政治と正治

『新約聖書』「ペトロの手紙一」4章10節

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、
神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。


7月10日の参議院選挙が近いので、政治について取り上げることにしました。
この機会に、個人的な話をします。

私の名前は、「正しく治める」と書いて「まさはる」と読みます。

しかし、私が生まれる頃に両親で考えていたのは、政治と書いて「まさはる」と読ませる名前だったようです。
それは、親というより、祖父の思いが強かったようですが、政治に関心を持ってもらいたいという願いから第一候補に挙がっていました。

ところが、いざ名前を付ける段階になると、政治への関心を持ってほしいという方向付けが強すぎて、名前負けしてしまうのではないかと思い直し、一般性を持たせて「正しく治める」の「まさはる」に変えたそうです。

この話は、子どもの頃に何度か聞かされたのですが、一つ年下の弟の名付けのエピソードと比較するとつまらなく、不満に感じていました。
私の弟は、正直と書いて「まさなお」と読みます。
これも、裏表のない正直な人として育って欲しいという親の願いが込められていたのでしょう。けっして、珍しい名前ではありません。
しかし、弟の名付けについては、特別なエピソードがありました。

私の母方の家系から、小説家の志賀直哉の妻になった人がいたことから、祖父との間に交友関係があり、母も面識があって、病床の志賀を見舞ったこともあるそうです。
その志賀直哉から、一字をいただく了承を得て、弟の名前は決められたというのです。
私は志賀の白樺派らしい甘えた感じが好きでは無いのですが、しかし、小学生でも知っている有名な作家から名前を頂戴した弟に対して、自分の名前が平凡であることを不愉快に感じていました。
太宰治から一字もらっていたら良かったのになどと、勝手な妄想をして慰めていたものです。

弟の正直は、幼い頃から物書きになるだろうと予想させるほど読書が好きで、いわゆる本の虫でした。
典型的な文系志向で、大学では文学を学び、卒業後は小説家になりたいと、地方を転々としながらアルバイトをしながら、もの書きを志していました。
そのうち五七五七七の短歌の面白さにのめり込み、現在では評価されて歌人として暮らしています。

また、弟はたしかに正直というか、一本気なところがあります。
たとえば、小学生の高学年の頃です。ケンカが強くて周りも手が付けらず、王様気取りの学年のリーダーに対して、どういう経緯かは知りませんが何かが彼の正義感に火を付けたのでしょう、正面からケンカを挑んだという話を聞いたことがあります。
そのリーダーは、一つ上の学年でもよく知られていたヤンチャだったので、私などは関わらないのが一番と思っていました。
その彼に弟がケンカを売ったと聞いて、正直らしいなと思いつつ、その勇気に対しては内心喝采を送りました。

このように、弟の名前については話せることがあるのですが、私の名前については語れることがないままに過ごしていました。
むしろ、10代の頃は「政治」を遠ざけたい気分もあって、名前についてことさら考えることもありませんでした。
当時、なぜ政治嫌いであったかというと、政治不信が社会的に高まったからではなくて、私の曾祖父や祖父の政治的なスタンスを理解できるようになったからでした。

私の母方の曾祖父、松村義一は、内務官僚、知事を経験した後に国会議員になった政治家でした。
警察を見れば緊張してしまう性格である私の曾祖父が、風紀の乱れを取り締まる国家権力の側にいたことに驚きます。

義一は、戦中、国家総動員法が審議されたときに猛反対したらしく、気概がある人だったようですが、鳩山一郎などに近い考えを持っていて、戦後は再軍備や自主憲法の制定が必要と考えていました。
そのため、軽武装・経済外交を志向する吉田内閣から入閣を誘われたものの辞退したという記録も残っています。
簡単に言えば、今、安倍政権が進めようとしている方向を、曾祖父の義一は目ざしていました。それは、時代錯誤にしか思えませんでした。

一方、祖父の松村一人(かずと)はマルクス主義を奉じる哲学者でした。曾祖父とは、信条の違いから絶縁状態にあったようです。
語学が得意だったようで、ヘーゲル、エンゲルス、レーニン、さらに毛沢東まで翻訳しており、その能力を少しでも孫の私に分けてもらえたらよかったのにと思っています。

