年末年始に読んだ本(1)

年末年始は遠出しなかったので、テレビでのスポーツ観戦のほか、積んでおいた本をいくつか読みました。
ここでは、次回と2回に分けて5冊ずつ取り上げます。


コリン・ヘイ『政治はなぜ嫌われるのか―民主主義の取り戻し方』

コリン・ヘイという名前を見て、妻から「メン・アット・ワークの人?」と尋ねられましたが(1980年代前半に活躍したオーストラリアのバンドで、コリン・ヘイはリーダーで、その声が特徴的でした)、同姓同名の別人で、著者は私より1つ年上のイギリスの政治学者です。
本書は読んでみようと思ったのは、読売新聞の書評で取り上げられていたことと、翻訳が『ポピュリズムを考える』を書いた吉田徹氏であるからでした。
なお、イギリス政治学会の出版最優秀賞を2008年に受賞しているようです。

本書では、まず国民の官僚叩きや政治家不信が日本に特別の現象ではなく、先進諸国に共通して広がっていることを示します。
投票率は低下傾向にあり、党員数は顕著に減少しています。
しかし、こうした公式的な政治参加は各国で衰退しているものの、デモをはじめ、多様な運動を通しての非公式な政治参加を含めてみると、もう少し丁寧な分析が必要であることがわかります。
著者は、政治参加のタイプを公式/政府、非公式/非政府と分け、さらに政治化-脱政治化のプロセスを、必要性-私的領域-公的領域-政府領域を移動経路で見ていくなど、現代的な政治参加を分析するための概念を整理しています。
こうした政治を捉える分析枠組みの考察以上に魅力的なのは、このような政治への白けた態度や政治離れが広がったのか、その原因をはっきりと示しているところです。
著者によると、その犯人は政治学における公共選択論、ということになります。
公共選択論では、各アクターが自己の利益を最大化するように合理的にふるまうと仮定しますので、政治家や官僚もまた同様の存在であると見ます。
こうした見方は、公共選択論を学んだことがなくても、現代社会に生きる私たちの多くが、自然と身につけているように思います。
これが、政治学による影響であるとする著者の考えには賛成できませんが、この10~20年の間、新自由主義的な社会が目ざされてきたことから、公共選択論が広がる素地があったことは事実でしょう。

ここで重要なことは、こうしたものの見方が正しいからでも、あるいは、間違えているからでもありません。
そうではなくて、こうした見方が妥当であると人びとが思えば思うほど、ますます政治嫌いが強まり、この見方が現象を適切に説明するように思えるようになっていくということです。

政治が良くならないのは、政治家が悪いのか、有権者が悪いのかという話はよくありますが、そのようなわかりやすい議論に陥ることなく、人びとの意識や認識に焦点を当てている点が本書の特徴です。
政治不信や政治離れの要因が社会の想定や態度にあるという結論は、いかにも後期(再帰的)近代の社会科学という印象を受けます。
おそらく、社会学に親しんでいる人には理解しやすいと思います。
民主主義の危機とも言われる今日において、読む価値のある好著です。

コリン・ヘイ(2007=2012)『政治はなぜ嫌われるのか―民主主義の取り戻し方』岩波書店.


中島岳志『リベラル保守宣言』

著者は、政治思想としては保守主義を自認しています。
しかし、保守主義の立場から左派的な議論を撃つのではなく、一見すると同志と思われる(自称)保守派の議論を批判する内容となっています。
保守主義=安倍政権的なものと捉えると、原発推進を唱え、「大東亜戦争」を肯定するものと思われるかもしれませんが、著者によれば、それは「反左翼の”俗流保守”」に過ぎません。
著者は、それに反して、保守主義は漸進的に脱原発を目ざすべきとか、「大東亜戦争」への違和感を表したりとか、橋下徹・日本維新の会の「グレイト・リセット」は愚行などと述べていますが、保守の立場からすると至極当然でしょう。

また、本書は保守主義が単なる復古主義ではないときちんと述べている点がよいと思います。
「普段は無意識的に享受している安定的な環境を「あえて」意識化して捉え直し、その価値を意志的に保守しようとすることから保守思想は始まります」と
とありますが[600/2336]、このように伝統も再帰的な存在として捉えることが、自由な(リベラル)社会の中に保守を位置づける上で重要です。
この点、私も里山をあえて守ろうと活動しているので相当保守的と言えますし、実際、著者の立場とも、ある程度重なると思っています。

本書は、もともとNTT出版から出る予定だったそうです。
しかし、橋下批判を含む該当箇所の削除を要請されて出版取りやめとなり、急遽、新潮社から刊行されることになったと、その経緯が「あとがき」に書かれています。
こうした自主規制が、社会を息苦しいものにしていくようで気分が悪くなります。

中島岳志(2013→2015)『リベラル保守宣言』新潮社.


