次へと踏み込む

『旧約聖書』「哀歌」3章19節~27節

3:19 苦汁と欠乏の中で 貧しくさすらったときのことを
3:20 決して忘れず、覚えているからこそ わたしの魂は沈み込んでいても
3:21 再び心を励まし、なお待ち望む。
3:22 主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
3:23 それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。
3:24 主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い わたしは主を待ち望む。
3:25 主に望みをおき尋ね求める魂に 主は幸いをお与えになる。
3:26 主の救いを黙して待てば、幸いを得る。
3:27 若いときに軛を負った人は、幸いを得る


今日は、「次へと踏み込む」と題して、2つの経験をお話します。

1つめは、私が大学1年の頃から約6年間続けた演劇、お芝居の話です。

入学後に、何か新しいことに挑戦しようと、空を飛ぶグライダー部、海に潜る海洋調査探検部、そして舞台で役を演じる劇団に入り、夏休みが終わる頃、演劇一本に絞りました。
それまで、ほとんど演劇に興味を持つことがなかったのですが、当時は小劇場ブームで芝居が一部の若者たちに熱狂的に受け入れられていて、私もその波に飲み込まれるように一気にその魅力に取りつかれてしまったのです。
そして、1回の公演に参加しただけで、芝居を見るだけではなく、作りだすことの面白さに引きつけられてしまいました。

私が入団して3年目くらいから、団員の構成が大きく変わり、劇団内に意識の変化が見られました。
それまでは、学生時代の1ページとして芝居を楽しむというタイプが多かったのですが、その頃から、将来は役者として成功したいと夢見る者、裏方のプロになるために現場で修行に明け暮れる者など、本気度の高いメンバーが揃いました。
私は、芝居を仕事にしようとはまったく考えていませんでしたが、乗りかかった船だから行けるところまで行ってみようと思い、あまり将来のことを考えず、仲間とともに歩みました。

大学4年生になり、就職は芝居を続けられることを最優先に考え、転勤することがなく、仕事帰りに稽古場へ通える会社を選びました。
就職してからも、有給休暇をすべて芝居の公演のために使い、その分ほかでは迷惑をかけないよう普段は仕事に集中して、とりあえず1年は続けることができました。
社長から直接「まだ演劇をやっているのか?」と嫌みを言われることもありましたが、さいわい理解のある同僚やアルバイトさんに恵まれたので、何とか両立させていました。

仕事を始めて2年目の年、劇団は勝負に打って出ようという話になりました。
その頃は、1回の公演あたりの集客数が順調に増え、900人くらいの観客を集めるほどに成長していました。この動員数は収容定員200人程度の小劇場を1週間借りるときの、ほぼ上限に達していました。
この規模を超えていくとなると、さらに時間や労力をかけて取り組む必要があり、主要な団員はそれを求めていました。私も、このまま仕事と両立させてバランスをとり続けていくより、早い段階で思い切った選択が必要だと感じていました。
さらに、それは本気度の高いメンバーがいるこの機会を捉えるべきだと考えていました。
下北沢にあった喫茶店で、団員同士で将来について話し合い、劇団の代表(主宰)が最終的に決心して、勝負の年を迎えることになりました。

私が所属していた劇団は、主宰が作・演出をおこなう点にユニークさが集約されていて、そこが魅力であり、欠点でもありました。
私たちは年に2回公演を打つことにしていましたが、主宰の筆が遅かったため、2回とも新作を上演することは難しく、1年のうち1本が新作、もう1本は再演というパターンが一般的でした。

それなのに、勝負の年にすると決めたその年は、新製品シリーズと称して、年間6本の新作を上演することにしました。
しかし、結果は散々なものでした。
1作目と2作目までは新作を何とか上演できましたが、3作目となると主宰は台本を書くことができず、公演直前に行方知れずとなったのです。
残された私たちは急遽、3作目と4作目を過去の台本で再演を打つことにし、宣伝した内容と異なることから料金を取らずに、カンパ公演というかたちで乗り切りました。

