、私よりも10歳ほど若いOGから、オザケンという言葉が出てきたことです。
若い人たちには、忘れ去られている、知られていないと思っていたので、共通の言葉があることだけでも大きな発見でした。
しかし、それ以上に驚いたのは、オザケンの書いている内容が、私が考えていることとテーマが重なっていて共感できたことであり、また、それに共感している若者がいるということでした。

オザケンは、2005年から季刊『子どもと昔話』(小澤昔ばなし研究所)という雑誌に、反グローバリゼーションのメッセージ性を強く感じる『うさぎ!』という物語を連載しています(24話「原発についてはネット公開)。

今回取り上げた本は、この連載の別冊という位置付けのようで、本文は90ページという薄い冊子です。
どういういきさつか、『社会臨床雑誌』という日本社会臨床学会の学会誌(14号3巻)に掲載されたもので、童話の形式で語られていますが、社会批評の色合いが濃い内容となっています。
特にこの小冊子では、主として経営学化する社会と(この言葉は、私の造語です)、心理学化する社会について扱われています。
つまり、人びとが、どうやって限られた資源を有効に生かし、弱肉強食の社会で生き抜くのかを考える経営学化と、そうした社会で生きづらさを感じる人びとには、臨床心理学的に基づくセラピーによって癒しを与えると心理学化という、今日の社会の一側面を批判的に童話の中に落とし込んでいます。

この中には、NPOのことが話題になっている場面があります。
NPOに参加する人びと、ボランティアが増えることを、私たちは市民社会の実現に近づいていく証しとして喜ぶ傾向にあるのではないでしょうか。
しかし、この本の中では、次のようにNPOに対しても経営学化と心理学化という流れの中に位置付け、目指すべき市民社会から目を背けさせられているのではないかと、メッセージを発しています。

税金の免除や援助のお金という餌を与えて、NGO・NPOが世の中にあふれるようにする。そして不満を持った危険分子たちを、柔らかなやり方で、変えようとする。
『市民権が少ない』という根本的な問題を解決しないで、感じ方だけを変える。・・・このやり方は、セラピー的なやり方だ。

社会の心理学化という現象は、私の周りにいる学生や友人にも心理学がとても人気があることから日頃から感じるのですが、最近の市民活動の傾向を見ていても、そうした現象を強く感じます。
現在、私は神奈川県ボランタリー活動推進基金幹事会のメンバーとして、応募案件に目を通し、審査する役目を引き受けています。
先日、協働事業負担金という神奈川県と提案団体との協働事業について審査する機会があったのですが、その中で目立っていたのは、児童虐待、DV、不登校・引きこもりなどの「社会問題」に対して、ある特別な臨床心理学的プログラムを普及させようとするものでした。
しかし、多くの提案書は、その(提案団体にとって)「正しく権威あるプログラム」を、当事者に押し付けようとしているように読めてしまうのでした。
ここにも、心理学化する社会と、そこに適応しようとするNPOという構図がありました。
このように経営学化と心理学化が進む社会と、その中に適応しようとする個人やNPOの相互関係は、すでに切り離せないものとなっているようです。

こうした社会にあって私たちは、どう生きるべきなのでしょうか。
たしかに、企業的な考えを持ち、マネジメント能力にすぐれた人になること、また、さまざまなストレスに対応する心の処し方を学び、困ったときに診てもらえる抜群のセラピストを抱えるのは、今日の社会を生き抜くための1つの答えとなるでしょう。
しかし、私には、そのような力を身につけるには難しく感じます。また、多くの人びとが、そうした力を身につけようと頑張ると、かなり息苦しい社会になるような気がします(だから、セラピーも流行るのでしょう)。

では、どういう社会が目指すべきなのでしょうか。
たしかな輪郭を持ってイメージできているわけではありませんが、個人が社会の中で生きる力をその人個人の能力とは見なすのではなく、個人が生きやすいように社会の環境を整えるべき。
おそらく、こうした認識をベースにして社会を作ることだと思います。

抽象的な言い方でわかりにくいかもしれません。
ただ、これを解きほぐして具体的な提言ができるほど、私の考えも煮詰まっていませんので宿題とさせてください。

よこはま里山研究所のコラム
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