山秋真『原発をつくらせない人びと―祝島から未来へ』

昨年の秋、祝島へ行く前に購入したのですが、事前に読めなかったので、時間のあるときに読んでみました。

祝島は、瀬戸内海に浮かぶ人口500人程度の離島です。
30年以上にわたって、対岸の上関町四代田ノ浦に予定されている上関原子力発電所の建設に対して反対運動が続けられてきました。
祝島については、映画『ミツバチの羽音と地球の回転』(鎌仲ひとみ監督、2010年)、『祝の島』(纐纈あや監督、2010年)の舞台となって広く知られるようになり、反原発のシンボルというイメージがあると思います。
私も、この2本の映画をはじめメディアを通して祝島に関心を抱き、昨年、初めて島を訪れることにしました。
本書は、私のように最近になって祝島の動向を気にするようになった者に対して、格好のルポルタージュとなっています。
原発計画に対峙してきた島の歴史を丁寧に記すことで、その道のりの長さ、つらさなどを読む者によく伝えています。
また、海上での島人と中国電力、海上保安庁とのやり取りなどは、臨場感のある記述で読ませてくれます。
著者は上野千鶴子ゼミへ通っていたそうですが、対象への視線の向け方、視点の持ち方には、しっかりとしたものを感じます。
けっして読むのが楽しいという話ではありませんが、安心して読めます。

本書では、たびたびスラップ(SLAPP=Strategic Lawsuit Against Public Participation)訴訟のことが書かれています。
スラップ訴訟とは、「公の場で発言したり、訴訟を起こしたり、あるいは政府・自治体の対応を求めて行動を起こした権力を持たない比較弱者に対して、企業や政府など比較優者が恫喝、発言封じ、場合によってはいじめることだけを目的に起こす加罰的あるいは報復的な訴訟」(SLAPP Information Center)と説明されます。
海外には、スラップ訴訟を禁じているところもあるそうですが、上関原発に関しては、中部電力が建設に反対する住民を提訴しています。
中国電力スラップ訴訟止めよう会(ストップスラップの会)

本書を読むと、2011年の福島第一原子力発電所の事故がなければ、反対運動は押し切られて、建設が進んでいたはずであることがわかります。
祝島にとって、311の直前は最後の攻防とも言える状況にあり、ほとんど運動は敗北を覚悟しなければならないほど追い詰められていました。
それが、東日本大震災の影響により、上関原発について考え直す時間の猶予が与えられたのです。
原発反対運動とともに生きざるをえなかった島の人びとのことを思うと、311以前と同じ攻防が繰り返されるのだけは避けられることを願います。

山秋真2012『原発をつくらせない人びと―祝島から未来へ』岩波書店.


松本崇『持たざる国への道―あの戦争と大日本帝国の破綻』

福島第一原子力発電所の事故を経験した私たちの社会では、原発に依存しない社会を目ざすという点で、多くの人びとの意見を重なっています。
このため、原発の新規建設を取りやめることと、核燃料サイクルから撤退することは、確実にできるだろうと思っていました。
しかし、安倍政権は、これらを諦めようとしていません。
311以降、この国がすがっているモデルは、敗戦後の日本だと思います。
廃墟からすぐさま立ち上がり、急速に成長を遂げていった昭和20~30年代頃の時代をモデルとして、日米関係を軸にしながら国家主導で経済復興を果たそうというのでしょう。
けれども、当時とは違って、日本は新興国ではありませんので、輸出産業が堅調に伸びていくとは考えにくいです。

高度成長の行きついた先が、原発に依存して、やめられなくなる社会だったのではないでしょうか。
原子力エネルギーに対する夢と希望が膨らみ、影よりも光ばかりがよく映っていた時代と同様の発想で、国づくりを考えているように思われ、いらつきます。
私たちは経験から、歴史から、学ぶことができるのでしょうか。

