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里山保全運動

森林系の百科事典の項目の1つとして、「里山保全運動」について執筆するよう依頼された。
編集委員の期待に応えるべく書いたが、最大公約数的な内容ではないし、個人の解釈がかなり入っている。
事典項目を書いたというより、この運動movementにかかわった人びとに献げる詩(うた)を書いた。


1980年代、里山保全運動は自然保護運動の新しい形として登場した。
この運動は、守ろうとする対象と守るための手法の両面で、従来とは大きく異なっていた。

1960年代後半、日本では高度経済成長のひずみとして公害や自然破壊が社会問題となり、国民の自然保護・環境保全への関心が高まって、70年代には公害反対や自然保護をめざす運動が拡がった。
当時の自然保護運動では、一般的に原生自然を保存することが理想とされ、人間の影響を排除して自然の遷移に任せることがよしとされた。
このため、森林の場合、原生林や鎮守の森を保護する必要性は理解されても、人びとが手入れをしてきた身近な里山が保護すべき空間であるとは認識されていなかった。

里山という対象

かつての里山は、薪炭林・農用林として管理され、人びとの生活・生業を支えていた。
ところが、日本ではおよそ昭和30年代(1955年~64年)に、燃料は薪炭から化石燃料へ、肥料は堆肥から化学肥料へと置き換わり、里山は利用価値を失った。
その後、里山は管理を放棄されて質的な劣化が進む一方で、住宅や工場等の開発により量的な減少も進行した。

自然保護運動の中で、最初に「里山」という用語を意図的に用いたのは大阪自然環境保全協会とされる。
この団体は、大阪南港野鳥園の開設運動を支えた市民が中心となって1976年に設立され、箕面(みのお)に生息するニホンザルをはじめ、野生動物の保護運動に取りかかった。
その実態調査の結果、「里山」と呼ばれる都市近郊の低山帯に多くの野生動物が生息していることが明らかになり、80年代前半から自然保護運動の戦略上「里山」を積極的に用いるようになった。

1980年代後半には、自然を評価する上で生物多様性の視点が重視されるようになり、里山の学術的な再評価も進んだ。
2001年の環境省調査によれば、絶滅危惧種が集中して生息する地域の多くは、原生的な自然地域よりもむしろ雑木林のような二次的自然であること、つまり里山地域であることが明らかになっている。

保全という手法

定期的に手入れされてきた里山を保全するには、継続的に人びとが管理することが必要である。
しかし、燃料革命・肥料革命以降の里山では、人間による働きかけが希薄になったり途絶えたりしている。

このアンダーユース(過少利用)問題に関連して、1990年代を通して、市民ボランティアが管理活動に参加する里山保全運動が全国に波及していった。
この運動は核となる組織が主導したのではなく、身近な地域の自然を守るために人びとが各地の保全活動に参加していった結果、大きなムーブメントになったのである。

この運動の意味を理解するには、里山保全運動の象徴といえる「まいおか水と緑の会」の事例を参照するとよい。
この団体は、のちに舞岡公園(横浜市戸塚区)として整備された里山を守るために1983年に結成された。
当初は、谷戸を埋め立てて芝生広場にするなど、標準的な都市公園がつくられる計画だったが、この団体は横浜市から公園予定地の使用許可を得て、自分たちの手で休耕田を復元させ、雑木林を管理し、農芸活動や環境学習などを実施した。
体験型プログラムを開発し、管理運営のノウハウを蓄積した経験をもとに代替案を示した結果、多くの提案が反映されることになった。
さらに、1993年の開園後から現在に至るまで、この運動を母体とした市民団体が舞岡公園の管理運営を継続的に担っている。

この事例は、人びとが里山型の公園づくりを進めながら、時代に合った形で自然との関係を結び直したものと解釈できる。
つまり、里山保全運動とは、人びとが自然に手を入れながらコミュニティをつくる当事者となり、現代のコモンズとも呼びうる「みんなのもの」を主体的につくりだす運動でもあったのである。

環境政策と里山保全運動

1990年代に全国に拡がった里山保全運動は、人里に近い森林(里山林)だけを対象とするのではなく、いつしか田畑・ため池・茅場なども含む農村景観全体を指すようになった。
この「里の山」から「里と山」への概念の拡張は、かつて人びとが継続的に管理していた二次的自然を一括して呼べる言葉として、ムーブメントの伸展とともに広く受け入れられた。

2000年代に入ると、「新・生物多様性国家戦略」(2002年)のなかで、日本の生物多様性を保全する上で里山が重要な空間であると位置づけられるなど、環境政策においてもアンダーユース問題が浮上してきた。
この課題に対して、全国の各自治体は、里山保全に取り組むボランティアを養成し、手入れが行き届いていない公有地の管理を進めようとした。
しかし、この取組みでカバーできる範囲は、管理を必要とする里山の面積と比較するときわめて限られている。
さらに、2010年代になるとボランティアの高齢化が深刻な課題となり、里山保全にボランティアを活用するという政策はほとんど成功していない。

1990年代に里山保全運動が拡がった理由は、従来の自然保護運動と比べて対象としても手法としても斬新で、人間と自然の関係性を主体的に切り拓ける道が示されたことにあったのだろう。
しかし、その回路が行政によって生物多様性保全という観点からのみ評価され、国を中心とした環境政策のなかに回収されると、市民参加でコモンズを再生させようとする運動のポテンシャルは削がれてしまう。

2010年代の里山では、里山資本主義という言葉に象徴されるように、ボランティア活動を推進するのではなく、企業のCSRや環境ビジネスなどと結びつけて仕事をつくろうとする動きが強まった。
かたや、新しいコモンズとして里山を現代的にいかすコミュニティづくりの試みは、エコビレッジやトランジション・タウンなどの運動のなかで展開されている。

松村正治(近刊)「里山保全運動」「森林学の百科事典」編集委員会編『森林学の百科事典(仮)』丸善出版.


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