劇団の仲間たちは癖のある個性的な面々で、同じ組織に一緒にいるのが不思議なほどでしたが、主宰の書く台本を上演するという1点において集まっていました。
それが、主宰がいなくなり求心力を失ったことで、劇団を続けていくことが困難になりました。
私たちは下北沢の「ファースト・キッチン」で夜明けまで話し合い、主宰が不在のまま、劇団の解散を決めました。
そして、5作目も再演を打ち、6作目は仲間と手分けしてオリジナルの台本を書き上げ、これを劇団の最終公演として解散しました。

解散後、仲間はバラバラになりました。
ある者はテレビのバラエティ番組に出て、その後消えていきました。ある者は日本舞踊の師匠として活躍し、ある者は脚本を書き、演じ続けています。私は芝居から離れ、仕事を辞めて大学院へ行き、大学教員になりました。

最終公演の土曜日、主宰がふらりと現れ、昼の公演を見に来ました。
誰も挨拶をすることもできず、主宰も黙って帰りました。

翌日の最終日、私が朝早く劇場に着くと、舞台の上に封書を見つけました。
主宰からの手紙でした。そこには、こう書かれていました。

「昨日は、恥ずかしながら胸が一杯で、なにも言わずに帰ってしまいました・・・役者のみんな、それからスタッフワークもそれぞれ進歩していて、本当によかったという思いでいっぱいです。最後の公演をここまで頑張ってやってもらえて感謝しています。・・・最後の一日、自信を持って、のびのびと芝居してください。」
これを読んだときの怒りと、同時にほっとした気持ちが思い出されます。

今振り返ると、私たちは主宰を担ぎ上げ、追い詰めてしまったように思います。
私たちはたしかに若く、その挑戦は見事に失敗しました。
しかし、当時はある臨界点を迎えていて、次へと進むためには、そうするしかありませんでした。
そこで踏み込んだからこそ、メンバーそれぞれが次のステージへ進めたのだと思っています。


次にお話しすることは、私が現在代表を務めている環境保全NPOでの経験です。

2001年に団体を設立した当初から神奈川県と協働事業をスタートさせたり、横浜市から事業を受託したりと好調な滑り出しで、常勤の事務局スタッフ3名を安定して雇用できる経営状態でした。
しかし、6年目に入る頃、行政からの受託事業収入が減少し、また当時活動の中心を担っていたスタッフが体調を崩したこともあり、組織のあり方、事業の進め方を根本的に見直すことが急務となりました。
当時は、2年続けて300万円程度の赤字を出していたのですが、これは事業規模1,000万円台のNPOにとっては深刻な状況でした。そこで、行政に頼らない自立した組織を目ざし、自主事業の強化を図ることにしました。

しかし、事務局スタッフが中心になって考えた事業計画に対し、外部のアドバイザーから「待った」がかかりました。
職員の人件費や事務所の家賃などの固定費をまかなうには、事務局スタッフが経営に参画し、事業をリードしていくくらいの覚悟がない限り、自立化は無理だろうという指摘でした。

給料が低くてもきちんと支払われるならばNPOで働きたいという人は多いですが、自分で組織を牽引し、自ら仕事を作りだし、給料も稼ごうという意欲を持っている人は、そういるものではありません。
事務局スタッフで議論を重ねた結果、事業の拡大は無理という結論に達しました。

そこで、組織の代表を務める私は理事会を開き、今後の組織のあり方を話し合いました。
そのとき出した方針は「固定費を下げるために事務所を手放し、常勤の事務局スタッフは辞めてもらう」というものでした。
これは、それまで曖昧にしてきた組織のあり方に大なたを振るうものでしたから、会員から理解が得られなければ、組織が空中分解することもありえる状態でした。
実際、「松村さんはいったい何を考えているんだ?」と、会員から不信感を抱かれることもありました。

