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市民による森林づくり活動の歴史

森林を整備する活動を大きく2つに分けると、林業のプロによる事業と地域コミュニティやボランティアなどによる活動があります。このコラムでは、後者の「森林(もり)づくり活動」と呼ばれる非営利の活動を中心に、その歴史を紹介します。

敗戦直後の国土緑化運動

一般の市民が参加する森林づくり活動の原点は、太平洋戦争後の国土緑化運動にあります。
日本の森林は、戦時中は軍需用材として、戦後の復興期には建築用材や燃料などとして乱伐され、洪水や土砂災害が頻発しました。この敗戦直後の国土荒廃に対する危機感から、1950年に国土緑化推進委員会(「国土緑化推進機構」の前身)が設置され、「荒れた国土に緑の晴れ着を」と第1回全国植樹祭が山梨県で開催されました。全国植樹祭は、その後も現在にいたるまで都道府県の持ち回りで毎年春に開催されています。また、同年に「緑の羽根募金」(現在の「緑の募金」)が始まり、この募金もまた今日まで続けられています。

敗戦から約10年が経ち、復興期から高度成長期へと時代が進むと、森林をめぐる状況も大きく変化しました。経済成長とともに急拡大する木材需要に応えるため、天然林を伐採して成長の早いスギ・ヒノキ等の針葉樹を植栽する拡大造林が推進されました。しかし、1960年代に入ると木材輸入の自由化が進められたため、木材需要の増大分はほぼ外材によってまかなわれました。あわせて、山村の過疎化・高齢化が進み、林業の生産基盤は衰退し、国産材の供給は減少しました。日本の木材自給率は1960年に87%だったものが1970年には45%となり、その後も2000年までは低下傾向が止まらず18%まで落ち込みました。

森林づくり活動の始まりと広がり

国レベルの森林・林業・山村の変化とは別に、1970年代からは自然保護意識の高まりを背景に環境保全運動として市民が森林づくりに参加する事例が現れました。有名な例として、1974年に富山県で始まった「草刈り十字軍」の活動があります。これは、夏の下草刈り作業を軽減する目的で除草剤の空中散布が計画されていたところに、水質や土壌への汚染を危惧した若者たちがボランティアで草刈りをおこなった活動でした。団体設立後30年の間に、のべ約3万人の参加によって下草刈り面積約1,700haに及んだほか、この活動は富山県内にとどまらず、東京、神奈川、京都、滋賀、新潟などにも波及しました。

1980年代に入ると、のちに「森林ボランティア」と呼ばれる市民活動が都市近郊を中心に始まりました。この活動は、目的や場所によって2つに分けることができます。1つは林業地域においておもに人工林の整備に市民が参加する活動で、もう1つは里山地域において雑木林をはじめ樹林地の整備に市民が参加する活動です。

人工林タイプの活動が広がったきっかけとして、1986年3月に東京都多摩地域を襲った大雪の被害がありました。雪害に困惑する関係者に対して、地域の福祉団体「花咲き村」が被害木の片付けを手伝ったことから森林ボランティア活動の取り組みは始まりました。それまで人工林を整備する担い手はもっぱら地権者と林業のプロに限られていましたが、一般市民が地権者からフィールドや技術の提供を受けながら森林の保全・再生にかかわるようになったのです。その後、木材価格が低下するなかで森林整備が行き届きにくいところを、市民がその一部を支える例が増えていきました。そして、各地の林業関係者のコーディネートによって、森林ボランティア活動は全国的に展開されていきました。

新しい自然保護としての里山保全

同じ頃、里山林(雑木林)では、新しい自然保護のかたちとして里山保全活動が始まり、拡大していきました。この市民活動は、守ろうとする対象と守るための手法の両面で、従来とは大きく異なっていました。
高度成長期を経た1970年代の自然保護運動では、原生自然を保存することが理想とされ、人間の影響を排除して自然の遷移に任せることがよいとされていました。このため、森林の場合、原生林や鎮守の森を保護する必要性は理解されても、人びとが手入れをしてきた身近な里山を保護すべきとは認識されていませんでした。

