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『語る歴史、聞く歴史』

昨年の夏、山梨から大量にブドウが届いたので、近くに住む社会学者の関礼子さんのお宅に、おすそ分けにお邪魔したことがあった。
このとき、インフォーマントの「語り」の解釈について話題となったので、関さんが研究代表者を務め、今年度から始動する研究プロジェクト「語り継ぐ存在の身体性と関係性の社会学―排除と構築のオラリティ」の概要に関して説明を受けた。

私の社会学的な研究は、ほとんどフィールドワークをもとにしている。
先行研究を読んだり、資料を収集したりすることは重要に違いないが、研究の肝になるのは、現場でさまざまな人びとから伺うお話、語りである。
ところが、この話し言葉というデータの扱い方については、これまであまり突き詰めて考えてこなかった。
方法論にこだわると、内省的になって自分を追い込んでいく予感があったので、質的調査に関する文献は積ん読傾向があった。

この日、関さんから説明をうかがったときは、前向きにオラリティ(話し言葉、声の文化)というキーワードで、これまでの調査データを掘り下げたいと思えた。
それ以来、日常の中で「語り」について意識して考える機会が増えている。

この流れの中に位置づけられそうな私の研究テーマは3つある。
1つ目は、2000年から通っている西表島の地域環境史だ。これまで私が調べてきた林業開発、農地開発、観光開発の事例などをもとに、先行研究を踏まえつつ、オリジナルの聞き書きをいかして書こうと思っている。
この構想は、西表島が世界遺産に登録されることを見越して、5年ほど前から抱いているものであるが、まったく進展していない。
その間に、「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」の世界遺産登録が今年の夏にでも決まりそうなので、時宜を逸することになりそうだ。
だから、公表するタイミングのことは考えずに、あらためて「語り」を考える機会にできればと思う。

2つ目は、多摩ニュータウンにおける「新しい社会運動」である。
約10年前から散発的に、ニュータウン開発初期の生協運動、反公害運動、図書館運動、自主保育活動など、いわゆる「新しい社会運動」に参加した当時の主婦を中心に聞き取り調査を実施してきた。
しかし、この調査の結果を公にすることなく時が経過し、昨年、何度かお話をうかがったキーパーソンを亡くした。

多摩ニュータウン開発に関しては、すでに細野・中庭編『オーラル・ヒストリー―多摩ニュータウン』(中央大学出版会、2010年)という本もあるものの、
これは主として開発した側の記録である。
また、開発前の情景を著した旧住民による手記もいくつかあるが、新住民の視点から記録されたものは乏しい。
これも、何かしらのかたちにすべく早く取りかかりたい研究である。

3つ目は、カネミ油症の患者さんの被害と暮らしである。
3年前に五島列島の福江島、奈留島で、カネミ油症の患者さんや関係機関などを訪ねる現地調査を実施した。
事前にカネミ油症関連の資料を集めて読んでみたところ、被害者救済に焦点を当てた研究に優れたものがあるものの、患者さんが広範囲にいらっしゃることもあって、たとえば、ジェンダーや宗教の観点や、他の被害者救援運動との関係など解明すべき研究領域が多いと感じた。
ただし、まだ研究を始めたばかりなので、まずは現地に通って、いろいろな話に耳を傾けることが必要である。

こうした研究計画を念頭に置きながら読んだのが、本書である。
この本は、「主に明治以降から現在に至る日本の近現代を対象にして、語ること、聞くこと、叙述することの歴史に照準を合わせた本」である。
取り上げられているのは、幕末維新の回顧録、『福翁自伝』、篠田鉱造『百話』、柳田国男と瀬川清子の民俗学、沖縄戦・東京大空襲などの戦争体験、植民地からの強制連行、女性の農家や炭鉱労働者の労働や生活の記録などだ。
欲を出せば、もっといろいろと取り上げたくなるだろうが、新書でカバーできる量は限られるので、著者の問題関心に応じて思い切ってポイントを整理した印象がある。
そのために、1つの整理の仕方として参考になるし、提示されている論点もわかりやすい。
たとえば、聞く側の行為としてのask, listen, take という分類や、体験を聞く歴史が成立する4条件の整理からも、思考を誘発される。

  1. 語り手と聞き手の信頼関係のあり様
  2. 聞き取りが成り立った条件、場についての自覚
  3. 先入観を捨てて語り手の語りに耳をすます
  4. 語りの意味を考え、聞き取りを叙述してかたちにする

同じようなことについて考えたことはあっても、言葉にして示すことの間には雲泥の差がある。
そういう点で、本書は今後の議論を促す好著だと思う。

けれども、私の心に一番響いたのは、著者の言葉ではなくて、『思想の科学』で聞き書きについて述べた鶴見俊輔の言葉だ。
明治期以降の「語る歴史、聞く歴史」をたどると、1970年代は聞き取りがひろがった時代であったのだが、この理由について鶴見は、次のように述べている。
すなわち、「自分の意見を言うという人間の型」に対して、「他人の意見をきくという人間の型」が重視されるようになったからであり、さらに、聞くということは「人との関係において生きる」ことだと指摘したのだ。
いかにも鶴見俊輔らしい明快かつ深い言葉で、考えさせられる。

もう一つ興味深かったのは、宮内泰介さんの『歩く、見る、聞く 人びとの自然再生』が言及されていたことである。
最終章になって急ぎ足で、しかもあっさりと触れられているので、著者の読み方に同意できるかどうかは留保したいのだが、「聞くといういとなみの中には、私たちが自然や社会とどう向き合うべきかについての示唆が含まれている」という、いかにも宮内さんらしい言葉が引用されているのは適切だと思った。
これも、いくらでも考えることのできる素敵な言葉だ。

この「人びとの自然再生」にからめてNORAの活動を深めるならば、都市近郊の里山の歴史を聞き書きによって掘り起こし、実際の里山再生につなげることを考えてみたい。
すでに、舞岡(横浜市)、山崎(鎌倉市)、宍塚(土浦市)などにおいて、里山再生とリンクした聞き書きの取り組みがあるように、人と自然のかかわりを再生させるためには、語り継ぐことの再生が必要なのだろうと思う。
これは、4つめの研究テーマとして、一緒に取り組む仲間ができてから取りかかりたい。

最後に、まとめを一言。
本書は、オラリティについて考えを深めようとしていた私にとっては、刊行時期がちょうど良く、今後の学ぶ意欲をかき立てられた。
人の話を聞いて、書くことに関心のある人に読んでいただきたい。

大門正克(2017)『語る歴史、聞く歴史―オーラル・ヒストリーの現場から』岩波書店.

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