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日記帳|2001年3月

3月1日(木)

 3月に突入。来週の木曜日は沖縄にいるのか、実感がわかない。出発する前に投稿論文を仕上げたいのだが、あまり作業をする時間がない。修論をまとめればよいと高をくくっていたら、タイムリミットが近づいてきた。そろそろ本気で取りかからないと。
 と思っていたが、研究室の学生と2時から5時まで話をする。中学・高校時代にどう過ごしたかなど喋ったが、あまり記憶がないことに気づいた。それほど良い思い出が残っていないことは確かだけれど。
 深夜、僕の似顔絵4枚をHPに貼り込む作業をした。この絵は、「もっと・もっと・もーっと神奈川!」でデザインをお願いした勝野さんが書いてくれたものだ。写真を貼るよりよっぽど良いと思う。慣れない作業だから、かなり手間取ってしまった。朝刊が届く前に床に就けなかった。新聞読んでから寝ようっと。

3月2日(金)

 昼からアリスセンターに行く。おそらく次に来るのは4月27日であるから、3月限りで辞める土屋さんに一言あいさつをしようと思って行ったのだが空振り。、どこかに出かけていた。4月以降も会えるには会えるが、アリスセンター・スタッフとしての土屋さんにお別れをしたかった。
 神奈川森林エネルギー工房の「事務局の日」ではあったが、来ていたのは代表の十文字さんだけ。十文字さんと、アリスセンターに最近よく出入りしている三島さんと、環境・エネルギー・田舎などなどについて語った。太陽電池の形が、今後、平面上ではなく球状に変わっていくらしいという話に惹かれた。将来、屋根の上に、大仏の頭のような太陽電池が敷き詰められることを想像すると可笑しかった。1時から4時過ぎまで喋り、またロング・トークになってしまった。
 帰宅してから、アリスセンター発行の「たあとる通信」創刊号を読む。NPOサポートにかんする土屋さんの考えが述べられていた。僕は、行政とかNPOとかをくくって議論できるほど、それらを知っているわけではない。しかし、公務員はできるだけ少ない方がよいと考えているので、民設民営のサポートセンターに思い入れのある土屋さんの考え方に同調した。
 今日はいつもよりも2時間くらい早く朝刊が届いた。せっかく2時頃には眠れるのに、朝刊が届いてしまうと夜更かしをした気分にさせられる。

3月3日(土)

 昼に恩田の谷戸に行った。今日の作業は午前中だけだったので、まったく仕事をすることもなく、先日作った入会案内・申込書を手渡ししただけだった。僕が谷戸に着く前にチョウゲンボウが2羽出現したらしいが、またしても見ることができず、残念。会社にいた頃、さんざんワシタカ類を見てきたので、ときどき禁断症状のように見たくなるときがある。西表島に行けば、カンムリワシを見ることができるけれど。
 夕方から親父の家に行った。使っていないカメラがあるので僕に譲るというのだ。たしかに、カメラを神棚に飾っておいても仕方がない。八重山調査でカメラは使うので、厚意に甘えることにした。久しぶりに上がった親父の家は雑然としていた。いかにも男の部屋という感じだ。親父は、カメラ、絵手紙、篆刻など、自分の趣味について語った。絵を書いたり、書道をたしなんだりする趣味がないので、いままで篆刻には興味がなかったが、すぐに作れると言われたのでトライした。久しぶりに彫刻刀を握った。少し掘っては試しに押し、掘っては押しを繰りかえしながら成形し、「正治」という印を作った。やっぱり下手くそだ。それでも、何かを創造することは楽しい。
 帰宅すると、神奈川森林エネルギー工房に入会を希望する人からメイルが入っていた。HPを見て、問い合わせてくれたようだ。やったね。

3月4日(日)

 今日は、日本の竹ファンクラブの平石さんと溝口さんと3人で、静岡県岡部町に取材に出かけた。朝、8時にレンタカーを借りて、8時半に港北NTで2人を乗せて出発。ちょうどそのとき、雨がぱらぱらと降ってきた。青葉ICから東名に乗ると、西に行くにしたがって次第に雨が激しくなる。が、運転には支障なかったので、約2時間走って、岡部町から近い焼津ICで下りた。
 取材先は2件で、岡部竹炭研究会の伏見さんと、タケノコ掘りとタケノコ料理で有名な民宿「あづま」。ともに面白い話が聞けたが、とりわけ伏見さんの活動には興味を引かれた。岡部町は、タケノコ、みかん、お茶などが有名。その有名なお茶を無農薬で作りたいと考え、竹酢液を作り始めたのが、伏見さんと竹炭との出会いだった。いまでは、岡部竹炭研究会事務局のほか、静岡県たけすみ研究会理事、静岡県竹プロジェクト協会理事なども兼ねている。また、里山を荒らすという竹の悪いイメージを良くするため、昨年から竹の合奏団を設立し、子どもたちでも楽しんでできる活動を展開している。さらに、家が鉄工所であることを生かして、炭窯の販売を手がけるなど、非常に活動の守備範囲が広く、今後の展開に期待を抱かせる。
 帰りは雨も止んでいた。行きには見えなかった富士山が大きく眼前に広がった。久しぶりに大きな富士山を見た。かっこいい。
 7時頃には港北NTに着き、2人を下ろしてからレンタカーを返却。やっと肩の荷が下りた。僕は運転が苦手なので、長時間ドライブしているとかなり精神的に疲れる。今日も、だいぶくたびれた。家に帰る途中、町田のヨドバシカメラでフィルム10本と乾電池12本を購入。これは、八重山調査のためだ。出発の日は近づいている。

3月5日(月)

