答えのない人と人のあいだ

『旧約聖書』「箴言」4章25節

目をまっすぐ前に注げ、あなたに対しているものに まなざしを正しく向けよ


おはようございます。教員の松村です。
学内では、環境社会学や持続可能社会論といった環境系の授業科目のほか、ボランティア学習プログラムであるCSLを担当しています。

ここで少しCSLについて紹介しますと、CSLとは、コミュニティ・サービス・ラーニング(Community Service Learning)の略で、学生が地域のボランティア活動に参加し、その体験をふりかえることで学びに変える体験学習プログラムです。
たとえば、児童館で子どもたちと一緒に遊んだり、高齢者施設でお年寄りの話し相手になったり、障がいのある方の生活を支えたり、地域の方と花壇の手入れをしたりなど、学生たちはボランティア活動を通して、地域社会の課題や支援の実状を学び、自己の成長に役立てています。

学生がCSLの単位を取得するには、7日間以上かつ36時間以上のボランティア活動に参加することを条件としています。
私はこのCSLの担当教員として、学生のボランティア活動をコーディネートしているので、まとまった時間のボランティア活動を終えた学生たちと、しばしばふりかえりのための面談をおこないます。

面談中、活動中に苦労したことはなかったですか?と尋ねると、決まって学生たちは相手との関わり方、距離の取り方が難しかったと答えます。それは、相手が、お年寄りでも、子どもでも、障がい者でも、外国にルーツのある人であっても、同様です。

たとえば、児童館に来ている子どもと言っても、一人ひとり、それぞれに違いがあります。話すことができない幼児、「遊ぼう!」と駆け寄ってくる小学生たち、その後ろで一人で暇を持てあましているように見える女の子、口の悪い子や噛みついてくる子もいます。学生たちもまちまちで、すぐに子供たちと仲良くなって、元気に遊び回ってみたものの、無尽蔵の体力に半ば呆れて、それでも遊び相手になり続ける学生や、やや消極的な子供たちのことを気にして、そういう子どもと静かに遊ぶことを大事に過ごす学生など。

そういう状況における基本は、相手の求めを理解し、相手のできることを見守り、できないことを支えることなのでしょう。しかし、そのことを頭では理解しつつも、いったいどう関わるといいのかと悩む場面に出くわします。

たとえば、相手がしてはいけないことをしたときに、どのように注意すべきなのか。当事者の間の関係が悪くなったとき、どのように介入するべきなのか。そうしたことを、いつも以上に脳を働かせながら行動し、その経験を次の活動日に生かすことを繰り返していくのです。活動を始める前は、子どもや、お年寄りや、障がい者、外国にルーツのある人などという言葉で、それぞれをひとまとまりのイメージとして理解していたつもりだったものが、それぞれに異なる一人ひとりと出会うことで、その多様性にふれて驚き、一人の人間として向き合い、自分自身が試され、磨かれます。

活動を始める前は、相手から受け入れられるのか不安を抱えていた学生たちが、活動を終え、経験をふりかえって確かな言葉で話すとき、そこにたくましさが感じられるのです。


さて、このような他者と出会う体験を通した学びとは、学生だけが実践するものではありません。
一人の人として、一人ひとりの人とどう関わるのか。
これは、人と人の間に生きる人間として切実な、普遍的な問いです。
おのずから私もまた、この問いに日々向き合っています。

たとえば、大学教員として、学生の成長しようという思いをどのように理解し、自主性や能力をどう引き出せばよいのか。あるいは、息子として、認知症を患っている母の今後の暮らしについて、次第に状況を理解することができなくなっていくなかで、生活の質を維持するために、本人の意志をどこまで尊重すべきなのか。

しかし、こうした問いに対しては、基本的な考え方はあっても、正解はないのでしょう。
だから、正解に近づこうとすることはできるし、そうすべきだけれど、原理的に到達できないので、答えを求めすぎると無理が生じるように思います。
悪くすると、心や体を深く傷つけてしまう。それは、相手も、自分自身も、ですが。

