『「自然」という幻想』

自然破壊とは、近代の負の産物である。
こう考える人は、近代化の影響が及ぶ前、人間は自然と共生していたように思われるかもしれない。
さらに、こう考える人が自然を守ろうとする場合、たとえば日本で言えば、燃料革命以前に、あるいはもっとさかのぼって、江戸時代の自然に戻すことを目標とするだろう。

しかし、環境史研究が教えることは、人間が地球上に広がっていった先では決まって人間の影響により自然が破壊され、大量絶滅が引き起こされたということだ。
人間による自然への影響を排除すべきと考えるならば、もっとはるか昔にさかのぼって、人間が初めてその地にたどり着いたときの自然の姿に戻す必要があるだろう。

ところが、そうした試みは必ず失敗する運命にある。
なぜならば、複雑な生態系の仕組みから人為的な影響だけを排除することが難しいうえに、この間に地球の環境状態自体が変動しているので、二度と「手つかずの自然」に戻すことはできないからである。


挑戦的なタイトルであるが、自然保護に向けた活動や考え方などについて、あらためて考える機会を提供してくれる本だ。
著者が強く批判するのは、「手つかずの自然」を守ろうとする考えであり、そうした自然に戻そうとする保護活動についてである。

これまでの自然保護の多くは、あるべき自然状態を想定して、その目標に向けて現在の状態を戻そうとしてきた。たとえば、米国の国立公園であれば、あくまでも「手つかずの自然」をめざすことを目標としてきた。
日本の場合、米国と違って「手つかずの自然」を目標とすることはしないが、在来種を善、外来種を悪とみなして、これを殲滅させようと膨大な手間と時間を掛けてきた。こうした活動を支えているのは、「もともとの自然」に戻すべきだとする自然保護の考え方である。
それは、燃料革命以前の姿を目標とすることもあるし、明治以前の姿が目標となる場合もあるだろうが、ある時点の自然に戻すべきと考えて保護活動をおこなわれてきた。

それでも、多くの場合、目標とする過去の自然を再生させることはうまくいかない。

それでは、うまくいかないのは、保全対策に問題があるのか、それとも目標設定自体に問題があるのか。

本書は、後者に問題があるという立場を鮮明に示している。
すなわち「基準となる過去の自然」に囚われているために、もっと効果の高い多様なアプローチを試す機会を逸しているというのだ。
たとえば、人工的に増殖させた生きものの再野生化(本書第4章に紹介されている再野生化の事例を扱った映画として『あたらしい野生の地―リワイルディング』がある)、希少種の管理移転、一部の外来種の保護などの対策である。

本書では、こうした多彩なアプローチも取り入れ、歴史的には存在したことのない新しい生態系(novel ecosystem)も目標にすべきだとする。
そして、費用対効果も踏まえて、現実的な目標を多様に設定して、チャレンジすることが推奨されている。

こうした著者の意図を伝えるために、翻訳した岸由二さんは、原書副題のrambunctious garden(ごちゃまぜの庭)から訳書副題を「多自然ガーデニングによる新しい保護」と意訳した。
ここで「多自然」という用語は、1990年代に広がった「多自然型川づくり」を意識したものであるという。

本書のような「手つかずの自然」を礼賛する自然保護への批判は、1980年代~90年代初めにもよくみられた。
当時、学問的にはランドスケープ・エコロジーが国内に紹介され、実践的にはヨーロッパから近自然(多自然)型工法が紹介されたりして、昔の自然を保存するだけではなくて、再生したり修復したり創造したりすることも含めて、生物多様性を豊かにするさまざまな方法が提案され、施工された。
そうした流れのなかに、1990年代はじめの里山の再評価も位置づけられることができるだろう。

ただし、当時書かれたものと本書との間には、人間が自然に及ぼす影響に対する見方に大きな違いが感じられる。
今日、私たちが生きている時代は「人新世の時代」と言われるように、人間の活動による影響が地質レベルに刻印されるほど、地球のすみずみまで行き渡っている。
つまり、今さら人間がどうあがいても、元の自然に戻すことはできないという諦観がある。
しかし、このような洞察があるからこそ、逆に新しい生態系に向けて世界各地で意欲的な実験がおこなわれ、そのなかには生物多様性を高めている例がみられるようになったのだ。
だから、本書の提言には事例に裏付けられた説得力がある。

訳者あとがきで、これまで里山をキーワードにした自然保護に否定的だった岸さんが、次のように語っている。

もし「里山」という言葉が小流域生態系を基本枠組とした水田・雑木林農業のような世界を主として示唆するのだとしたら、そこはマリスの唱導する新しい自然保護を日本列島に広げる、絶好の拠点となってゆく可能性ありと、いま私は考えるようになった

NORAが「里山」をキーワードに掲げているのは、まさにこの通り。基本的な考え方は近いと思われる。

しかし、岸さんが「里山」という言葉を避けてきた理由も、本書を読んでよく理解できた。
それは、里山保全の意味が、懐かしいありし日の里山の姿に戻すこととイコールだとされた場合、それは原理主義的な考え方に凝り固まり、自然保護の発想を狭め、多様なアプローチを放棄してしまうからであろう。

「里山」という言葉に何をイメージするのか。

過去の人間と自然の理想的な関係として、これを目標に時計の針を戻そうとするのか。
それとも、過去に戻ることはできないことを前提に、新しい考え方を取り入れ、あらためて自然と関わっていくためのシンボルとするのか。

もちろん、私は後者の考え方に立つ。

これまで失ったものの大きさを思い、その悲しみを噛みしめ、二度と戻らない絶望から、前に向く力が湧いてくる。

エマ・マリス(2018)『「自然」という幻想: 多自然ガーデニングによる新しい自然保護』思想社.

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