 午後、土場先生に呼ばれて小1時間話し合った。主に、来年度、授業やゼミをどうするかという話だった。話し合いの結果、環境をテーマに定期的にゼミのようなもの(イメージとしては、今年度の後期に行なった「環境倫理とリベラリズム」のようなもの)を開くことになった。できれば、同じところをフィールドにしている他大学の学生・先生を、ゲストとして招きたいと提案したら、好感触だった。そういう形でゼミができれば、けっこう面白そうだ。問題は、どこから謝金をひねり出すかだ。
 夕方から、研究室でティー・タイム(トーク・タイム)。これが例によって長時間に及び、4人で3時間くらい話をした。最近、試験的にティー・タイムを始め、それなりに楽しい時間を過ごすことができている。しかし、いったん始まると、これに終止符を打つことが難しく、自ずと長期化する傾向がある。議論のうまい締め方を考える必要がありそうだ。
 深夜、帰宅すると、「せたがや自然環境保全の会」から手紙が届いていた。ここは、僕が修士論文を書いたときにお世話になった団体である。手紙の中身は、近く開かれる総会の案内だった。しかし、博士課程に上がってからほとんど活動に参加できていないし、総会のときも八重山にいるので顔を出すことができない。退会を申し出ることにしよう。

3月6日(火)

 今日は、自分の間の抜け方に本当に腹が立った。間抜けなところがあることは重々承知しているつもりだったが、今日は本当に情けなくなった。
 まずは、木曜日に発つ飛行機のチケットである。インターネットで予約をしたのであるが、そのときに出発時刻をきちんと確認しなかったらしい。今日、確認してみると、朝の6時55分羽田発の便を予約していることに気づいた。なに!自分では10時30分頃の飛行機を予約したつもりだったのに。だいたい、そんなに早い時刻に空港に着くことは無理である。気づいてすぐに予約デスクに電話してみたが、キャンセル料がかかることや、航空券の割引がなくなることから、遅い便に替えると2万円以上払わないといけないらしい。結局、前日に研究室で泊まることにした。なんて、こったい。
 次は、電車の乗り間違えである。今晩は、マヤイズミというバンドのライヴに行くことになっていた。7時からスタートすると聞いていたので、研究室を6時半頃出ればよいだろうと考えていた。しかし、来客があったため、研究室を出たのが7時頃になってしまった。前回のライヴには、「行く」と言っておいて行けなくなってしまい、今日は途中からでも絶対に行くと心に決めていたので、渋谷のライヴ会場に向かった。そのはずだったのだが、自由が丘で渋谷方面に乗り換えるべきところを、横浜方面に向かう電車に乗ってしまった。気が付いて引き返したが、ライブ会場に着いたのは8時。すでにマヤイズミのライヴは終わっていた。なんて、こったい。
 帰宅するとポストに白い紙が入っていた。「自転車の鍵は、玄関のポストです。」と書かれている。また、やっちまった。つまり、自転車の鍵をかけたまま駐輪場に置いていたのを、下に住んでいる人が、盗まれたらいけないと、僕の玄関のポストに鍵を入れてくれたのである。これで2度目だ。普通、1度やったら注意するはずなんだろうけど、なぜか僕は同じ過ちを繰りかえしてしまう。そういえば、今日も家の電気を点けたまま外出し、留守番電話はセットし忘れた。これは、日常茶飯事であるが。

3月7日(水)

 10時30分に東大へ行って、ネパール人のパハリさんと会った。買い集めた空中写真を見せながら八重山の調査地を説明した後、明日からの調査についてアドバイスをいただいた。空中写真で判別しにくい情報を、積極的に収集するよう言われた。的確な助言だ。
 午後、というより夕方頃、調査に必要な書類等を取りに研究室へ行く。そこで、4月から新天地に旅立つ島さんに簡単なお別れをした。島さんとは、同じ研究室で3年間一緒だったのだが、いろいろと僕が研究しやすいように気を遣って下さった。感謝してます。今後の島さんに幸多かれ。
 インターネットで時刻表を調べてみると、わざわざ今晩、研究室に泊まらなくても、自宅の最寄り駅から朝5時の始発に乗れば、飛行機に間に合うことが判明。時間にゆとりができたので、髪を切りに行くことにした。美容院で髪を触られるなり、「いい匂いがしますね」と言われる。髪には何もつけていないので、一瞬、どうしてだろうかと思ったが、すぐに理由がわかった。サモア旅行中、ずっと石けんで髪の毛を洗っていたので、日本に帰ってからもそのクセがついている。いま使っている石けんは、フィジーのナンディ空港で買ったもので、南国特有の強い匂いがある。いい匂いがするのは、その石けんの匂いだったのだ。これをきっかけに、石けんで髪の毛を洗うことの是非が気になりだし、美容院を出た後、切らしていたシャンプーを購入した。
 帰宅して、明日の準備にとりかかる。50日間の調査であるから、冷蔵庫に余っている食材を残さないようにする必要がある。普段あまり開けることのない野菜室を開けると、「!」。そこには、キューイ6個、グレープフルーツ4個、レモン5個が入っていた。そうだった。先週の土曜日に、ビタミンCが欲しくなって買いだめしたのだった。すっかり忘れていた。仕方がないから、キューイとグレープフルーツを平らげた。レモンは、どうしようか。

3月8日(木)

 朝早く起きることに苦手意識があるので、昨夜から徹夜して朝を迎えた。5時に最寄り駅を出る電車に乗り、6時55分羽田空港発の飛行機に乗る。西風が強かったため、約3時間かかって、10時に那覇に着いた。フライト中ほとんど寝ていたにも関わらずとても眠い。その上、花粉症のためか調子が悪い。天気も悪い。さい先の良くないスタートだ。本屋に寄った後、那覇グランドホテルにチェックイン。しばらく休むことにした。
 夕方から活動を再開。真夜中に果物を食べて以来何も口にしていなかったので、少し早いが夕食にする。那覇の国際通りにはステーキ屋が多い。昨年来たときからずっとステーキ屋が気になっていたので、体力回復を願って肉を食べようと決めた。味は、230グラム2,500円程度という値段相応だと思う。味よりも調子が良くなればそれでいい。食後、まだお腹に余裕があったので、三線屋、古本屋などを回って、ステーキで補ったエネルギーを多少消費してから、ゆしどうふ定食を食べた。美味い。僕は家でよく湯豆腐を食べる豆腐好きであるが、ゆしどうふを食べるたびに、これを東京でも食べたいものだと思う。
 夜中、アリスセンター発行のメイルマガジン「らびっとにゅず」の編集作業を片付ける。今回も時間がなかったので、前回のフォーマットに従った。どのようなデザインが格好良くて、読みやすいのだろうか。要検討。

3月9日(金)

