『渡辺京二』+『近代の呪い』

近年、本屋に行くと渡辺京二氏の著作や関連本が、かなり目立つように感じる。
これは、渡辺氏が70代後半になっても旺盛な執筆活動をされているからであるが、同時に、私が渡辺氏の書くことに対して、特に最近になって、強い関心を抱いているからであろう。
そこで、渡辺氏に関する本を何か取り上げようと思うのだが、現在、10日間ばかりの沖縄出張中で、手もとに参照できる本がない。
このため、先に私の渡辺京二体験を書いてから、今回取り上げる本について簡単に触れることにしたい。

私が渡辺京二という名前を意識し始めたのは、ベストセラーとなった『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー、2005年)である。
この本は、乱暴にまとめてしまえば、幕末維新期の日本の景観や日常生活などについて、当時の様子を書き残した外国人の滞在記をもとに、失われた面影を記述したものである。
しかし、渡辺氏の個人的な考えがあまり書かれていないこともあって、この本は多くの読者に誤読されたし、当時の私もそうであった。
つまり、「昔は良かった」「昔の日本はスゴかった」という、最近よくあるテレビ番組にも似たところがあって、そのような受け止められ方をしたようである。
だから、多くの読者を得たのであろうが、そのために私は、ほかの著作に手が伸びなかった。

次に読んだのは、『北一輝』(ちくま学芸文庫、2007年)であった。
これは、友人の住む佐渡を訪れる際に、佐渡出身の北一輝のことが気になって手に取った本である。
この本を読んで、思想家としての渡辺京二氏に、ようやく注目するようになった。
徹底的な資史料の渉猟を前提とした、鋭利な分析と深い共感との適度なバランスがうまいと思った。
佐渡では、北の生家に立ち寄ったほか、墓前で手も合わせた。

また、その頃だっただろうか、渡辺京二氏がイヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』(ちくま学芸文庫、1989年→2015年)
訳者であることに気づいた。
これは学生時代に読んだ本で、コンヴィヴィアリティ(自立共生)、バナキュラー(土着的、風土的)などの用語に私も惹かれた。
しかし、誰が翻訳したのかについては、気に留めていなかった。

最近では、高山文彦『ふたり―皇后美智子と石牟礼道子』(講談社、2015年)で、渡辺氏と石牟礼氏との深い関係について知った。
この本では、2013年の天皇皇后と水俣病患者との歴史的な対話実現には、ふたりのミチコの交流があったことが話の軸となっているが、病身の石牟礼氏を渡辺氏が深く温かくサポートしている姿が描かれていて、非常に印象的であった。


三浦小太郎『渡辺京二』

さて、このように虫食い的に渡辺京二氏の著作や活動に触れてきたのだが、本書は氏について書かれた初めての本格的な評伝である。
私は、本書によって渡辺京二氏と出会えたような気がした。

本書は、生い立ち、共産党経験、結核入院、水俣病闘争との関わりなどを調べ、氏の著作を同人誌に書かれたものも含めてすべて読み込んで、渡辺京二氏の思想に迫った好著である。
思想家としては、かつては吉本隆明、谷川雁からの影響を強く受けていたが、西郷隆盛、宮崎滔天、北一輝といった、いわゆる「右翼」思想との格闘、さらに、ポストモダン批判などを通して、独自の思想を鍛え上げてきたことが示されている。
このため、優れたガイドブックにもなっている。

渡辺氏の視線は、つねに「小さきもの」へと注がれている。
近代化を一方ではきちんと肯定しながらも、その過程で失われていくものにこだわり、戦に敗れ、斃れていった一人ひとりの魂に寄りそう。
引いた視点からは、犬死にしたように見える大量の死に対して、ことさらに意味づけするわけでもなく、ただ、まなざしを向けて鎮魂する。
それは、たとえば、「大東亜戦争」を肯定する立場とは、まったく異なる。
アジア太平洋戦争の経験も含む日本の近代化について、うまく向き合えない私は、そうした渡辺氏の姿勢に共感する。
歴史から距離を置いて鋭く分析することと、「小さきもの」の近くで類として共感すること、このバランス感覚が、私には心地よく感じられる。

三浦小太郎(2016)『渡辺京二』言視舎.


渡辺京二『近代の呪い』

次に取り上げるこの本は、熊本大学客員教授として学生相手に話したことや、同じ頃に、依頼された一般向けの講演の内容などがまとめられている。
渡辺氏の思想について理解する上では、格好の入門書となっている。

タイトルに「近代の呪い」とあるが、渡辺氏は近代を否定しない。
近代は人権・平等・自由という贈りものをもたらした。
また、近代化は衣食住における貧困を基本的に解決したと捉える。
もちろん、今日において、社会的な格差は拡大しているという見方はあるし、それは重要な論点であるだろう。
しかし、渡辺氏の認識によれば、それは近代化に伴う本質的な問題ではない。

私たちにかけられた「近代化の呪い」とは、次の2つであるという。
1つは、グローバル経済の進展によって国家間の競争が激しくなり、民族国家の枠組みを強化していくこと(渡辺氏は、ウォーラーステインを引いて「インターステートシステム」から考察している)。
もう1つは、近代科学が私たちの生きる世界=コスモスを対象化して、自然を資源化し、世界を人工化していくこと、である。

近代化の矛盾を凝縮して示された2つの呪いに、私はドキリとした。
私が取り組んでいる研究のテーマは、人と自然のあいだ(都市近郊、里山)、日本と外国のあいだ(沖縄、国境離島)の2つに集約できるが、これが渡辺氏の問題意識と重なっているように感じられたからである。
すなわち、私の問題系を渡辺氏の見方から整理すれば、この「近代化の呪い」をどのように解いて、どう自由に生きるかを考えていると言える。

渡辺京二(2013)『近代の呪い』平凡社.


ここから先の解き方は、理論的な問題であるとともに、どう生きるかという実践と深くかかわってくる。
私には解法が見つかっていない。
手がかりすら見えていない。
何かたしかな手ごたえを感じるときが訪れるのだろうか。

わからない。
しかし、この問題が生涯かけて問うに値するものであるという確信はある。
その思いは、今回取り上げた2つの本を読んで、さらに強くなった。

よこはま里山研究所のコラム
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