1.協働とコーディネート
実行委員の一人なので企画段階から関わっていたのだが、どこかこのフォーラムには距離感があった。
それは、協働がどうあるべきかという問いに、あまり関心を持てていなかったからである。
そのように問いを立てることよりも、協働を当たり前のことと考える人が増えるようにしたいと思っている。
私が思う「協働」とは、社会課題を解決したり、社会的価値を創出したりするために、いくつかのアクターが資源(人・モノ・お金・情報)を持ち寄るという手段でしかない。
これまで、こうした公共的・公益的なサービスの提供者として行政機関が想定されていたが、それは社会課題が単純であり、社会の目標が画一的であり、しかも、行政が十分に資源を持っているときにしか実現できない。
つまり、それは普通ではなくて、例外と考えるべきだろう。
だから、今日においては、行政とNPO・NGOが協働するのは当たり前であっていい。
さらに、これまで公共的・公益的な活動の担い手から外されがちだった地縁団体や企業なども、当然に含まれるべきである。
自治会・町内会の加入率の低下、コミュニティの崩壊が嘆かれるが、NPOよりも圧倒的に多くの人びとは地縁団体に所属しているのだから、その地域内にネットワークは社会資源として大きなポテンシャルがある。
また、企業に務める従業員の数、一人ひとりの経験や技術、建物や敷地などを考えれば、ここにも公共的・公益的なサービスに活かせる資源が眠っているとわかるだろう。
こうした資源を、さまざまなアクターが持ち込める環境をどう作ればよいのか。
協働がどうあるべきかと問うよりも前に、まずは協働すること自体は当たり前の社会へと向かう環境整備が大切だと思っている。
そのためには、なるべく考えることを単純化したい。
そうしないと自分では考えきれないし、また、多様な人とも一緒に考えられない。
方向性としては、公共サービスを提供するための資源が集まる場を設ける。
資源はアクターに付いてくる。
アクターが団体であったとしても、やはり団体のなかの特定の人が鍵となる。
だから、人が参加したいと思える場をつくることが必要であろう。
そして、その場に集まる資源を活かしきるためには、いいコーディネーターが必要だ。
それでは、いいコーディネーターとはどういう人だろうか。
直観的に言えば、多様なかたちで表現される人びとのメッセージを聞き取れる人。
それは、人びとの力を信じられる人であり、愛のある人だと思う。
2.行政との協働
協働と言えば、まず行政との協働のことが想像される。
しかし、NPOを運営する者として、私は行政との協働に消極的である。
理想高く行政と対等なパートナーシップを組みたいとは思っていない。
理由を2つ挙げよう。
1つは、行政との協働事業を実施してきた経験があるものの、社会的に影響のある成果を残してきたとは言えないからだ。
これまでNORAでは、国(環境省)、神奈川県、横浜市、それぞれに対して協働事業を提案し、採択された実績がある。
しかし、過去の例では、人件費が出ることに惹かれて実施した面が強く、成果に対する考え方が甘かった。
このため、その経験がNORAにとっても社会にとっても、あまり活かされていない。
今であれば、もっと成果を出すために行政と協働事業を進められるように思うが、もう一つの理由から、あまり気が進まない。
その2つめの理由とは、行政は機関であって、人ではないからである。
どういうことか。
私が一緒に仕事をする一人ひとりの行政職員は、だいたい、とても優秀だし、まじめに仕事に取り組んでいるように見える。
(もちろん、なかにはまったく相容れない人もいて、今年もっとも大声を張り上げて怒鳴った相手は行政の職員であった。)
基本的には、信頼している。おそらく、平均的な日本人以上に。
今、私が信頼を置けていないのは、一般の市民の判断である。
特に、公共的な事柄をめぐる市民の考えである。
たとえば、NORAが行政に協働事業を提案し、採択されたとする。
その際、第三者的な市民からすれば、なぜNORAが選ばれたのかと気になるだろう。