 午前中、ホテルを出て新金一旅館へ。ここは、部屋がきれいで素泊まり3,130円と安いのが魅力。荷物を預けて、牧志公設市場へ行く。市場の裏側にある沖縄そば屋「丸天食堂」で、朝・昼食兼用として丸天スペシャルを食べる。これは、観光客用の裏メニューで、ソーキとラフテーを一緒に食べられるのでお得感がある。そばを食べ終えた後、生豆乳1杯50円、サータアンダギー1個40円、カーサムーチー1個90円などを食べ歩いた。
 腹ごしらえが済んだので、県庁にある行政情報センターへ行く。ここで、2時過ぎまで資料収集を行なった。作業終了後、歩いて県立図書館へ。ここでも資料収集。コピー代が1枚10円と良心的なのが嬉しい。行政情報センターでは1枚20円だったが。
 6時を回ったので、国際通りに戻り、夕飯に何を食べようか考える。明日から八重山に行くので、那覇らしい食べ物をと思い、タコライスを食べることにした。学生サービスとして、トロピカルドリンクが無料になったのはラッキー。
 食後、初めて「もーあしびチャクラ」へ足を運んだ。残念ながら、喜納昌吉&チャンプルーズは出払っていたが、父・喜納昌永さんは出演していた。「ハイサイおじさん」のとき、カチャーシーで店内は一気に盛り上がる。すっかり、昌永さんに魅せられてしまって、帰り際、芸能活動七十周年CDを購入。旅館に戻って、さっそく聞いてみる。達人による三線の早弾きに興奮。

3月10日(土)

 まず、那覇市NPO活動支援センターへ。ここは、公設のNPOサポートセンターであり、市の職員2名と市民スタッフによって運営されている。市としては市民に運営を任せたいらしいが、まだ機が熟していないという。
 那覇を12時35分に出て石垣に向かうので、その前にパレット久茂地で昼食と決める。たまたま青森県観光物産展という文字が目に入り、わざわざ遠方から来ていて大変だろうと、いかめし、ずんだもちなどを買う。
 2時頃、石垣島に到着。すぐにバスで市立図書館に行き、資料収集。当初予定では、今日中に小浜島に渡る予定だったが、明日も資料収集を続ける必要があるとみて、図書館から近い大和ホテルに宿をとる。
 公設市場で、好物のジーマミ豆腐と島らっきょうを買う。これをつまみに部屋でオリオンビールを飲もうという算段だ。買い物袋を提げてホテルに戻ると、女主人から泡盛をすすめられる。遠慮なくいただくとともに買ってきたものを飲み食いしていると、たちまち酔っぱらい、眠ってしまった。目覚めると真夜中。日記をつけて、また眠る。

3月11日(日)

 ホテルを出て、県立図書館八重山分館で資料収集。その後、12時20分、石垣港から小浜島へ向かう船に乗る。1時頃、民宿「うふだき荘」に到着。ここは、昨年も2週間近くお世話になった宿だ。昨日までキビ刈りにやって来ていた人たちが大勢泊まっていたらしいが、ちょうど入れ違えになったので宿泊客は少ない。
 今日の干潮は2時過ぎで、しかも大潮だったので、今時分、潮干狩りでもやっているのではないかと思い、宿の「おかあさん」に尋ねると、ウータ浜と呼ばれる南の浜に行ってみるよう勧められた。自転車を借りてその場所に行くと、10人くらいの女たちがアーサを採集している。聞くと、今頃がまさに時季だと言う。
 アーサ採りに必要な道具は、ざると手拭いのみ。特別な技量は必要ではない。色の濃いアーサを選んで、それをざるに集め、ある程度の量になったら、付着した砂を取るために海水で洗い、ごみを取り除いてから、手拭いで水分を絞る。これがアーサ採りの工程だ。
 アーサを取り終えたオバアたちが何やら砂浜をほじくり返し始めたので、近寄ってみると、ハモール(ハマグリ)を集めていた。これは何も道具が要らないので、僕も砂をほじって、ハモール、アンプタン、クルバー(チンボーラー)という3種類の貝を集めた。夕方になり寒くなってきたので民宿に戻り、集めた貝を「おかあさん」に渡したら、夕食の時にお椀にして出してくれた。感謝、感謝。
 夕食後は、いつもどおり「おとうさん」を囲んでの宴。19歳の男の子2人が、島の人と一緒に海に行き、シャコガイ、タカセガイ、サザエ、タコを捕ってきたので、それをつまみに頂きつつ、振る舞われる泡盛を飲む。

3月12日(月)

 朝から小雨交じりの強い風が吹きつけている。沖縄に来てからというもの、晴れた日は1日だけ。気温もそれほど上がらない。昨日、石垣島で日本一早い海開きがあったとはいえ、まだ夏気分にはなれない。
 午前中は、八重山調査報告書の校正作業で時間を費やす。14日までにチェックしたものを差し戻さないといけないので、校正を半ばにして郵送してしまう。残りの作業は、メイルにて訂正個所を知らせることにした。
 午後、西にある細崎集落近くの浜に行く。アサリを採っている人、アーサを採っている人がいたので、それぞれに声を掛ける。アサリを採っていたオバアは、午前中、モズクを採っていたそうだ。アサリは昔と違ってあまり採れないらしいが、運動のために浜に来て体を動かしているとのことだ。アーサは、昨日行ったウータ浜よりも良い状態に見える。昨日、アーサ採りに挑戦し損なったので、少し採ってみることにした。オバアにコツを尋ねると、岩に付いているものを採るように言われた。アーサに砂が混じらないようにするためである。両手にいっぱいのアーサを採集したので、民宿にいったん戻る。「おかあさん」に採ったばかりのアーサを差し出すと、アーサ汁にしてくれるという。その後、夕食まで少し時間があったので、自転車で島を一周してみた。ほとんどのサトウキビ畑では刈り取り作業が終わっており、すでに夏植に向けて鋤き起こしているところもある。一方で、刈り取りが終わっていない畑もあって、黙々と仕事をしている姿にも出会う。水田は、田植えの終わっているところと、終わっていないところが半々くらいか。
 夕食には、予定通りアーサ汁が出る。鮮やかな薄緑色のアーサが汁の中で泳いでいる。一口すすると、さすがに美味い。美味いぞ。

3月13日(火)