それでは、なぜ、こうした問いに答えはないのでしょうか。
それは、この問いが他者に開かれているから、だと思います。
ここで他者とは、自己とは異質な固有性や異質性を持つために、つまり、他者を他者たらしめている他者性によって自己とは区別されることを、あらためて確認しておきましょう。
このために、他者とかかわるときに踏み込んでいく領域には、自分にとってはコントロールできない部分を必然的に含むものです。
この絶対的な限界があるために、私たちは悩む。ときに、いら立ち、苦しむことになります。

しかしもちろん、他者とのかかわりは、悩みや苦しみをもたらすだけではありません。
了解が不可能な領域だからこそ、お互いに理解し、心が通じ合ったと思えたときには、この上ない歓びを感じることができます。

社会学者の見田宗介は、このように歓びも悲しみももたらす「他者の両義性」を原的な出発点として、社会のあり方を構想しています。
私も、この両義性をしっかりと把握するところから、まずは自分の生き方を考えたい。
そして、人と人の間に生きる私たちの生き方について、仲間と話し合いたいと願っています。
しかし、このように方針が定まったとしても、自分が思うようにできるかは別の問題です。考えることと、できることの間には、大きなギャップがあるものです。


ところで、最近の日本の大学教育では、「答えのない問い」がキーワードとなっているようです。
かつて、欧米社会に追いつけ追い越せと、国を挙げてその背中を追うことで幸せになれると、人びとに信じられていた時代は、多くの問いに早く正確に答える人材を育てようとしてきましたし、こうした教育観が妥当でした。
ところが、バブル崩壊後、ほとんど経済が成長しなくなる一方で、少子高齢化や過疎化などの課題先進国とも言われる現在の社会では、多様な主体が協働して、そうした課題に取り組むことが求められています。私たちが生きる社会にはボトムアップで解決する力が必要だから、「答えのない問い」に積極的に取り組む学生を育てようという声が急速に拡大しています。

しかし、すでにお話したように、「答えのない問い」がなぜ答えがないかというと、その多くは、他者性を含むために原理的に答えられない性質のものだと思います。
このため、「答えのない問いに答える」という最終解決を目標とすると、無理が生じる場面もあるだろうと危惧しています
さらにまた、そのような問いに挑戦する学生が、大学の中だけで育つのかと考えてみると、かなりの疑問を抱いています。

まずもって、大学の教員とは、基本的に各専門分野の研究者です。研究成果を発表し、学術論文を執筆することによって評価され、教員となった人がほとんどです。
教員は、論文を書く際に、自ら問いを立てて答える経験を繰り返してきたので、答えられるように問いを立てることに長けています。

そうした特長が、もっともよく発揮されるのは、卒業論文の作成をサポートするときでしょう。
教員は、学生指導の多くの時間を、どのように問いを立てるかに集中させます。なぜなら、教員にとってはその点こそが得意だからであり、また、そうしないと論文がまとまらず、提出の締切に間に合わなくなるおそれが生じるからです。

ところが、学生一人ひとりが考えていること、考えたいことは、到底私の手に負えるものではありません。つねに他者とは、私を大きく超え、はみ出しています。
だから、論文作成のプロセスに付き合っていると、決まった時間内に形式の整った文章を書くために、学生の持つ潜在的な魅力を削いでいると痛みを感じることもあるのです。


私が大学教員になった経緯をふりかえってみると、小学高学年の頃に受験勉強したことに遡れます。
当時は算数が得意で、自分で答えを確かめられるから、好きでした。
算数の場合、計算をして答えを出した後、その結果を確かめる検算ができる問題が多くあります。つまり、答えから逆算して問題にたどり着けるならば、その答えは正解でしょうし、最初に解いた解き方とは違う解き方で解いてみて、同じ答えが出たら、まず正解だろうと思います。こんなふうに、答えを自分でチェックできるから、好きでした。
その頃は、正解にたどり着けたことに快感を覚えたものです。