一人は、特に中国を理想的と考えていたようで、国交が正常化される1972年以前でも中国へ渡って共産党の要人と交流していました。
私が小学2年生だった1977年に亡くなっているので、ほとんど祖父の記憶はないのですが、その後、大失敗に終わった文化大革命の主導者たち四人組が逮捕されたり、満州、現在の中国東北部から残留孤児となった日本人たちが貧しい身なりで帰国したりするというニュースを見たりしていたので、中国を理想国家とは思えませんでした。

さらに追い打ちをかけるように、1989年には天安門事件が起こりました。
民主化を目ざす学生など市民たちが天安門広場に集結したのに対して、軍隊が出動して武力で弾圧し、多数の死傷者が出ました。
その時は大学1年生でしたが、「祖父が生きていたら、どう感じただろうか」と自問し、おそらく現実を見て考えを改めただろうと思う半面、主義主張にこだわるあまりに、この事件を正当化したかもしれないとも考えました。

つまり、極端に右の曾祖父と、極端に左の祖父がいて、ともに、その政治的な信条に共感するところがありませんでした。
むしろ、理想的な社会の姿にとらわれすぎると、理念のために現実が見えなくなり、現実社会に生きる人びとを悪い方向へと引きずり込むような怖さを感じていました。

だから、触らぬ神に祟りなし。政治には深入りしない方がいいと思っていました。
もちろん、自分の名前のことも深く考えることもないまま、年を重ねてきました。

それが最近、自分の名前について、よく考えるように変わってきました。
たとえば、2014年の年賀状には、「私が授かった名にちなみ、社会が正しく治まるとはどういうことかを考え、行動していく」と宣言するなど、今ふりかえると、年賀状に書くようなことではありませんが、ともあれ、名前にこだわるように心境に変化がありました。
それは、自分の中心的な仕事が、自分の名前と繋がっていると感じられるようになったからです。

私の研究テーマの一つは環境ガバナンスというものですが、簡単に言うと、地域の環境をよくするのにふさわしい統治(ガバナンス)のあり方、社会の仕組みについて研究しています。
つまり、地域の環境を社会が正しく治めるにはどうすればいいか、正しく治まるとはどういうことかなどと考えているわけです。

あるいは、横浜市の市民協働推進委員として、行政、市民、企業、大学などがどのように協働して、公共的なサービスを提供していけばよいのかを議論していますが、これも、これまで行政に任せていた公共空間の治め方、公共サービスの生み出し方をどう変えていくのか。現代にふさわしいかたちで、いかに正しく治めるかと考えているわけです。

また、大学でもそうです。
これまでは、教員組織が中心となって、大学の自治は担われていましたが、今では教員と職員が協働し、さらに学生も参画しながら、大学を正しく治めるにはどうすればいいのか、考える役割を与えられています。

もちろん、この際の「正しい」という言葉には注意が必要で、何が「正しい」かについては、どこかが勝手に決めるのではありません。
関係者が対等に話し合いを重ね、適当な「正しい」の落ち着き先を探っていく必要があります。
そのことも含めて、私の最近の中心的な仕事はすべて、自分の名前に導かれるように「正しく治める」というテーマに繋がっているように思うのです。
そして、これは私の一生のテーマになると感じています。

さらに、この「正しく治める」にはというテーマは、まさに政治の中心課題であることにいつしか気づき、その頃から政治的であることから逃げないでいいと思うようになりました。
ただし、政治活動を禁止されているNPOの代表を務めていることもあって、今でも政治的な発言には慎重ですし、選挙のように勝敗を決めることに関わるならば、勝たないと無意味だという思いもあって、何を言おうか、どう動こうかと考えがちです。

それはともかく、40代も半ばになって、自分に授けられた名前を受け入れることができ、また、「正しく治める」にはを考えることがライフワークと確信するようになりました。

そして、自分が誕生した当時を想像してみるのです。

親が子どもに名前をつけるとき、将来の私の幸せを切に願っていたことでしょう。
いろいろと考えたに違いありません。勇気の要る、だけど、大事な親としての務めです。
その結果が、正治だった。

名付けのシーンとは、すべてそういうものでしょうが、あらためて想像してみると、一生に一度の尊い瞬間です。
そう思うと、自分の名前に従って生きるのも悪くないと思います。
それが政治であった。

だったら、最後にこう言っておきましょうか。
Go Vote!
7月10日の参院選では投票しようよ。

(2016年7月6日、恵泉女学園大学チャペルアワー感話原稿より)

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