 午前中、東京でやり残した仕事(締切が近い論文の執筆)に時間を充てる。途中、口寂しくなったので、小浜島産の黒糖を買って、これを舐めながら文章を書く。正午には一段落着いたので、午後から島を回ることにする。
 一昨日、昨日と自転車を借りて島を回ったが、昨夏に来たときと違って、死にそうなほど暑いというわけではない。そこで、今日は歩いて島を回ってみた。製糖工場に近づくと、甘い黒糖の香りが漂ってくる。煙突からは黒い煙が出ている。さらに近づき、網戸越しに工場の中をのぞき込むと、10人程度の人が黒糖を箱に詰めている。一方、工場の空き地には、刈りとられたばかりのサトウキビがうずたかく積まれており、それをシャベルカーで運ぶ作業が行なわれている。工場内には若いアルバイトの女性もちらほらいて、忙しそうに、ときには楽しそうに、何やら仕事をしている。工場が動いているときに小浜島に来たのは初めてだから、何もかも新鮮だ。しかし、この賑わいが見られるのも3月25日頃までという話なので、4月になれば、また静かな姿に戻るのだろう。
 製糖工場を後にして、島の人3人に聞き取りを試みる。70歳を超える人生の先輩たちばかりだ。いずれも小1時間ばかり話を聞いた後、また話を聞かせて下さい、と言って別れる。
 夕食後、昨年から親しくさせてもらっている老人会長を訪ねる。最初はお茶をいただきながら話を聞いていたが、夜だからとアルコールをすすめられる。調子に乗って飲んでいると10時を回ってしまったので、千鳥足で民宿に戻る。ちょっと横になったとたんにグー。就寝。したがって、この日記は翌朝に付けた。

3月14日(水)

 まだ、サトウキビの収穫が終わっていない畑がある。しかし、あと10日もすれば、すべての収穫が終わってしまう。そこで、せっかくこの時期に来たのだから、ぜひキビ刈りを体験しておこうと思い、製糖工場に行ってみることにした。宿泊している「うふだき荘」には、キビ刈りを体験できる「ふるさと農場倶楽部」があるが、僕が島に到着する前の日に、今年の分は終了してしまっていたので、製糖工場のお世話になることにしたのだ。
 工場に入ろうとしたとき、昨年の調査の時に話を伺ったことのある人から声を掛けられた。この人は、昨年、製糖工場から独立して「小浜島ファーム」という農業生産法人の代表となった人で、本土からのアルバイトを10名ほど抱えている。「午後から畑行くか」といきなり尋ねられたので、「行きましょう」と即答して、午後からキビを刈ることになった。また、しばらくの間、朝から晩までキビ刈りをすることになった。後で知ったのだが、ファームのアルバイトとは別に、製糖工場にもファイターズキビ刈りのバイト集団がいる。しかし、この時点では、両者の区別がついていなかったので、てっきり工場のお手伝いをしているものと思っていた。まあ、どちらでも変わりはないけれど。
 さて、昼休みに「小浜島ファーム」の事務所にいると、午前中、畑に出ていてアルバイトが帰って来た。ほとんどが20代で、キャンパー・旅人で占められている。昼食を彼らと一緒にいただいた後、長靴、軍手、衣服を借用し、いざ、畑に出発である。
 キビ刈りの作業は、2つに分かれる。「たおし」と「さらし」だ。「たおし」は、手斧でサトウキビの根本を叩ききり、倒して適当な場所に重ねる作業。「さらし」は、その倒したキビの皮を、専用の鎌で剥ぎ取り、運搬しやすいように積み重ねる作業である。普通、男が「たおし」、女が「さらし」と役割分担するが、今日は、1時から4時まで「たおし」、4時から7時まで「さらし」を行なった。1日の作業を終えて、事務所に戻り夕食をいただく。そう、ファームから食事が3食提供されるので、「うふだき荘」には素泊まりという形で泊まることにしたのだった。

3月15日(木)

 今日は朝から晩までキビ刈りだった。7時過ぎに民宿を出てファームへ。7時30分に朝食をとり、軽トラの荷台に乗って、8時に畑に到着。朝一の作業は「さらし」だ。朝から日差しが強い。しかも、朝露のために湿度が高く、蒸し暑い。今日1日はかなりキツイ日になりそうだ。ひたすらキビの皮をむき、10時のチャウキの時間を迎える。その後、「たおし」。「たおし」は「さらし」に比べると、数段体力を使う。正午前には暑さのためにぼーっとしながら作業を行なう。これが、考えるよりも先に体が動くようになったのか、それとも単に意識が朦朧としていたのか、たぶん後者だろう。
 そして、12時。ファームにいったん戻るため軽トラに乗り込む。このとき、荷台で感じる風が気持ちよい。昼食休憩は1時間弱。1時にはまた畑へ。3時のチャウキまでは「さらし」。チャウキ後、5時までは「たおし」、7時まで「さらし」。午後の「たおし」は、正直、体力を消耗した。やはり、日頃から体を動かさないと。7時過ぎにファームで夕食をとって民宿を戻る。
 キビ刈りの仕事は、毎日が同じ作業の繰り返し。きっと、明日の日記は、今日の日記をコピー&ペーストすればいいだろう。

3月16日(金)

 昨日、「明日の日記は、今日の日記をコピー&ペーストすればいいだろう」なんてことを書いたが、島にとっての一大イベントがあることを忘れていた。それは、NHKの「昼どきにっぽん」というテレビ番組の生中継で、サトウキビの刈り取りの風景を中心としたものが放映されたのだった。ファームのメンバーは、テレビに映るチャンスだからと、中継が行なわれるキビ畑に行って、そこで昼食をとった。テレビを見た島のオバアによると、みんな小さくテレビに映ったらしい。
 もちろん、そんな浮かれたことができるのは日中のうち昼休みだけ。ほかの時間は(チャウキを除いて)、朝から晩まで通常のキビ刈り作業。予定よりも多少遅れ気味なので、日が暮れる7時半近くまで作業する。
 夕食後、ファームの事務所でビールを飲みながらちょっとした宴会。このとき、初めて正式に自己紹介する機会があった。11時過ぎ、ファームの代表ケン兄から声を掛けられ、宴を後にして一緒に車に乗り込むと、「はいむるぶし」にあるバーに連れて行ってもらう。そこで、泡盛を飲みながら島の将来について話をした。4月から、小浜島が舞台になるNHK番組「ちゅらさん」の放映が始まる。秋にはゴルフ場がオープンする。今年から島は、大きく変化してゆくかもしれない。小浜島はいかにあるべきか。

