『雑食動物のジレンマ』

7/15(月祝)、横浜でTPPに関するセミナー「私たちが選ぶTPPと社会のゆくえ―岩上安身さんを迎えて」を開催しました。
TPPについては、貿易の自由化を巡る過去の問題の印象から、農業や自動車などの関税の問題として捉えられているかもしれません。
ところが、保険や医療など(もちろん農業も)生命に関わることや著作権などの知的財産に関わる問題も含めて協議されますので、私たちの生活全般に関わる協定と言えます。
にもかかわらず、交渉は密室で進められるために経過を知ることができないばかりか、発効後4年間は内容も公開されないことになっています。
さらに、企業が国家を訴えることのできるISD条項や、いったん自由化が進んだときには後戻りできないラチェット規定も含まれるなど、TPPは知れば知るほど不安を呼び起こすものだと思われます。
こうした問題意識から、今回のセミナーは、「TPPは農業だけの問題ではない」ことを理解し、今後の社会のゆくえを考えるためにおこないました。

セミナーの趣旨はこのようなものでしたが、かりにTPPを農業の問題だと、あえて矮小化して捉えてみたとき、私たちは自由化の影響を予見できているのでしょうか。
関税が下がると、安い農産物が大量に輸入されるようになること、その場合、食の安全性が保たれるかどうかが懸念されること、農家への補助金があっても小規模農家は持ちこたえられず、大規模農家、そしてアグリビジネスに集約されていくことなどは、すぐに予想できると思います。
しかし、食と農のグローバル化が進んだ先の姿について、一般的には、あまり具体的にイメージできていないのではないでしょうか。

それでも、食と農のグローバル化については、これをテーマにした話題作が近年相次いで発表されていますので、この分野に関心を持つ一部の人にとってはなじみのある問題だとも言えます。
DVD化されている映像作品としては、ダーウィンの悪夢おいしいコーヒーの真実キング・コーンブルー・ゴールド:狙われた水の真実フード・インクありあまるごちそうなどが挙げられます。
書籍としては、ファストフードが世界を食いつくす肥満と飢餓――世界フード・ビジネスの不幸のシステムフード・ウォーズ―食と健康の危機を乗り越える道食の終焉自殺する種子などを挙げることができますが、今回は、その中から特にお勧めできる1冊を取り上げました。

タイトルの「雑食動物のジレンマ」とは、雑食動物である人間が、ほとんど何でも食べられるために、何を食べてよいのか悩むという窮状を示しています。
本書の序章に、高タンパク・低炭水化物を基本とするダイエット法が紹介されると、脂肪恐怖症から炭水化物恐怖症へと集団発作に襲われたかのように、それまで肥満予防のために食べられてきたパンやパスタなどの炭水化物が、食卓から一気に姿を消したと書かれています。
不健康な人びとが健康な食生活という概念にとり憑かれるこのような米国の逆説を、著者はアメリカン・パラドックスと記します。
米国の例は極端なことかもしれませんが、日本も似たような傾向を強めているように思われます。
食に関する大量の情報が行き交う現代社会において、雑食動物のジレンマを抱える人間は、何を食べたらよいのでしょうか。

本書は、この、何を食べようか、というシンプルな問いに答えるために、食の流れ(food chain)を大地から食卓まで追跡したものです。
全体は、「トウモロコシ―工業の食物連鎖」「牧草―田園の食物連鎖」「森林―私の食物連鎖」の3部構成となっていて(訳者はfood chainを食物連鎖と訳しています)、それぞれ、食卓に現れる食事としては、ファストフード、オーガニックフード、究極のスローフード(狩猟採集)に対応しています。
本書の副題は「ある4つの食事の自然史」ですが、これはオーガニックフードを、さらに2つに分けているからです。すなわち、大手有機食品スーパーのホールフーズで購入できるものと、生産者と消費者の顔の見える関係で有畜複合の循環型農場から調達するものです。
同じ「オーガニック」であっても、前者はファストフードの流れに似て工業的であるのに対して、後者は地産地消で持続可能な食の流れであり、大きな違いが見られます。
欧米でのオーガニック市場は着実に大きくなっており、工業的オーガニック/ビッグ・オーガニックが支配的となっています。
こうした状況で、「オーガニック」と差別化するために、「スーパーオーガニック(オーガニックを超えたもの)」という言葉を用いて、ローカルで持続可能な食と農の意義を伝えようとする動きもあります。

私が本書をお勧めできる理由として、食と農の問題を厳しく高所から指摘するというスタイルを取らずに、3つの食の流れを追うために現場を訪れ、身をもって体験したことを描いている点が共感できるからです。
著者は、工業的農業の現場として、アイオワ州にあるトウモロコシ農場へ、持続可能な有機農業の現場として、バージニア州にある牧草農家の農場へ、さらに自給のための狩猟採集の現場として、地元カリフォルニア州の森林へ、それぞれ足を運びます。
そして、大型トラクターに乗ってトウモロコシの作付けしたり、鶏を絞める作業を手伝ったり、狩猟免許を取ってイノシシを撃ったりして、最後には食事を作って食べます。