私は、この厳しい状況から再生していくためには、理事会や事務局だけで事を進めるのではなく、会員が一丸となって当事者意識を持って組織のことを考える体制にならないといけないと思いました。
それまでは、給料を受け取っているスタッフがいたので、ボランティアは遠慮して会の運営にまで関わろうとしませんでした。
一方で、有給のスタッフも、経営上の非常事態にボランティアを巻き込むことについて、ためらいがあったのです。

しかし、追い込まれた状況になってもなお、優しさゆえに互いに譲り合っていたのでは、会を救うことができません。
そこで、総会に議決権のある正会員はもちろん、普段の活動を支えてくださっていたサポーター的な準会員にも、厳しい状況を説明する機会を設けました。

すると、会員の中に変化が起こりました。
事務所を手放すという理事会の決定に対して、「事務所を残してほしい、いや残したい」という声が相次いで出てきました。
そして、事務スペースは要らないけれど、会員が集まれる居場所は必要であり、そうした場があれば新たな情報発信もできるはずだと話は展開していき、ついには会員有志で、事務所として借りていた部屋をフリースペースとして運営することになったのです。
当面は、その有志が運営委員会をつくり、年間3万円をそれぞれ寄付して事務所の経費をまかない、自分たちで企画を持ち寄って運営することになりました。

こうした反応は、実は私も望んでいたことでした。
すべてをゼロに戻す方針を示したことで、それぞれがNPOとのつながり、仲間やスペースのありがたさが見えてきたのだと思います。

その後、設立以来、運営に関わってきた理事には交代していただき、理事会のメンバーを一新、フリースペースは横浜にある土間という意味を込めて「はまどま」と名づけ、さまざまなプロジェクトが立ち上がりました。
たとえば、神奈川の野菜市、その野菜で料理を作り食べる食事会、竹細工をはじめとした手仕事の講座、映画上映会などです。また、ホームページやメールマガジンなどの広報媒体は、多くの会員が参加型でつくるシステムに刷新されました。
以前は会費3,000円の準会員だったサポーターたちは全員、12,000円支払う正会員となり、多くの会員たちが会の一員としてアクティブに動き出すようになりました。
NPOとしての会計規模は小さくなりましたが、自主事業の数が増え、会員数やイベントへの参加人数は倍以上に増えました。
このときは私たちの厳しい決断が、予期せぬ嬉しい結果を招き、明るいセカンド・ステージへと移ることができたのです。


お話した2つの経験から私は、仲間とともに迷っているとき、困っているときは、次へと進むために、あえて踏み込むことが必要だと信じています。
そして、仲間とともに何か大きな決断をする際には、できる限りのことをおこなえば、一時的に辛いことがあっても、その先に幸いが訪れると信じています。
いや、信じられるくらいまで、できる限りのことをやっておくという方が正しいでしょう。

そして経験的には、たしかに踏み込んで良かったと思えるのです。
いや、自分から踏み込んでたどり着いた場所だから、それが意図せざる結果だったとしても、人智を越えたものの働きと思え、受け入れられるのだと思います。

人は常に優しくあろうとするものでしょうが、それが他者への遠慮となって、ついには無関心となってしまうこともあるでしょう。
しかし、私は他者とともに生きています。

他者は私の生き方と深く関わる存在です。
他者は、私に窮屈な生きづらさを与える一方で、無限の喜びをも与えてくれます。
そうであるならば、私は他者とともに豊かに生きるために、ときには、あえて深く踏み込んで他者と関わることが求められます。
そのとき、大きな力が要ることでしょう。そして、それは他者への信頼があってこそ実現できることです。

私たちに、そのような力が備わっているのでしょうか。
そうした際に必要な、次へと踏み込む勇気と、他者への愛が、私たちに与えられることを祈っています。

(2014年7月25日、恵泉女学園大学チャペルアワー感話原稿より)

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