3月17日(土)

 昨晩は、酩酊して民宿に戻ったので、仕事着のまま寝てしまった。朝、5時半に目覚め、その事実に気付く。コンタクトレンズもはめたままだったので、外そうと試みるが、昨夜のアルコールの影響か、なかなか外れない。おぼつかない手であれこれやっているうちに、右のレンズを紛失。賢明に探すも見つからない。あらら。仕方がないので、今日からしばらく眼鏡君だ。
 7時半過ぎに事務所についてからの流れは通常通り。しかし、今日は途中何度か雨が降った。2日前の暑さと同様に、降雨は気候条件として最低。雨が降ると、キビ畑は瞬時に沼地のようになり、ぬかるみのなかでの作業を余儀なくされる。そして、雨に濡れたキビは重くなるので、いつもよりも運ぶのに力が要る。快晴でも雨でもなく、くもりや小雨だとだいぶ楽なのだが。
 昨晩はいつの間にか寝てしまったので、今日、2日分の日記を付けた。疲れたので、今日はこの辺で。時間があるときに、もう少し詳しくキビ刈りの様子を書くことにしよう。
 いけない。大事なことを書き忘れた。お世話になっているケン兄の子どもが、今朝生まれた。出産おめでとうございます。

3月18日(日)

 早朝5時前、激しい雨音で目を覚ます。土砂降りの中でのキビ刈りは辛いに違いない。そう思いながら、7時まで眠り直す。目覚めると雨が小降りになっていた。
 今日の天気は、曇り時々雨だった。だいたい昨日と同じような天気。大雨という最悪のケースは避けられたが、雨の中での作業は気分が暗くなる。作業は通常通り。こう書いてしまうと後に何も続かないので、もうちょっと書こう。ファームに来ているアルバイトは10名強。女は1人で他は男。紅一点の女子大生が、バイト全員の食事を1日3食作ってくれる。男の仕事は、主に2つに分かれる。畑作業とキビの運搬だ。僕は畑作業しかやれないが。キビの運搬とは、キビ刈りを終えた畑に車で行って、積んであるキビを工場まで運ぶ仕事だ。一方の畑作業は、「たおし」と「さらし」の連続。しかし、それは僕らアルバイトの話。手伝いに来ているオジイやオバアは、もっぱら「さらし」に専念する。「たおし」は体力を使うからね。それと、僕はやったことがないが、「苗づくり」という仕事もある。これは、サトウキビの先端部を適当な長さで切り取り、春植する苗を作って、袋詰めするというものだ。
 キビ刈りは、普通、4校時制をとる。8~10時、10~12時、1~3時、3~5時である。10時と3時にチャウキがあるので、2・4校時は2時間より15分程度短い。今は、6時半まで作業しているが、これは残業である。チャウキには、オバアが持ち寄ったお菓子や飲み物などをいただく。たとえば、今日のチャウキには、ゲットウで巻いた餅、バナナ、巻きずし、天ぷら、玄米乳、コーラなどであった。いつも飲食物を用意してくれるオバアたちに感謝。

3月19日(月)

 僕がキビ刈りを始めて以来、ずっと同じ畑で作業を続けている。それくらい、畑が大きいともいえるし、人力でのキビ刈りにはそれくらい人手が必要ともいえる。しかし、やっと今日、すべてのサトウキビを切り倒すことができた。すべてのキビを刈り終えた畑を見回すと、これまでの苦労が報われて、すがすがしい気分になる。
 ところで、今日のキビ刈りの最中にハブが出現した。八重山のハブはサキシマハブといい、毒が弱いらしいが、それでもハブはハブである。あまりお目にかかりたくはない。出てきたハブは、ナリさんによって始末された。ファームの連中は、ハブを何匹殺したか、その数を競っている。今日のハブを殺して、ナリさんは通算4匹でトップ。1匹差の3匹がタクちゃん。次いで2人が1匹で追っている。このままナリさんの逃げ切りか。

3月20日(火)

 今日は春分の日である。が、そんなことはキビ刈りには関係ない。小浜島では1月9日からキビ刈りが始まったそうだが、それから3日しか休日がないというから驚きだ。ナリさんは、その間、1日も休まずに畑に出て、来る日も来る日もひたすら重労働に勤しんでいるのだから頭が下がる。僕よりは7つ年下のようだが、年齢なんて関係ないね。
 さて、今日から新しい畑に移動した。同じ畑で作業するより、違う畑で作業する方が気分転換になる。キビ刈りを始めて1週間になり、仕事のコツは少しつかめてきたするが、疲労はたまる一方だ。腕から指にかけてはパンパンに張って、その張りがますますひどくなる。指がかつて見たことのない太さになっており、自分のものとは思えないほどだ。
 今日は、キビ刈りを始めてもっとも楽しく仕事ができた。さくさくとキビを刈れたし、さらしもすいすいできた。キビ刈りの上達を感じた日だった。
 夕食時、笛名人がやって来た。この人は、竹笛の先生で、文化庁かどこかからお金をもらって、笛を吹きながら世界中を行脚しているらしい。そのためか、沖縄民謡だけでなく、いわゆる洋楽のスタンダードナンバーや歌謡曲なども吹く。その笛の音を聞きながら食事ができるなんて、最高の贅沢ですな。
 夜、土砂降りになった。マサさんが「こういうときに現れる幻の滝を見に行きませんか?」と誘うので、「行こう、行こう」と彼の運転する軽トラに乗り込んだ。かなり期待していたのであるが、到着すると拍子抜け。なんてことはない。小浜小中学校のグラウンドの裏手にある高い擁壁を、雨水が勢いよく流れ落ちているだけである。僕があまり気に入らなかったのを感づいたのか、次にマサさんは「川が流れる道」を案内してくれると言う。これもただ、排水の悪い道路に雨水が溢れかえって、川のように流れているだけではあったが、こっちはかなり気に入った。なぜなら、その道を相当スピード出して走るものだから、まるでスプラッシュマウンテンの最後のザブーンを長時間体験できて、かなり楽しいのだ。車が大きく水しぶきを上げるたびに、大笑いしてしまった。