そのとき、他社よりも安くできるからという理由ならば納得できるはずだ。
しかし、他社よりも質の高いサービスを提供できるからという理由だと、質の高さとは何か、数値を示して説明せよと言われかねない。
しかし、私はそういう誰にでも説明可能な第三者評価にさらされるよりも、そうした質の差異について議論し、質を高めようと努力できる有志たちと共に仕事をしたいと思う。
それは、ゆるやかに価値観を共有し、感性を磨き合える人たちである。
つまり、大量のエビデンスを持って説明できない関係ではなくて、あまり準備ができていなくても、アイコンタクトでうまくやれてしまうようなそういう関係で仕事を進めたいと思っているのだ。
もちろん、行政職員の中にも、個人としては協働したい人がいる。
それは、けっして少なくない数である。
しかし、行政と協働するときには、彼らは有志ではない。
ここで言う有志とは、リスクと責任を負っている個人を意味している。
今の私は、行政との協働よりも、ビジョンを共有してゆるやかにつながる有志連合に高い可能性を感じている。
3.コーディネーターのタイプ
みんなの協働フォーラムでは、分科会と全体会でコーディネーターを務めた。
自分の立ち位置が決まらないまま実行委員会に参加していたので、役割が与えられたとき、やっと当事者意識を強く持つことができた。
ただし、私は横浜市の協働事例をよく知っているわけではいし、また、この分野で専門的に研究しているわけでもない。
同じような状況で、まともな判断力がある人ならば、きっとこうした依頼を断るのだろう。
しかし、私は人からの依頼をなるべく引き受けるようにしている。
依頼されたときには、何か自分でもわからない理由がそこにあると考え、一回は試してみようと思う。
今回は、分科会も全体会も、ほとんど下打ち合わせはしなかった。
それは、自分が楽しむためでもあった。
コーディネーターには、大きく2つのタイプに分けられるように思う。
一方は、十分に準備して、思い通りの落とし所に議論を持って行くことが良いと思っているコーディネーター。
他方は、登壇者の息づかいを感じ、議論の流れを読みながら論点を示し、そこに意表をつく角度からコメントを挟みつつ、何か印象を残すことがあれば良いと思っているコーディネーター。
私は用意周到に準備することが苦手なので、前者にはなれない。
ゆえに、いつも後者をめざすしかない。
あまり自分が専門としていない分野だと、登壇者の話を必死に聞くことを出発点とする。
そして、登壇者が紹介する具体的な事例をもとに、いくぶん抽象度を上げて論点を整理したり、モデルを適用して比較してみたりする。
あるいは、意見の相違を明らかにして、議論をけしかけたりする。
つまり、データをもとにして論文を書くときに似た思考回路を働かせているのだ。
しかも、限られた時間で応答することが求められる。
それでも、やや興奮して感度が上がっているためか、ふだんは思いもしていないことが頭に浮かび、言葉が出てくる。
そうした言葉は、すぐに忘れてしまいやすいので、なるべく記録にとどめておこうと思う。
4.コーディネーターを務めた分科会・全体会
【分科会2:地域の中の「私」「公」「公共」】
★事例紹介者
栗林知絵子さん(NPO 法人豊島子ども WAKUWAKU ネットワーク理事長 )
根岸正夫さん ( 戸塚見知楽会 代表 / とつか宿場まつり実行委員会 委員長 )
★コーディネーター:
松村正治(NPO 法人よこはま里山研究所 理事長)
★インタビュアー:
山根誠(松見2丁目西部町内会 会長)
中嶋伴子(NPO 法人くみんネットワークとつか 職員)
★ワークショップファシリテーター:
吉原明香(認定 NPO 法人市民セクターよこはま 事務局長)
冒頭、この分科会の趣旨を説明する予定だったが、段取りが飛んで事例報告から始まった。
かつて芝居で同じ舞台に立っていた仲間が、台本1ページほどの台詞を飛ばしたときの光景が思い出された。
そのときも、後の話に繋がるようにどう台詞を繋いでいくか頭をフル回転させていたのだが、感覚が研ぎ澄まされたせいか、照明の光が異様にまばゆく感じられた。
