死にゆく愛する人へ

『新約聖書』「ヨハネによる福音書」16章20節~22節

20 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。


私は毎年1回、この礼拝でお話しする機会をいただいています。
ここ数年は、自分の生いたちなど、マイヒストリーを中心に話してきたのですが、今日は、自分のことよりも話しにくい面がある親のこと、特に母のことについてお話しする準備をしてきました。

このように申しあげると、タイトルを「死にゆく愛する人へ」としたので、母がもうすぐ亡くなるかの印象を与えるかもしれませんが、そうではありません。
現在78歳になる母は、60代半ばに移住した山梨の一軒家に、庭で少しばかりの野菜づくりを楽しみながら一人で暮らしています。

しかし、3年ほど前からアルツハイマー型の認知症を患っており、短期的な記憶はほとんど残りません。
病院の付き添いや紛失物を探すときなど、サポートが必要となっておりますが、さいわい近所の人たちが親身になって助けてくださっています。
先月の上旬は、大学病院での手術・入院の付き添いのため、私は1週間ほど大学を休みました。
住み慣れた家と環境が異なる病院に入ると、失踪したり、術後に付けられる管を外したりなど、予期せぬことが起こりうるからと、家族の付き添いを求められたからでした。
このように、今のところは、適宜、周りの協力に支えられながらも、基本的には自立して生活できていますが、もうじき介護認定を受けて公的なサポートが必要になるだろうという状態です。

認知症と聞くと、その病状は想像できても、生命には影響がないと思っている方も多いでしょう。
私も母が発病する前はそう思っていました。
しかし、認知症になると老化が速く進行し、最終的には死に至ります。
人による違いはありますが、余命は若年性認知症で7年程度、高齢者の場合、10~15年程度と言われています。認知症は死に至る病だと認識するべきでしょう。
そうであるならば、本人だけではなく、その家族も「死にゆく」ことを受け止めて、どう生きるのかを考えたいものです。

認知症高齢者と聞くと、人によっては生産性のない「社会のお荷物」と映るかもしれません。
けれども、その一人ひとりにはかけがえのない人生の過程があり、その人の存在をあらためて大事に考えたいと思います。
そこで、ここでは少し立ち入って、母のライフヒストリーをお伝えします。


母は子どもの頃、とても病弱でおとなしかったそうです。
母の1歳上の姉、私の伯母によれば、しばしば身体中にでき物が出きて、それが治らずに膿みになっていることが多かったといいます。

小学3年生のときには、ずっと微熱が続いたために、母は1日も学校へ行きませんでした。
母の父、私の祖父も身体が弱く、結核で長期療養することもあったので、母についてもただ学年を1年遅らせればいいと考えていたようですが、学校の勧めもあって、普通に4年生に進級しました。
算数で言えば、かけ算を習わないまま割り算を学ばねばならなかったので、勉強ではかなり苦労したと聞きます。

中学に入ると、数学はよくできたそうですが、数学の先生が成績のよい特定の生徒に個別に教えることがあり、それがえこひいきに感じられて面白くなくて、勉強には気持ちが向かなかったようです。

祖父はゴリゴリのマルクス主義の哲学者で、海外の哲学書を翻訳したり、文章を書いたりしていましたが、心臓神経症を患っており、当時は定職に就いていませんでした。
恵泉の中高がある経堂で大きな一軒家に住んでいたので、周囲からは裕福な暮らしをしているものと思われていたでしょう。
しかし、祖父の収入は限られ、家は借金を抱えていたため、母は家が貧乏だから今はしっかりと家事を手伝って、中学を終えたら早くお金を稼ごうと、高校には行かずに家政婦になろうと考えていました。
実際にお金持ちの友達の家に行き、お手伝いを紹介して下さいと頼み込んだところ、びっくりされて祖母に連絡があったようです。
中学時代には自殺願望も強く、祖父が飲んでいた睡眠薬を薬局で買って口に入れてみたり、死に場所を求めてさまよったこともあったと聞きます。

中学を卒業後、親の勧めで3年間通った高校も休んだりサボったり、さらに洋裁学校へも進学したようですが、洋服をつくる生地代を親にせがむこともできずに中退しました。
このように10代までの母には、明るい話題が乏しかったようです。

母が最初に勤めたのは新聞社でした。
その会社で働く人は男性ばかりで、数少ない女性だった母にそれほど与えられる仕事もありませんでした。
その代わりに、毎日のように男性社員から昼食をご馳走になり、夜は遅くなるとタクシー券で帰ったりしていました。

自分は甘ったれているなと思っていたとき、私の父と出会いました。
秋田生まれの父は幼い頃に母を亡くし、中学卒業後に上京して、業務用冷蔵庫のメーカーで働いていました。
母は、女性というだけでちやほやされる仕事を続けていてはいけないと思って新聞社を辞め、アルバイトを始め、家で洋服を作る仕事を請け負ったりしたそうです。
そして、学歴がなくとも一生懸命働く父に惹かれて、27歳のときに結婚したのです。