3月21日(水)

 朝のうちに「うふだき荘」を出て、「ちんちにや」に荷物を移動させる。ここは、ファームのメンバーのうちの半分くらいが寝泊まりしている空き家である。ずっと、1人だけ別の場所で寝泊まりしていたので、最後の日くらい、みんなと一緒に寝ようと思ったのだ。なお、「ちんちにや」とは屋号の1つで、最も高いところを意味するらしい。確かに部落のなかでは最も高いところに位置する家だ。
 ところで、今日がキビ刈り最終日。昨日と違う畑に行った。昨日、キビ刈りの上達を実感したのに、今日は相変わらず下手くそなことを実感した。要するに、サトウキビの状態によるのだ。たまたま、昨日行った畑はキビ刈りしやすかっただけだったのか。
 今日の畑は、周りが木々に囲まれているためじめじめしており、ハブが出ると言われていた。予告通り、ハブは出てきたが、また、ナリさんが仕留めた。ナリさん通算5匹目。ハブハンターの称号は、ナリさんに与えられよう。ハブのほかに変わったものとして、クジャクの卵を6個発見した。クジャクは、もともと「はいむるぶし」で飼育していたものが逃げ出して野生化したものだ。この卵は夕食時に目玉焼きにして食べた。とっても上等さ。一方、ハブは殺したときに腹が割けて蠅が集っていたので、調理しなかった。ほかのメンバーは、これまでに仕留めたハブを塩焼きにしたり唐揚げにしたりして食べたらしいので、一度は食べてみたかったが。
 明日、小浜島をいったん離れるというので、ファームの事務所でみんなに送別会をしてもらった。石垣牛の牛刺しをつまみに酒を飲む。その送別会の途中、製糖工場を見学させてもらう。この工場では、サトウキビの絞りかす(バカス)をボイラー燃焼して機械を動かしている。燃焼灰は肥料として利用されるそうだ。30年以上も昔にできた工場であるが、現代の視点から見るとゼロエミッション工場なのだ。
 いったん10時過ぎにお開きになって、その後、ケン兄の家で宴の続き。先週の金曜日に放映された「昼どきにっぽん」のビデオ録画を見る。あざとく、テレビ中継された畑で昼食をとったことが奏功して、短時間ではあったが、ファームのメンバーはみんなそれと分かる程度に映っていた。
 それにしても、みんな本当に素敵な連中だ。みんな旅人(たびんちゅ)で、それぞれ自立していて、それでいて我が儘でなく、気持ちよく共同作業を行なう。イシさん、カズさん、ヒデさん、タクちゃん、タカさん、マサさん、ナリさん、ユウタ、サナエちゃん、そしてケン兄、みんなどうも有り難う。

3月22日(木)

 1時の船で石垣島に渡ることにしていたので、9時頃起床して、ファームのメンバーがキビ刈りしている様子を写真に収めた。実際に自分が作業しているときには、1人だけ写真撮影するわけにはいかないから、今日まで機会がなかったのだ。それから、大岳(うふだき)の西に位置する展望台(通称:こうふだき)に登って、西表島を眺める。久しぶりの好天に恵まれたので、良い景色を眺めることができた。展望台を下りて、まだ昼まで時間があったので、西端の細崎まで行ってみた。すると、若いアルバイト数人が、大きなざるを前に座って何か仕事をしている。すぐにピンときたので、近づいてみると案の定だ。採集した養殖モズクから、丁寧に不純物を取り除いていたのだ。突っ込んで話を聞きたいところだったが、あまり時間がないので、短く会話して港に向かう。途中、たまたまトラクターを運転しているケン兄に出会い、いったん事務所まで乗せてもらい、その後、1時からの仕事に向かうファームのメンバーとともに軽トラで港まで送ってもらった。
 小浜島のキビ刈りでは、島で一緒に仕事をした人を送り出すとき、島に残った人が港から海に飛び込むという伝統がある。僕が島を発つときは、ユウタとマサさんがその伝統を重んじ、海に飛び込んだ。ただ楽しいから飛び込むのだとは思うが、送られる方としてはなぜだか嬉しかった。でも、27日(火)には、また小浜島に戻るのだけれど。
 石垣に1時半頃到着して、すぐにこの間泊まった「大和ホテル」に飛び込んで宿を確保する。荷物を置いてから、最近の新聞をチェックするために市立図書館に行く。ここではじめて、西表島のPCB処理施設誘致問題を知る。これに対しては、「西表をほりおこす会」の石垣金星さんが反対運動を展開しているらしい。役場が閉まる5時前に、竹富町役場に行き、昨年実施した八重山の観光客入域調査結果について質すが、結果が出るのは4月以降だという。最新の人口動態表だけもらってホテルに戻る。
 先日、泊まったときに泡盛をいただいたホテルの人から、今日は泡盛だけでなく、天ぷら、刺身、おにぎりまでいただいてしまった。夕食は付けてもらっていないのに、これじゃあ、ほとんど夕食1食分を頂戴したことになっちゃうよ。

3月23日(金)

 朝、食事をとりながら八重山毎日新聞に目をやると、西表島大富西工区の開発が事実上中止されるという記事が1面トップに出ている。昨夏の調査で、西工区の受益農家からヒアリングしているので、胸中は複雑だ。そこで食後にさっそく、町役場に足を向け、建設課の土地改良事業担当者に話を伺うことにした。担当者の話では、来週、大富西工区土地改良組合の臨時総会を開き、農家の意向を聴取して、県に伝えるそうだ。
 役場にいるうちにいくつかの聞き取りを済ませようと、商工観光課の人には西表島のエコツーリズムについて、農林水産課林務係の人には西表ヒナイ地区の自然休養林指定問題について話を聞く。また、企画課では竹富町の土地利用計画を借用して、役場を離れる。
 昼食後、今日中に借用資料を複写するため、タクシーで新川のコピーセンターに行き、カラーコピーをお願いする。すぐに出来上がるものと思っていたが、意外にも1時間以上かかるという。仕方ないので、近くにある平和祈念館に行って時間を潰すが、すでに一度見ているので退屈。喫茶店を探すがないので、祈念館の向かいにある具志堅用高記念館に入って、具志堅のKOシーンを見る。何してんだろう。
 コピーを受け取って、タクシーで役場に向かい、資料を返却。それから、バスターミナルから空港線に乗って石垣空港へ。5時頃の飛行機で那覇には6時過ぎに到着。すぐさま、予約してある「シーサー・イン・那覇」に向かい、チェクイン。8時にフロントで松井先生・佐治先生と落ち合い、ちょっと洒落た日本料理屋「野の花」で夕食。すべての料理がきちんと作られていて、とても美味しい。適度にビールと泡盛も飲んだので、ホテルに戻るとバタンキュー。明日も夕食会があるので、きっとバタンキューだろう。