ただし、そうした想定外の状況になると、私は困惑するよりも楽しくなってしまう。
その後は、あたかも段取り通りに進んでいるように演じる役者のような気分だった。
一人目の登壇者・栗林さんのお話はドラマティックだ。
プレイパークの関係で仲良くしていた中学生が、実は家庭内の問題を背負い込み、高校進学を断念しようか悩んでいると知ったことがきっかけとなり、学習支援、食事支援、こども食堂の開設へと活動を展開させてきた。
この発表をうかがって、「個人的なことは政治的なこと」というフェミニズム運動の古典的なスローガンを思い出した。
私は社会学者なので、「個人的なことを社会的なこと」と捉えたいのだが、個人的なことを自己責任として、その人のせいにするのではなく、それを社会の問題が現れとして見ることは、自己責任論が優勢になりがちな今日において大事な視点だと思う。
また、栗林さんが指摘されたように、子どもから大人まで、人生のライフコースに寄りそいながら見守り、支援できるのは地域であるという視点も重要だ。
さまざまな福祉制度があり、一人ひとりに対してサポートしている行政職員はいらっしゃる。
しかし、多くの行政職員には異動がつきものなので、長期的に寄りそうことは困難であろう。
このため、地縁団体、地域住民の重要性が、あらためて指摘されている。
悩ましいのは、一般に近隣の住民が互いに見守り、支えるという地域の機能は低下していることだ。
これをどう回復できるのか。
かつての地域コミュニティが備えていた福祉的機能と比較すると、不足している点が目立ってしまう。
コミュニティの監視が緩んだことにより、個人は多様なライフスタイルを楽しめる自由を得てきた。
物事の選択には、メリットとデメリット、光と影がともにあり、何かを得れば何かを失うものだ。
そう考えると、全戸加入が珍しくなく、加入率が低下しているとは言え、依然として高い自治会・町内会のポテンシャルは大きい。
その資源の大きさに目を向ければ、潜在的な機能を十分に発揮していこうという気持ちになれるだろう。
この分科会でコメントした山根誠さんが会長を務める松見町自治会では、全戸を対象にアンケートを配付した。
住民のできることとやってほしいことを聞いて、マッチングしていくミニボランティアセンターを立ち上げるという。
このように自治会からの強制ではなく、住民の自発性に基づいて地域サービスを向上させていくことは、現代の社会に適している。
私が所属する自治会では、盆踊りなどの定例行事の開催、共有施設の清掃・管理、共有地の草刈りなどを実施しているが、やらないといけないものばかりで、やりたいことを自発的におこなう余地がない。
自主的に参加できる場がないから、輪番制による義務の役割分担を決めるだけになっている。
潜在的な機能を掘り起こすには、アンケートによるニーズ把握、自主的な提案を受け付ける窓口の設置など、住民に向けて広く参加の扉を開けることが必要だろう。
一方の根岸さんのお話は、退職者による社会参加の好例と言える。
退職前に、生涯学習コーディネーター講座に参加。
その後、歴史を学ぶサークルに入り、地域で活動する多様な人びとと知り合っていく中から、コーディネーターとしての資質が開かれ、戸塚区民活動センターの「おむすび」の実行委員長を引き受け、さらに複数の行政機関をはじめ多様なアクターを巻き込みながら、盛大なまちづくりイベント「とつか宿場まつり」を実施するまでに至ったという。
この物語はそれ自体素晴らしいものであるが、もう少し分析的に事例を見ていくと、歴史サークルの会員がなぜまちづくりに深く関わるようになったのかという問いが浮かぶ。
実は、根岸さんが所属する地元の歴史サークルは、好事家ばかりが集まるやや閉鎖的なサークルと違って、学んだことを伝えることが団体の目的となっている。
それが、歴史サークルに公共的な価値を持たせて要因であった。
現代の社会には、生涯学習サークルが非常に多い。
多くは自分たちが学んだことを、自分たちの中だけで披露して楽しんでいるだろう。
しかし、これらが持つ資源は、公共的サービスを提供する際に、大きな力となるものが少なくないはずである。