翌年、長男である私を、さらにその翌年、年子で次男の弟を産みました。
弟は母に似て子どもの頃は病弱で、よく熱を出して、夜に泣きわめくことも多かったです。
仕事を終えて帰宅した父が、弟が泣き止まないのを見て、「泣かせるな」と言葉を投げつけたことがあったようです。
この情景はその後もずっと許しがたい感情とともに母の中に残り続け、2人の子どもを育てるうちに自信を持つようになると、別れることを考えるようになりました。

私が3歳の頃、家族は町田市の玉川学園という坂道ばかりの街に引っ越しました。
車がないことには、買い物に出かけて重たい荷物を運んだり、子どもを病院へ連れて行ったりする際、とても不便なところです。
そこで母は運転免許を取ったのですが、それによって行動範囲が一気に広がりました。
子どものために美味しいものをと、また、本人も食べることが好きなので、食材を求めて車を走らせました。
卵はまだ市内にわずかに残っていた養鶏農家のAさんへ、タケノコと枝豆はBさんへ、トマトはCさんへという感じで、近所にスーパーマーケットがありながらも、直接農家へ買いに行っていました。
肉は遠くまで買いに行っていましたが、良質なのに安いからと近所から注文を集めてまとめ買いするので、肉屋さんもさらにサービスしてくれて、ますます大量に注文を聞いて購入するというありさまで、まるで仕入業者のようでした。
魚になると、プロしか足を運ばない川崎市内の市場に出入りする許可を得て、ここでも大量にまとめ買いしていました。
このように、食べものに対する執着心には、人並み外れたところがありました。

父の会社が倒産してからは、勤めに出るようになりました。
車の運転が嫌いではなかったからか、最初は宅配の運送から始まりました。
母の性分からすると歩合制の割合が高い方がよかったようで、次に始めたのはタクシーの運転手でした。
当時、女性のタクシードライバーは珍しく、会社で初めて女性を採用するときに入社しました。
しかし、会社の配慮で就業時間外にお客さんを乗せているときに、小さな事故を起こしたために辞めざるをえなくなりました。
次の仕事は、冠婚葬祭の互助サービスの営業マンを送迎するというものでした。
タクシーに比べると楽な仕事で、送りと迎えの間が暇だったので、上司の許しを得て試しに営業の仕事を始めたところ、すぐにトップクラスの営業成績を上げ、それが災いして陰湿なイジメに受けて、これも辞めました。
そして、たどり着いたのが、人を助ける仕事です。

先に始めたのは、高齢者の訪問介護でした。
今は廃止されたホームヘルパー2級の資格を取り、その頃は母の実家の経堂に住んでいたので、世田谷区内の家一軒一軒を自転車で回っていました。
その後、どういう経緯か、自立生活を目ざす障害者の介助サービスと出会い、これを山梨に移住して仕事を辞めるまで長く続けていました。

私は、子どもを産んで母親になってからの母しか知らなかったので、ずっと強い人だと思っていました。
だから、二十歳頃だったか、やはり二十歳頃の母の写真を見たとき、神経質そうな堅い表情で映っていて驚きました。
私が40代になって、今日お話しした母の生いたちを初めてじっくり聞くことがあり、その写真に映っていた表情を思い出しました。
あの病弱で、内向的で、人一倍ナイーブで、人に甘えるのが下手な女性にとって、年子の男の子を2人育てるのは大変だったのだろうと思います。

さいわい、私が幼少期を過ごした二軒長屋が並ぶコミュニティには、お世話好きな方が近所にいらして、緊急時には子どもを預かってくれるなど、何くれとなく母の子育てをサポートしてくれました。
また、それは子どもたちにとってもありがたい存在で、家で火遊びをしたために母に猛烈に叱られ、パンツ一丁にされて真冬の夜空の下に放り出されたことがありました。
現代の感覚からすれば虐待と言われるでしょうが、そのときは近所の方が私たちのことを心配し、母を説得してくれて、家に入ることができました。

子育てに関しては極端なところがあって、私と弟は一年中、半袖半ズボンで過ごしていました。
勉強に関しては、強制するタイプではなかったですが、私が塾に行きたいとせがんで通うようになったのに勉強しないでいると、すぐにテキストをひもで束ねて廃品回収に出してしまうような人でした。
母いわく、「自分で勉強すると言ったから塾に行かせているので、やらないなら捨てます」という感じで、自分で決めたことには責任を持つようにしつけられたように思います。
私が進学や就職・転職などに際して、相談せずに決めてから伝えると、母は「どこに行っても挨拶をするように」と言うだけで、ほかに何も言いませんでした。