3月24日(土)

 今日・明日は、大塚プロジェクト・沖縄班の研究会。今日午前中の発表のためにレジュメを用意しなければいかなかったが、今朝までに準部ができていなかったので、早起きしてでっちあげた。
 朝10時にホテル内の会議室に集まって、昼食をはさんで5時くらいまで議論。集まったメンバーは、大塚先生、篠原先生、沖縄班の松井先生、鬼頭先生、佐治さん、関さん、そして僕の7人。やはり他人と話をすると、自分が気付いていなかった点を指摘されるので役に立つ。
 研究会が終了後、夕食までに小1時間あったので、牧志公設市場へ足を運ぶ。そこで、竹炭・竹酢液を販売している出店を発見したので近寄ってみると、浦添市に炭窯のあるかぐや支援ネットワーク沖縄が作ったものだった。少しだけ店の人と話をして、近い将来お邪魔することを約束する。その後、お気に入りの1杯50円の豆乳を飲んだほか、食事前なのに野菜そばを食べる。
 夕食は、昨日も行った「野の花」で研究会のメンバーと一緒に食事。その後、別の店に行って12時近くまで飲む。ホテルに帰ってテレビをつけると、プロ野球パリーグが開幕していた。

3月25日(日)

 朝7時半からサッカー日本×フランスを見る。まったく歯が立たないので、後半途中でテレビを消し、ベッドに横たわる。すると、いつの間にか寝てしまい、目覚めると9時半過ぎ。9時半にフロント前に集合しなければならなかったので、慌てて跳び起きて行くと、みなさんお偉方が集まっていた。恐縮。
 10時頃、県立博物館へ全員移動し、そこで研究会を昼頃まで行なう。昼食後、博物館で伝統工芸の記録映画を2本見る。1本は「久米島紬」、もう1本は「沖縄の焼物―伝統の現在」。前者は、久米島紬の製作工程を丹念に撮影した1時間の映画であるが、とにかくその手仕事の気が遠くなるような時間の掛け方に驚き呆れる。後者は、松井先生が監督、篠原先生がコーディネーターで、かねてから見たかったものだ。比較的若い40代後半の人たちが、かつて沖縄の美しい焼物がつくられたときのスタイル、すなわち、共同作業で大型の登り窯を使って焼くやり方で焼物を製作している姿を中心に撮影された1時間半の映画である。現在のなかで伝統的と呼ばれる焼き方が死んでおらず、生き生きとしていることに非常に魅力を感じた。また、焼物を焼くときに、製材所の端材を大量に燃焼させるのであるが、これも木質バイオマス利用という視点から見て、興味を引かれた。

3月26日(月)

 午前中、那覇の本屋を巡るが、すでに欲しい本は購入済みで、新たに買うべき本は見当たらない。昼時、昨晩の夕食時に美味しいと話題になった豚カツ屋「とん一」を訪ねるも、定休日で休み。がっかり。
 2時前に那覇を発つ飛行機に乗って石垣島へ。空港でタクシーを拾って、県の八重山支庁に行く。ここで、統計資料を収集。ほかに、西表島のエコツーリズムについて、アンケート調査を実施している研究を発見。
 今日は、小浜島ファームのキビ刈りの仕事が終わる日と聞いていたので、石垣の市場で打ち上げの差し入れ用に果物等を買い、5時過ぎの船に乗って小浜島へ。着いた桟橋に、たまたまケン兄がいたので声を掛けると、「乗って行け」と言われる。港から部落までの交通手段を決めていなかったので、これは幸いとワゴンに乗り込む。「宿は取ったか」「まだです」「じゃ、ウチに泊まれ」と、ケン兄の家に泊めてもらうことになった。
 ケン兄は公民館の会計監査があるというので、僕を家に届けるとすぐに出て行った。荷物を下ろして一息ついていると、ケン兄の息子のユウマとタクマが帰ってきた。いきなり将棋板と駒を持ってきて「将棋をやろう」というから、久しぶりに指すことになった。2局ずつ対戦を終え、4戦全勝。将棋を覚え立ての小学生相手だから、当然の結果であるが。
 夜、「ちんちにや」で、イシさん、タクちゃん、マサさんと飲みながら語らう。このとき、はじめてハブの白焼きを食べた。骨が多いが、鶏肉みたいで、けっこういける。気が付くと、2時近くになっていたので、結局「ちんちにや」で寝かせてもらうことにした。

3月27日(火)

 今日は旧暦3月3日。八重山方言ではサニズ、いわゆる浜下りの日だ。2時半が干潮だったので、1時過ぎに島の北東にあるアカヤ崎に行って、浜下りに来る人を待つ。しかし、まだキビ刈りが終わっていなかったこと、雨が降っていたこと、あまり潮が干かなかったこと、部落内で故人の十三回忌の法要が行なわれたことなど、浜下りにとっての悪条件が重なって、10人程度しか来なかった。場所を改めて、島の南にあるウータ浜に行ってみると、もっと人数が少なくたった3人しかいなかった。部落の女性の誰もが浜下りすると期待していたので、落胆。それでも、ウータで貝採りをしているオバアから話を聞いて、5種類の貝の方名を覚える。
 夜、ファームの仕事の打ち上げがあった。ほぼ3ヶ月に及ぶキビ刈りが終わったので、ケン兄をはじめみんなで大はしゃぎ。生まれて初めて「ビールかけ」をした。その後、「はいむるぶし」にあるカラオケで盛り上がり、深夜まで騒ぐ。