それらが、サークル内で閉じるのではなく、社会のために活かすことができれば、もっと社会は豊かになる可能性が高くなる。
そのためには、生涯学習と市民活動を二分法的に峻別するのではなく、生涯学習サークルは社会変革の担い手と捉えて、その潜在的な機能を引き出すような支援が必要だろう。
さらに、根岸さんのお話でいいと思ったことは、かたちにとらわれていないことだ。
NPO法人化しないのかと問われると、会社員時代に形をつくるようなことはやり尽くした感があるので、今さらあまりやりたくないとおっしゃる。
また、行政を含む多様なアクターとの協働という実施体制については、自分たちのビジョンを実現するための手段というスタンスが揺らがない。
目的が定まっていれば、それに付随する人間関係の面倒は気にならない、気にしないという悠然たる構えだ。
考えるべきこと、やるべきことが非常に整理されている印象で、清々しく感じた。
根岸さんのような割り切り方とバランス感覚を持つコーディネーターは大事。
だが、少ないように思う。
分科会での報告・議論を通して、協働のポイントを箇条書きにメモしていたので、ここに転載しておく(だいぶ栗林さんの言葉に、かなり触発された)。
- 目的をともにする。
- 自発性を尊重する。
- 違いを認め合い、ゆるやかに繋がる。
- ニーズを明確に捉え、成果にこだわる。
- 具体的に考え、実践する。(実践できるようになるまで、具体的に考える。)
- 粘り強く、諦めずに行動する。
- おせっかいによってニッチを埋める。
- 自分の強みと弱みを知る。
- 何もできなくても、相談には乗れる。
- 情報を発信していく。
- 個人的と思われていることを、社会的な問題に捉えかえす。
【全体会2:協働NEXTステージへ】
全体会では、参加者に向けて、次のようなメッセージを発した(と思う)。
協働をテーマにしたイベントに参加しようと思う人(=参加者)は、すでにコーディネーターとしての経験や資質を持っているはず。
自分がコーディネーターであることを自覚すべきであり、人と人が出会う場づくりを意識的におこなうべきである。
水平的協働(民-民)と垂直的協働(公-民)という言葉を用いるならば、まずは、一人ひとりの自発性にもとづき何かを実践しようとする土壌づくりが大事。
しかし、一人ではできないことが多いので、まずは水平的協働により進めていく。
さらに、具体的な目標を実現するために行政との調整が必要であるならば、垂直的協働に取り組めば良い(→第2分科会)。
その際、協働の取り組み体制として、従来は市民団体と行政とのパートナーシップのみが想定されがちであったが、今日では、共同性を超えて公共的な性格を帯びる地縁団体、私益を超えて公益的な事業を展開する企業も協働の枠組みに入れて、公共的・公益的サービスの提供者層を厚くしていく必要がある(→第1分科会)。
そして、横浜市と協働しようとするアクターが幸いなのは、かなり前から協働契約のあり方を考える研究がなされており、特に子育ての現場から熱心な議論が積み重ねられていることであろう。
このような整理を念頭に置いて、協働の裾野を広げていくとともに、協働のあり方について理解を深めていくことにより、協働のネクストステージは切り開けるのではないか。いや、すでに新しいステージに突入しているはずである。
協働とは、異なるカルチャーによるぶつかり合いでもある。うまくいかないこと、ときには失敗することもあるだろう。
そこに与えられた正答はないのだから、試行錯誤によって、良い方向に進めていけばいいはず。
最初から完璧を目指し、100点でなければいけないと思うと、かりに協働の成果が50点では失敗となる。
しかし、最初からうまくいかないことを承知していれば、この50点を受け入れ、次に60点、70点と100点に向けて成長しようと努力できよう。
これは、最近の大学で盛んに導入されているアクティブラーニングである。
今日の社会では、アクティブラーニングを続けられることが、協働に取り組むためのポイントであろう。