このような思いに至ると、あらためて戦争の時代のことを学ぶ必要性を感じます。
そこで、いくつかの書評で取り上げられていた本書を読んでみました。
「持たざる国」という言葉をめぐって書かれた片山杜秀『未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命』 (新潮選書、2012年)佐藤仁『「持たざる国』の資源論―持続可能な国土をめぐるもう一つの知』(東京大学出版会、2011年)がそれぞれ面白かったこと、私が頼りにしている歴史学者・加藤陽子氏が解説を書いていることから、この本は良いだろうと思ったのです。

なぜ世界を敵に回す戦争を起こしたのかという問いを立てたとき、それに軍事面や外交面の記述によって答えるという書物は多いですが、本書はそれらと一線を画して、主として経済政策に着目して分析し、この問いに説明を与えている点が特徴的です。
特に、英米のブロック経済が「持たざる国」である日本をじり貧へと追い込み、その結果、資源を求めて戦争へと突入していったという通念に対して、明確に異なる見解を示しているところがユニークです。
著者によれば、1930年代半ばまでは日本経済は好調だったのに、経済原理を理解しない軍部の満州経営や華北経営が原因で窮乏化し、「持たざる国」になってしまったと言います。
国民は、その原因を英米の敵対政策のせいだと思い込み、生活の貧しさをもたらしていた軍部をより一層支持するようになったというのです。
こうし見方が妥当であるかどうかは、本書を読んで確認するしかありませんが、著者は財務省出身の官僚で、経済政策に通じていることが、議論に説得力を与えているように感じました。

社会が悪化していくとき、その原因がどこにあるのかを深く考えることなく、その犯人を外国に求めて、自国の誇りを保とうとすることは、日本に限らず多くの国で見られる傾向だと思います。
しかし、そうした国民の心性が一気に高まっていくと、不要な諍い、争いを招くことがあると教えられます。
また、日本は約70年近く戦争をしていませんが、経済的な戦は絶えずおこなわれているとも言えます。
経済政策の失敗は、大きな社会的な混乱を招きかねませんので、舵取りを政府に委ねるばかりではなく、私たちの経済的なセンスを上げていく必要があるでしょう。

松本崇(2010→2013)『持たざる国への道―あの戦争と大日本帝国の破綻』中央公論新社.


城戸久枝『あの戦争から遠く離れて―私につながる歴史をたどる旅』

優れたノンフクションを読んでみようと思い立ち、最近の大宅壮一ノンフィクション賞の受賞作から、まずは第39回(2008年)受賞作である本書を選んでみました(講談社ノンフィクション賞も受賞しています)。

本書は中国残留日本人孤児を扱った本です。
このテーマでは、山咲豊子『大地の子』という大作がありますが、本書には残留孤児の娘が父のライフヒストリーをたどるという違った特徴があります。
日中間の国交も回復していなかったため、「中国残留孤児」という名称さえも定まらず、国がこの問題の解決に乗り出す以前という困難な時代に、過酷な環境を堪え、乗り越えていった著者の父本人の凄まじい努力、また、周囲の関係者の協力に大きく心を動かされます。
しかし、本書は二部構成で、この父の半生の物語は第一部までです。
第二部は著者が中国へ留学し、現地でのフィールドワークによって父の半生を追体験し、あらためて著者が父の娘となるという内容になっています。
そこでは、さらに満州国軍の軍人だった祖父のことも、ある程度明らかになっていきます。
さらに、帰国後の中国残留孤児が抱えている困難や、そうした人びとが起こした国家賠償訴訟についてもふれられます

第一部だけでもノンフクションとして一級品だと思いますが、この第二部でいくつかのテーマが加わり、多少ごちゃつくところが、私にはかえって、著者にしか書けない魅力だと受け止めました。
本書は、著者のデビュー作とのことですが、著者の父だけではなく、著者本人の人生もかけられた渾身の一作で、読了後には静かな感動がありました。

戸久枝(2007→2012)『あの戦争から遠く離れて―私につながる歴史をたどる旅』文春春秋.

よこはま里山研究所のコラム

コメントを残す