3月28日(水)

 朝の8時過ぎから、ファームのメンバーと製糖工場にアルバイトに来ているファイターズのメンバーが集結して、黒島さんの家の瓦下ろしを手伝う。これは、黒島さんがいったん家を壊して建て替えるというので、その前に瓦をとっておくために行なったものだ。下ろした瓦は、建て替えた家の屋根に再利用される。八重山の家では、基本的に瓦と柱は再利用される。今回、下ろした瓦も1913年につくったものらしい。20世紀の初めにつくられた瓦が、21世紀まで生き続けるのである。柱も同様に、かつて西表島から伐採してきたイヌマキ(方名:キャーンギ)が、ほぼ1世紀近く生き続けている。
 昼食には呉汁が出た。ダイズをすりつぶした汁に、肉や野菜を入れたものだが、これが美味しい。小浜島は、もともとダイズの名産地なので、呉汁は小浜の郷土料理として売り出せるのではないかと思った。いまのところ、この呉汁を島内で食べることは難しいから、どこかで食べられるところがあると嬉しい。
 3時からは、瓦下ろしの作業に関わった人たちで宴会。黒島邸の敷地内で、刺身と鮨をつまみに飲む。このとき、ダ・パンプのシノブのお父さん(ヒデミツさん)と話をする機会を得た。天気が悪かったので、野外での宴会は寒い。暖まろうとして泡盛を飲むも、全然暖まらない。そのうち眠くなって就寝。今日から寝床は、ビーチャーの館「ちんちにや」から大久屋の敷地内にあるプレハブに移動。

3月29日(木)

 今日は肉体労働することもなく、部落内をぶらぶらと歩き回り、適当に人をつかまえたりしながら聞き取りをした。数人と話をした中で最も印象深かったのは、キビ刈りで2日間一緒の畑で働いたオバアだった。家の周りを掃除しているところを見つけたので話かけてみると、そのオバアが竹富町内でも数少な経糸・緯糸とも芭蕉を使って芭蕉布を織ることのできる人であることが分かった。芭蕉布といえば喜如嘉が有名であるが、喜如嘉では糸を機結びして繋げるのに対して、八重山では縒りをかけて繋いでいく。ということは、正統八重山式で芭蕉布を織れるのは、このオバアを含めてほんの数人だけだろう。そういうオバアが、サトウキビ栽培と肉牛の生産も人並み以上に手がけており、ただただ感心するばかりであった。
 昨日、話をしたヒデミツさんが経営している民宿「宮良荘」にも行ってみた。1度泊まってみたかったので、宿泊の予約状況を伺うと、4月2日以降ならば空くというので、とりあえずその日に1泊予約した。
 夜は、ファームのメンバーおよび畑仕事をともにしたオジイとオバアが集まって、改めてキビ刈りの終了を祝う宴会があった。一人ひとりが一言お礼を述べる機会があって、タクちゃんが涙しながらみんなに感謝したとき、心を打たれ、思わずもらい泣きしてしまった。にもかかわらず、グラス1杯の泡盛一気飲みを続けていたら、完全に酩酊。島に来て以来、最も酔っぱらい、訳もわからないまま眠ってしまう。

3月30日(金)

 午前中、すでに島から消え去ったマイナーサブシステンスについて聞き取り。水田に棲息するウナギ(方名:ウネー)やシッチャイと呼ばれるカニやターコンブという水草などの取り方、食べ方などを聞く。ほかには、ホービルと呼ばれる樹木から糖尿病に効くお茶をとる人に出会い、500ml分のホービル茶をいただく。味はハトムギ茶に似ていて、癖がなく飲みやすかった。
 昼から、ヒデミツさんの船で嘉弥真島へ。島を一周したほか海で泳ぐ。まだ少し寒いけれども、十分に泳げる。やはり海はいいね。あらためて思う。
 夜、部落の人を訪ねるが、みな留守。明日、公民館の総会があるので、そのための打ち合わせがあって忙しそうだ。諦めてプレハブに戻っていると、大久のお父さん(ケン兄のおとうさん)がわざわざ一升瓶を持っていらっしゃった。そこで、大久のお父さんを囲んでささやかな宴が始まる。試しに泡盛のホービル割りを飲んだが、けっこういける。深夜2時過ぎまで島談義。 

3月31日(土)

 現在建設中のゴルフ場の工事現場に向かう。このゴルフ場は、自動販売機なんかを売っている(?)ユニマットが手がけているもので、今秋にはオープンの予定だ。昨夏来たときも、すでに工事は始まっていたが、その後、工事が本格化したので、その間の豹変に驚いた。
 午後は、自転車を借りて、島の西端にある細崎(くばざき)まで行く。ここは、昔、糸満系の漁民が移り住んだところで、いまでも海人(うみんちゅ)の部落である。ゴルフ場開発によってマイナスの影響が生じるとすれば、その被害を最も受けるのは海人である。だから、現在の開発をどのように捉えているのか、海人に意見を尋ねてみた。モズク養殖を手がけている女の人が、開発による海洋汚染をとても危惧しており、被害が生じたときにきちんと補償金が支払われるのか分からず不安だと、心配そうに話された。こういう心配を取り除くために、僕は調査結果を活かさなければいけない。
 夜、ファームの軽トラを借りて、細崎公民館へ。細崎部落の総会が7時から開かれたので、話し合いが終わった8時半頃を見計らって訪れてみた。着いたときはすでに総会は終わっており、新旧の正・副公民館長が揃って「つかれなおし」していた。すでにアルコールが入っていたので、ぶっちゃけた話を聞こうと思い、ひととおりの挨拶を済ませた後、ゴルフ場開発について率直に尋ねてみた。開発はおおいに結構だが、被害発生時の補償を確約することが必要と訴える人。開発のすすめ方に細崎の海人を軽んじている向きがあり、気に入らないという人。もうこれ以上、島が変わらないでほしいという人。同じ細崎に住んでいる人でも、考え方はまちまちだ。こうした多様な考え方があるとき、どのように物事をすすめていくべきなのだろうか。「わっからんさ」。

TOP(日々の表現)雑記日記(2001/2/8-2003/8/25)

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