もちろん、こうした体験記だけが本書の魅力ではなく、食と農をめぐる問題の背景について目配りのよい説明がある点もよいです。
第二次世界大戦末、農業が工業化されたことにより、太陽光に依存しなくても、化石燃料からエネルギーを得る食の流れが登場しました。
この流れにもっとも適合的だった植物が、トウモロコシでした。
トウモロコシはカロリーが高いために食べ物として貴重であるだけでなく、乾燥すれば簡単に運搬できるので、商品としても優れた性質を備えています。
こうした特質からトウモロコシは、最低限の生活の糧であるばかりか、グローバル市場に流通する商品でもあり、むしろ後者としての価値がきわめて高い資本主義的な植物です。
そして、この商品を安価に大量に生産させる米国の政策により、トウモロコシ発のさまざまな食品を提供できることになります。
たとえば、トウモロコシを飼料として育てる牛、豚、鶏の肉のほか、もちろん、卵、乳製品も含まれます。
最近ではサケなどの魚の養殖にも餌として利用されているので、これらもトウモロコシからできていると言えます。
コーンスターチ、コーン油などは名前から明らかですが、多くの清涼飲料水に含まれているのに、ブドウ糖果糖液糖などと記載されているためにわかりにくいものとして、高果糖コーンシロップがあります。

アメリカの平均的なスーパーには45,000もの商品があり、その1/4以上は実にトウモロコシが入っていると書かれています。
それでは、工業化された食を象徴するファストフードでは、どれくらいのトウモロコシが入っていると計算できるのでしょうか。
著者によると、マクドナルドのメニューでトウモロコシの占める割合は、清涼飲料(100%トウモロコシ)、シェイク(78%)、ドレッシング(65%)、マックナゲット(56%)、チーズバーガー(52%)などとなっています。
また、ハンバーガー110gを牛の飼料も含めて考えれば、トウモロコシ900g分に相当することをはじき出しています。
このように、ファストフードを食べる人びとは、見た目の多様性に反して、トウモロコシしか食べていないと言えます。
これが食と農の工業化の行き着く姿です。

ファストフードに対抗すると思われるオーガニックについても、工業化が急速に進んでいます。
大手食品企業はオーガニック部門を立ち上げるか、既存のオーガニック企業を買収していきました。
1990年には有機食品生産法が成立していますが、オーガニック産業とオーガニック運動との闘いの結果、当初この言葉に込められていた哲学的な価値観は無くなり、工業的な農業を認めていくようになりました。
初期の有機農業運動は、すべてがつながるという生態学的な前提に基づいて、生産方法(無農薬・無化学肥料)だけでなく、流通システム(生産者と消費者の顔の見える関係や協同組合)や消費方法(玄米や全粒粉などのブラウンフード)も代替的なやり方を追求しました。

しかし、オーガニック市場の拡大にともなって生産方法以外の2つは放棄され、アグリビジネスは有機栽培された作物を扱えば、オーガニックと自称できるようになりました。
今日のオーガニック市場では、ホールフーズ社のような大企業が大量の有機農産物を扱っており、それらは広大な有機農場で栽培され、大型機械で収穫されるようなものが主流となっています。
このように本書を読むことにより、米国で先行している食と農の工業化の様子を知ることができます。
そして、農業の自由化は、こうした事態のグローバル化を進めますので、日本の食と農の将来を予見することにも役立つでしょう。

最終章で著者は、自らが狩猟採集によって集めたイノシシやキノコなどで、非常に時間のかかるスローフードを4つめの食事として調理し、近しい友人とともに食べます。
これは、1つめの食事として、車の中で10分で食べ終えたマクドナルドのファストフードの対極に位置するものです。
これらファストフードと極端に手の掛かるスローフードという2つの食事は、人間を支えている世界への両極端なかかわり方を示しています。
そして、「同じように非現実的で持続不可能だといえよう」と筆者は述べ、この極端な例外を除いて、スローでもファストでもなく、食事が本来の姿=「ただの食事」となることを想像して終えています。

ここで「ただの食事」とは、食にかかわる意識ついて、あえて詳しく述べる必要もなく食べる食事を意味しています。
つまり、食事が「ただの食事」となるには、私たちが食べているものがどこからどうやって食卓まで来たのか、その過程で(見えない費用も含めて)どれくらいのコストが掛かっているのか、こうした問いへの答えを人びとが当たり前に知っていることが必要となります。

私にはそのような日が来ることを想像できませんが、それでも、NORAに集う人びとの様子を観察する限りでは、こうした問いに答えられるべきと思う人が、増えてきているように感じられます。
私をつくる食について知ろうとすることは、私たちを取り巻く自然と社会を理解することになり、自分の足場を実感することにつながるのでしょう。
そうした問題意識を持つ人が増えていくことから、きっと今では想像もできない新しい食と農の未来が開けるような気がします。

マイケル・ポーラン(2009)『雑食動物のジレンマ 上──ある4つの食事の自然史』東洋経済新報社.

マイケル・ポーラン(2009)『雑食動物のジレンマ 下──ある4つの食事の自然史』東洋経済新報社.
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