一方で、母もまた、私たちと相談することもなく離婚を決意し、事実婚でしたが再婚をして、職を転々とし、60代半ばには、「経堂では鶏を飼うことができないから田舎で暮らす」と言って、山梨へ移住しました。
移住後は、宣言通り数十羽の鶏を飼育し、庭を開墾した畑に鶏糞をすき込んで、大量の野菜をつくっていました。
鶏の卵は、地域に溶け込むには抜群のツールとなり、卵とお米や家で作っていない野菜などを物々交換しながら、地域に居場所を作っていきました。

しかし、5年前にパートナーを亡くし、3年前から認知力に陰りが見え始め、最近はすっかり気力さえも衰えてきました。
以前は、食材を追い求めて手料理を振る舞うのが好きだったのに、今ではその相手もいないですし、山梨から車で3時間くらい掛けて都心まで食事に出てくることもあったのに、「もう一生分食べたから、食べたいものがない」と、食欲すら湧きません。
ほんの数年前までは、元エグザイルの清木場俊介のライブのために、車で3-4時間かけて東京や名古屋の会場まで足を運んでいたのに、長距離の運転ができなくなったためもあるでしょう。まったく、外へ出かける気持ちが起こりません。

もともと記憶力には難があって、自分で置いた車のキーが見つからず、「車のキーがない、車のキーがない」というのが口癖だったのですが、認知症を患ってからは、車のキー、玄関の鍵、リモンコンなどを、一日中家の中で探し続けているような状況です。
それでも、「私の車のキー知らないかしら?」と近所のお宅を訪ねると、一緒になって探してくれる人がいらっしゃいます。
本当にご近所の方々には恵まれていて、毎月3-4日程度必要な通院の付き添いにも、代わる代わる病院へ一緒に行ってくださっています。
周りがほっとけないということもあるはずですが、これもまた母の人柄なのだろうと思います。

現在、私は2ヶ月に1回くらい、母のもとを訪れています。
そのたびに、母は「子ども」みたいな人だと思います。
子どもやペットを見ては、近づいていって声を掛け、連れている親御さんや飼い主と親しげに話し始めます。人づきあいは分け隔てなく、力の弱い者に優しいのは変わりません。
一方で、人がトイレに入ると扉を外から押さえて出て来られないようにしてみたり、目を離したすきに物陰に隠れてみたり、わかりやすい悪戯で、周囲を喜ばせたいという気持ちも変わりません。
ソフトクリームが好きだからと、冬場でも売り場を見つければ買い求め、「寒いからやめた方がいいんじゃない?」と言えば、構わずお代わりまでします。
人の言うことに縛られず、好きなことを追究するという姿勢は、今でも変わらないです。

思春期の頃は、こうした母の「子どもっぽさ」が、うっとうしく感じられたこともあります。
しかし、今になって思うと、誰彼に遠慮することなく、自分の思うことを、できる限り追求してきた母の生き方を、スゴいなぁと思っています。
特に、若くて自信を持てずにいた頃の母を思うと、正直に頑張って生きてきたんだなぁと、余計に強く感じます。
そして、この尊敬すべき人が、広い世界のもっとも身近にいて、今ともに生きていることを、本当に幸せなことだと噛みしめています。

冒頭に引用した聖書箇所「ヨハネによる福音書」16章20節~22節は、イエスが十字架にかけられる前に弟子たちに語った部分です。
愛する人を失う不安や想像はできないし、悲しみに暮れることになるけれど、ともに過ごしてきた時間の豊かさによって、いつか喜びに変えられるというメッセージだと受け止められます。
これまで述べてきたことから、少なくとも母に関しては、いつか来る悲しみを喜びに変えられると思っています。


クリスチャンではないのですが、最後に、短くお祈りをさせてください。

神さま、本日は、この礼拝で「死にゆく愛する人へ」と題し、現在病気を患っている母のことを思い、話す機会をいただき、感謝いたします。
現在、私のような立場で、家族を思い、仲間を思い、いずれ来る別れについてどう受け止めればよいのか悩んでいる人も多いと思います。
しかし、命ある人間は必ず死を迎え、人は人との別れを避けることはできません。
それぞれの別れはつらく、悲しみを伴うものですが、それまで過ごした一人ひとりの人生と、その人の存在という事実を胸に刻むことはできます。
そのようにして、それぞれの別れの後に豊かな再生があることを、信じさせてください。

また一方で、現実の社会には、誰にも看取られず、人知れず亡くなる方も少なくありません。
それでも、一人ひとりの人生が、生命が、確かにこの世にあったこと。そのことが蔑ろにされることのないように、私たちを見守りください。

この感謝と祈りを、イエス・キリストの御名を通してお献げいたします。

(2019年7月9日、恵泉女学園大学チャペルアワー感話原稿より)

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