ところが最近は、当時の自分が今の自分と同じ人間だと思えないほど、自己完結できる問題を解くことにまったく魅力を感じません。もちろん、AI人工知能が発達して、こうした問題は瞬時に解けてしまうからという時代背景もあるでしょう。
しかし、それよりも年齢を重ねて、自分ができることの小ささを思い知り、気力と体力が衰えていくなかで、あらためて人間とは人と人の間に生きるものだと感じてからだと思います。
いまの私は、人間社会を超越する普遍性を求めるのではなく、私とかかわる人びととの関係について、そのあり方を考えたいのです。

そして、そう考えてたどり着きたいのは、正解ではありません。

人が「正解のない問い」について悩んでいるとき、一般的な答えを示してくれる「正しい」人がいます。当人が悩みを解決したいと切実に訴えている場合は、それでいいこともあるでしょう。
ところが、当人がその悩みを大切なことだと考えている場合、そうしたアプローチは適切ではないと思います。
身も蓋もない「正しい」答えは、その悩みから生まれるはずの対話の芽を摘み、関係を遮断するものだからです。
正義感あふれる「正しい」人は、相手の悩みに耳を傾けて、丁寧に聞くことよりも、自分から答えることに前のめりになっていることが多いように感じます。
対して、悩みを聞いて、ともに考えるところから始まるコミュニケーションには、悩んでいる当人の世界観を変え、うまく悩めるようになる可能性が含まれているものです。

問いとは、答えて終わらせるよりも、抱えて考え続けて生きる方が、大事なことがあると信じています。それは、原理的に答えられない問いに答えてしまうと、必ず少しの嘘が含まれるからです。

ときに、それは必要な方便となるし、とりあえずの答えを出せと迫られることは多いのも現実です。
だから、生きるためには、仕方ない、とも言えます。
しかし、そのときに感じる痛みこそが、自身を成長させるはず。
そう信じて、私は私の周囲の人びととかかわっていきたいなぁと思っています。
さしあたっての答えを出し、違和感をもとに考え、また暫定的に答えるということを繰り返す。
これを続けていくという人間の条件を引き受け、等身大に生きたいものです。

冒頭に引用した箴言4章25節には、「目をまっすぐ前に注げ、あなたに対しているものに まなざしを正しく向けよ」とありますが、私はこの言葉を、他者との交わりのなかから、相手のことを勝手に決めつけずに、心を拡げて学ぶ態度として捉えました。
もちろん、これまで話したように、ここにある「正しく」をめぐっても、つねに何が正しいのか、考え続けることになるはずですが、それこそが私のライフワークであり、生涯学習であると思います。


最後に、私はクリスチャンではないのですが、短くお祈りをさせてください。
本日は、この礼拝で「答えのない人と人のあいだ」と題し、CSLを履修している学生とのコミュニケーションから考えたこと、私が思う人としての生き方や学び方について話す機会をいただき、感謝いたします。

現在、私を含む多くの人びとが、家族や友だちの関係や、仕事の付き合いの上で、人と人のあいだに生きることの難しさに直面しています。
その中には、相手との距離感、関わり方をめぐって悩み苦しみ、心や体に傷を負っている人も少なくないことでしょう。
しかし、私たちは人と人のあいだに生きることから目を背けることはできません。どうか、人と人のあいだに生きることを諦めない力を与えてください。また一方で、同じこの世の中には、他者のことをわかったようにして、一人ひとりの顔を見ず、一人ひとりの声を聞かず、人として人に出会い損ねていることもよくあります。
その中には、自分の世界に閉じこもり、他者を傷つけているのに気づかずにいる、本人にとっても相手にとっても、残酷な場面も多く見られます。
そうしたときにも、人と出会い、他者との付き合い方を考える先に、人と共に生きる歓びと豊かさを気づく機会を与えてください。

一日中、人と話すことなく過ごすことができる現代の都市社会に生きる私たちが、不完全であるがゆえに、いつまでも答えのない問いを、楽しく求め続ける人間として生きられるように。
この感謝と祈りを、イエス・キリストの御名を通してお献げします。

(2019年11月29日、恵泉女学園大学チャペルアワー感話原稿より)

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