立場性

日本の環境社会学は、環境問題を扱う諸科学のなかで、被害者・居住者・生活者の視点から問題に接近する点に独自性があるといわれる(飯島編,1993)(⇒「生活者の視点」「被害者の視点」)。また、生活環境主義の提唱者たちは「当該社会に生活する居住者の立場に立つ」と宣言する(鳥越編,1989)(⇒「生活環境主義」)。もちろん、こうした表現は被害者・居住者・生活者の肩を持つことと同義ではない。研究対象とする環境問題の意味を、こうした人びとの視点から内在的に理解し、社会的現実にもとづいて解決を図ろうとする科学的な態度の現れである。

ポジショナリティと知の政治性

立場性はポジショナリティ(positionality)の訳語であり、位置性と訳されることもある。この概念は、研究者の方法論上の立場が学術的な知識生産にどのような影響を及ぼすのか注意を促す。たとえば、ジェンダー、エスニシティ、ポストコロニアリズムをテーマとする研究では、西洋の男性中心的な支配する知のあり方や言説の政治性が批判され、誰が誰に向けてどの位置から何を語るのかという研究者の立場性が厳しく問われた。

日本の環境社会学研究では、1980年代後半~90年代前半の学問としての輪郭を形成していく時期に、研究者の立場性が盛んに議論された(鳥越編,1989;飯島編,1993)。当時の社会科学の方法論では、自然科学を模範とする実証主義的な認識論が支配的であった。実証主義では、自然現象と同様に社会現象も研究者の知識とは独立して存在しており、客観的に把捉できると考える(野村,2017)。しかし、公害・環境問題に向き合った環境社会学者は、たとえば被害者と加害者では立場の相違によって状況の解釈がまったく異なること、何が被害であるのかという基本的な定義でさえも両者の間で合意できないという問題に突き当たった。

加害者の立場からは、被害状況を積極的に究明しようとはしない。加害者として法的に責任を問われたときでも、補償すべき対象として了解されるのは被害の総体の一部に限定される。すなわち、流出した汚染物質の量がいくらで、それがどの程度体内に摂取されたのか、観察される身体症状との因果関係は明瞭であるかなど、客観的に計測できる数量データから被害を把握しようとする。対して被害者は、健康が冒されたという現実に直面しても、自らがこうむった被害を算定して因果関係を立証することは困難な場合が多い。また、そもそも当人にとっては健康被害だけが被害ではない。家族内の役割が担えなくなる、生活設計が狂う、家族や住民同士がいがみ合うなど、外在的な指標で既定される「被害」からはこぼれ落ちる個別具体的な苦悩を抱える(友澤,2007)(⇒被害構造論の基本図式)。

第三者という立場

宇井純が「公害に第三者はない」と喝破したように(宇井,2014)、加害者が社会的・経済的に支配する力を持ち、加害者と被害者の間に圧倒的な非対称性が存在している状況では、両者の利害調整に配慮しようとして中立的な立場に立つと、その立場性はおのずと加害者を利することになる。日本の公害・環境問題の歴史をひもとくと、行政は形式的な中立性を重視するために、しばしば被害の全体像が究明されず、被害者の救済は進まなかった。学術的な専門家も科学的な中立性に固執するあまり、あるいは中立性を装うことによって、問題の解決を妨げるケースが少なくなかった。

鳥越皓之は、1980年代の琵琶湖総合開発をめぐる紛争の現場で地域コミュニティにどう迫ればよいかと探るなかで、実証主義的な科学観を採らない環境史という方法に着目した。アメリカ先住民の立場に立てば西部開拓史は滅亡史であることを踏まえれば、環境問題に第三者の立場などあり得ない。鳥越はこう主張した上で、地域の環境はそこに住む人びとの日常知によって支えられていると考え、居住者の立場に立って環境史を理解する生活環境主義を提唱した。そして、生活者の立場から捉えられる環境認識を明らかにし、当該地域コミュニティが抱える問題を内在的に理解しようと努めた(鳥越・嘉田編,1984)。

立場性を問い続ける

そもそも、社会学は学問上の特徴として、物事の意味はさまざまな関係性によって決まるもので、歴史的・社会的な文脈によって変化すると考えると同時に、研究者は社会の外的視点に立つことは原理的に不可能であると自覚している。このため、社会学は自然科学と同様の方法論によって客観的に社会事象を認識しようとするのではなく、対象社会の内部に属しながら多元的な意味世界の探究を通した「客観性」への到達をめざす。このときの「客観性」は実証主義的なそれとは異なり、研究者が提示する仮説的な解釈をもとに、対象社会とのコミュニケーションを通して、広く了解できる新しい意味や価値を発見していく公共社会学への志向性と重なるものである(盛山,2013)。

日本の環境社会学が蓄積してきた立場性の議論は、研究者が公害・環境問題の現場に足を運び、その問題にどう取り組めばよいかという切実な問いから生まれた。したがって、被害者・居住者・生活者の視点から環境問題の社会事象をみることは、当時の歴史的・社会的な文脈とともに理解すべきであり、普遍的な方法論の公式ではない。たとえば、加害者の立場から環境問題にアプローチすることで得られる知見は少なくないだろうし、被害者の立場に立って生産された知識が公衆へと開かれず、閉鎖的な知の支配層の間で再生産されることもありうる。

したがって、環境社会学における立場性の議論はつねに開かれていなければならない。学問が成立してきた経緯から、これまで研究上の立場と知識生産の間の再帰性に批判的なまなざしを向けてきたように、研究者は自らの方法論について、特に認識論上の立場性について問い続けるように求められる。

引用参照文献一覧

  • 飯島伸子編 1993.『環境社会学』有斐閣.
  • 野村康 2017.『社会科学の考え方:認識論、リサーチ・デザイン、手法』名古屋大学出版会.
  • 盛山和夫 2013.『社会学の方法的立場:客観性とはなにか』東京大学出版会.
  • 友澤悠季 2007.「『被害』を規定するのは誰か:飯島伸子における『被害構造論』の視座」『ソシオロジ』51(3): 21-37.
  • 鳥越皓之編 1989.『環境問題の社会理論:生活環境主義の立場から』御茶の水書房.
  • 鳥越皓之・嘉田由紀子編 1984.『水と人の環境史:琵琶湖報告書』御茶の水書房.

※現在制作中の『環境社会学事典』(丸善)のために書いた中項目「立場性」の初稿

タグ:

コメントを残す