かつて雑木林は薪炭林・農用林として管理され、人びとの生活・生業を支えていました。しかし、日本では高度成長期に、燃料は薪炭から化石燃料へ(燃料革命)、肥料は堆肥から化学肥料へ(肥料革命)と置き換わりました。利用価値を失った雑木林は管理されなくなり、都市近郊では住宅や工場等の開発のために減少しました。
定期的に手入れされてきた里山を保全するには、人びとが継続的に管理することが必要です。この手入れ不足(アンダーユース)問題への対応として、1980年代前半に大阪や横浜などで希少になった雑木林を管理する里山保全活動が始まり、1990年代には急速に全国に拡大していきました。

こうした市民の活動を後押しするように、里山が学術的に見直されるようになったのは1980年代後半のことです。自然環境を評価する上で生物多様性の視点が重視されるようになり、里山の生態系が評価されるようになったからです。実際、2001年の環境省調査によれば、絶滅危惧種が集中して生息する地域の多くは、原生的な自然地域よりもむしろ雑木林のような里山地域であることが明らかになっています。

ボランティアのネットワーク化と森林コモンズの再編

1990年代、人工林と雑木林でそれぞれ展開していった森林ボランティア活動は、次第に各団体が互いの知識やノウハウを情報交換しながら、全国的なネットワークを形成するようになりました。1993年には雑木林の保全・再生活動をおこなう市民団体が集まって「第1回全国雑木林会議」が愛知で開かれました。1995年には、森林ボランティア活動のネットワーク団体「森づくりフォーラム」が結成され、「第1回森林と市民を結ぶ全国の集い」が東京で開催されるなど、市民のネットワークが広がりました。

これらの活動は、森林というフィールドで展開されたので「森林ボランティア」と言われますが、活動の参加者からすると森林をみんなのもの(コモンズ)にするものでもあります。森林ボランティアが登場する以前、森林を管理してきたのは地権者や林業を仕事にする人など直接的な利害関係者でした。入会地(いりあいち)として地域コミュニティによって共同管理されてきた林野も同様です。それが、高度成長期以降、森林の経済価値が低下するとともに、農山村の過疎高齢化が進み、担い手不足が深刻化していくなかで、市民ボランティアは新たな担い手として森林づくりにかかわるようになりました。
森林は、誰が所有しているかどうかにかかわらず、社会全体にさまざまな恵みをもたらします。その公益的な機能を十分に引き出したいと、森林が抱える問題に当事者意識を持って活動に参加するようになりました。つまり、ボランティアにとっては、森林に手を入れるコミュニティをつくり、新しいコモンズを再編する(コモン化)活動でもあったのです。

行政支援の拡充と活動の有機的な展開

1995年は、こうした国内のムーブメントを背景に林野庁による「森林づくり活動についての実態調査」が始まった年でもあります。3年ごとに実施されるこの全国調査によれば、1997年に277であった活動団体の数は2000年代にかけて増加の一途をたどり、2012年には3,060を数えるまでになりました。2000年代に団体数が増えた要因として、1990年代以降に拡大した森林ボランティア活動を行政が積極的に支援するようになったことがあります。多くの自治体で森林ボランティアを積極的に養成し、管理が行き届かない場所へと送り出しました。また、2003年には林野庁に森林ボランティア支援室が設置されました。

森林ボランティア活動が盛んになるとともに、市民が森林とかかわる活動は多様に展開されました。たとえば、1996年、「地球緑化センター」が全国各地の国有林や公有林で森林ボランティア活動をおこなう「山と緑の協力隊」を始めました。2000年、地域材による家づくりと健全な山を取り戻そうと「近くの山の木で家をつくる運動宣言」が400名以上の賛同者を集めてまとめられました。2002年、森林の伝統文化・技能等を次の世代に引き継いでいくため、高校生100人が「森の名人」の語りを聞き書きする「森の聞き書き甲子園」が始まりました。2005年、市民が研究者とともに100円ショップで入手できるグッズで森林の健康度を調査する「森の健康診断」が矢作川流域で始まりました。2014年、野外での自然体験活動を軸に子育て・保育・幼児教育をおこなう「森のようちえん全国ネットワーク」が設立されました。
このように、「森林づくり活動」は森林整備を中心とした活動にとどまらず、森林を育んできた農山村地域と都市住民とが交流する活動、森林の資源や空間を生かす活動、森林の状態を科学的に調査する活動、森林文化をまもる活動などと接続したり、連動したりしながら有機的に展開されました。

森林ボランティアから森林とかかわる仕事づくりへ

2010年代以降の特徴としては、ベストセラーとなった「里山資本主義」(2013年)という言葉に象徴されるように、森林づくり活動をボランティアとしてではなく、企業のCSRや環境ビジネスなどと結びつけて仕事にしようとする動きが強まりました。特に2011年の東日本大震災と福島第一原子力発電所事故の経験は一部の人びとの生き方に衝撃を与え、自分たちの暮らしを自律的に立てていくこと、イニシアティブを握れる範囲で自分たちの住む地域を良くしようとする人たちが現れてきました。2003年に高知から広がった小規模の自伐型林業は、このような思いを抱く農山村への移住者に仕事を提供しています。なお、ここで「仕事」とは、哲学者の内山節(うちやまたかし)の整理にしたがい、お金のために労働する「稼ぎ」と異なり、地域の自然と社会、自分たちの暮らしを維持する人間的な営みを意味します。

2009年度から総務省によって「地域おこし協力隊」が制度化され、過疎高齢化が著しい地方に都市住民が移住・定住する機会が増えました。また、2013年度からは林野庁の「森林・山村多面的機能発揮対策交付金」が始まり、森林(特に里山林)を整備することにも人件費が支払われるようになりました。これらの制度は、森林づくりを仕事にしようとする人を後押しする面がありました。

一方、2010年代に入ると、森林ボランティアの固定化や高齢化が課題となってきました。2000年代初頭では、60歳で定年を迎えて、退職後のセカンドライフとしてボランティア活動に参加する人が少なくなかったのですが、定年が65歳まで延長され、退職後にボランティア活動へと向かう層は減少したようです。また、若者については、環境意識や社会貢献意識が高いものの、将来を見通しにくい低成長の時代にボランティア活動を継続することは難しいでしょう。森林づくり活動の実態調査によれば、2010年代に入っても団体数は増えていますが、その増加率は2000年代に比べて下がっています。

これまでの森林ボランティア活動の歴史を整理すると、①市民による先駆的な活動が広がった1990年代までの萌芽期、②行政による活動支援が充実して団体数が大幅に増加、活動内容も広がった2000年代の拡大期、③団体数の増加が緩やかとなり、参加者の固定化や高齢化が問題化して新たな展開が模索されている2010年代以降の転換期と分けることができます。

これからの森林と私たち

2015年のパリ協定締結、国連のSDGs(持続可能な開発目標)採択以降、グローバルな気候危機への対策のために、炭素吸収源として森林への期待がかつてないほど高まっています。また、日本では2019年度から森林空間を健康・観光・教育など多様に活用するため「森林サービス産業」の創出・推進に努めています。さらに、2020年以降のコロナ禍によって、森林をはじめ自然を求める傾向が強くなったとも言われています。

森林をめぐる経済・社会状況が大きく変化していくなかで、今後の人びとと森林とのかかわりはどうなっていくのでしょうか。
現在の日本は、人口減少、東京一極集中、格差社会、ジェンダーギャップなど、課題を挙げればきりがありません。そうした諸課題を解決し、新たに価値を創造していくためには、日本列島の約67%を占める森林とともに生きることを引き受け、その恵みを十分に生かすことが求められるのではないでしょうか。

(ある依頼原稿の初稿)

よこはま里山研究所のコラム

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